2010年01月26日

中尊寺金色堂

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岩手県奥州市水沢での講演会の帰路、
同行の武部建設専務さんと、建築散歩して参りました。
正法寺の茅葺き屋根を見に行って、その後、
世界遺産申請している平泉にも足を伸ばしました。
でもそのあと、福島県に移動しなければならなかったのに、
っていう意味では、スケジュールは無謀に近かったですね(笑)。
でもまぁ、なかなか来られない武部さんのことも考えて
あえて、ハードスケジュールに。
「世界遺産になれるかどうか、みてやろう」みたいな意気込みが
武部さんから発せられていて、
わたしもつい引き込まれてしまっておりました。
わたしは何回か見に来ているので、どうしても好意的にしか見ることができませんが、
予断のない見方というのも重要ですよね。
なんですが、そういわれてみると、
ということで、わたしも気になる点がありましたですね。
写真は金色堂へのアプローチ画面です。
よく知られたアングルで、杉木立のなか、
たたずんでいる金色堂・覆堂の表情であります。
で、なかを見学してきたのですが、
わたしには、この覆堂がなんとも言えずさみしいものに感じられてなりませんでした。
なにがって、これってコンクリート製なんですよね。
中に収められた金色堂は、精巧な復元作業などで
平安期の工芸技術の素晴らしさ、末法思想の生々しさを今に伝える
そういう雰囲気を持っていると思います。
ところが、あまり考えていなかったのですが、
世界遺産の認可委員の立場になって考えてみると、
それを覆っている建物の方に目が行ってしまうなぁと感じた次第。
外観的には、雰囲気を壊さないようにしたものでしょうが、
木造の建築デザインをなぞるように柱や梁のような
「贋物」的な表層デザインが施されているのですね。
まぁ、単純に金色堂を保護するという機能であれば、そういうデザインの贋物さは
不必要であり、もっといえばまったくふさわしくないとも言えます。
金色堂のデザイン、そのありように敬意を持っていれば
このような安直なコンクリートデザインはありえないのではないか。
まぁ、この覆堂がたてられた時期は、そういう感覚はなく、
防御的な機能で考えた正直な結果だったのは無理からぬと思います。
しかし、ひとたび世界遺産申請をするのであれば、
こういう覆堂のありようや、中尊寺高台からみえる平泉遺跡跡地に
景観を破壊するように建設されたバイパスなど、
コンクリート建造物への無自覚な開発姿勢というものは、
世界遺産にふさわしいものかどうか、
評価員にけっしていい印象を与えられないのではないでしょうか。
どうもそのように見直してみている自分がおりました。
少なくとも覆堂、大型木造建築として再建できないものでしょうかね。
できれば、「東北らしさ」を表現する大建築コンペとして
やれないものか、と夢想が膨らんでおりました。

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2010年01月21日

土器による煮炊き

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さて、本日は岩手県水沢市で講演を予定しています。
札幌からは武部建設・専務さんもフライトしてきて合流予定。
なんですが、わたしはきのう、秋田に来て仕事の会合一件。
ということで、今現在は秋田市におります。
ここんとこ、めまぐるしく移動しているので、日の感覚と場所の感覚が
どうも不明になって参りました。
きのうは歴史好きな方とすっかり意気投合しておりましたので
話はあちこちと飛び回っておりまして(笑)
で、本日は土器の煮炊き研究であります。
写真は、どっかの展示で見たイラストなんですが、
底が三角になっていて、安定の良くない土器ってよく見ますね。
あれって、どうやって使うんだろうか、
って、ちょっと考えればすぐに推定は付くのですが、
あんまりわかんなかったんです(笑)。
で、この写真を見て納得。
なんですが、描き方はどうもあいまいで、描いたひとも半分わかっていなそうです。
こういう円錐状の底面を持つタイプの土器は
どうも、かまどに乗っけて煮炊きしたようだと思います。
かまどに穴を開けておけば、ちょうどピッタリとはまるようになる。
それで、下から火を焚いてやればいいのでしょうね。

土器の発見って、
けっこう新しい発見だったようで、
人類の食生活が飛躍的に豊かになっていったものなのだそうです。
こういう煮炊き道具ができたことで、いろいろな食材を食べることが可能になった。
北海道の歴史で言えば、こういう土器の時代があって
その後のアイヌの時代になると
煮炊き道具は、ヤマト民族との交易の結果得られる「鉄鍋」になって
その結果、住宅から「かまど」が姿を消したのですね。
そういう意味では、どうも退化したような印象を受けます。
鉄鍋だと、いろりにそのまま自在鉤で火にあぶれるので
わざわざ、面倒な思いをしてまでかまどを造作する必要がなかったのでしょうね。

どうもさすがにやや疲れ気味のようです。
もう少しでいったん札幌に帰れるので、頑張ります。
どうも内容の薄いブログで申し訳ありません(笑)。

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2010年01月09日

中国国家との歴史的緊張関係

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先日の岡田英弘さんの著作の続編です。
「倭国の時代」なんですが、
わたしにとっては、まさに目の覚めるような歴史観で、
古代史というものが、かなり明瞭に見えてくる部分がありました。
で、一貫しているのが、
アジア史全体の中で、中国皇帝権力というものとの
緊張関係という、アジア史の基本要因について
日本の伝統的歴史観はあまりにも触れてきていない、という視点です。
これはよくあるのですが、
江戸期の「鎖国」の影響がいまだに日本人の意識の基底にあるのでは?
と疑われるほどなのですが
海で国境が別れているという意識が強く存在する。
むしろ、古代人の朝鮮半島への出兵記録などを見れば、
その当時の人々の方が豊かでリアルな国際感覚を持っていたと思えるほどです。

北東アジア世界は、なぜ、ヨーロッパのように
各民族での独立国家的な方向に向かわずに、
「中原に鹿を追う」ような統一的皇帝専制権力構造に向かったのか?
中華、という世界観によって中国皇帝が世界を支配するという
まことに周辺民族にとって困る方向で歴史が推移してきた。
で、そのような強大な武力国家の脅威というのが
日本や朝鮮の歴史には色濃く反映しているのだという理解、
視点が絶対に欠かせないと思うのです。
朝鮮など、歴史的に常に中国との切迫した緊張関係にさらされてきた。
日本はまだ、そういう部分では直接的脅威が少なかったとは言える。
しかしそれは朝鮮との比較の問題であり、
とくに日本国家創成期、どうもそれは天皇の代でいえば
天智や天武の時期のようなのですが、
その時期までは、中国的な専制権力機構ではなかったものが
中国の脅威の中で、対応的に強い中央集権国家志向が高まったようなのです。
この時代、中国では超スーパー強大国家・唐が成立しており、
まさに日本の政治権力がそれにどう対応すべきか、
大きくゆれ動いていた時期なのですね。
白村江の敗戦、大化の改新や壬申の乱、近江令の制定など、
古代の動乱は、まさに唐との緊張関係の中で生起した事態だったのでしょう。
このような国際関係の把握が絶対に必要なのだと思います。

まぁ、日本人の心の中に
中国皇帝権力に対する嫌悪感、というのは相当に沈殿している
気分として、わたしたちには相続している部分はあるでしょうね(笑)。
ただ、現代のアメリカとの関係を想定すれば、
そういうなかで、なんとか切り抜けてやってきたのが歴史でもあるわけですね。
白村江の敗戦というのは、第2次大戦での敗戦と
同じくらい強烈な民族体験であったともいえる。
その敗戦の体験をなんとか切り抜けるために、
倭国から日本国という新たな体制を取った、という意味では
起点的な事態だったということ。
そのときに、いろいろな国内的な政治的思惑が複雑に絡み合って
古事記や日本書紀などの神話が便宜上作られた。
そういうものが、国家創成の経緯であって、
そのアンタッチャブルが今日まで続いている部分があるというのではないでしょうか。

まぁこのように整理した歴史観が見えてくると、
日本の社会のシステム整理にも、大きな知恵になってくると思います。

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2010年01月07日

白村江の戦い

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本日は「暖房の話」、ちょっと一休みさせてください(笑)。

歴史家・岡田英弘さんの著作を読み続けています。
っていっても、購入したのはもう10年以上前の文庫本で、
気が向いてから、寝る前の睡眠薬として活用してきたので(笑)
最近になってようやく、その本格的な部分が見えてきたという次第。
タイトルは「倭国の時代」です。
外国の、たとえばギリシャやローマの歴史などは
詳細なテレビ番組などになったりしていて、
かなり西洋の古代史の研究っていうのは進んでいますが、
中国の古代史と比較しても、どうも日本の古代史は、霞と闇の塊のようで、
天皇制という触れられない部分が関わらざるを得ないので、
スッキリと見えなくなっている部分が大きい。
しかし、たとえば白村江の戦いなど、
「日本国家」成立と深く関わっている時期の国際関係はかなり明瞭。
白村江の戦いって、中国に唐という超強大国家が出現し、
それと古代以来の部族連合的国家群との戦いだったと思われます。
朝鮮半島から日本列島にかけては、
古代的な部族国家がたくさん存在するような状況だったのではないか。
倭国の卑弥呼などの調整型権力というような存在が
この列島社会の伝統的な「王権」のありようだったと思います。
それに対して、明確な国家体制としての「律令」を持つ専制国家・唐が
軍事としても文化としても、圧倒的な威圧感をもって登場してきた。
そういうものに明確に敗戦したのが、白村江の戦いだった。
ときの天皇が九州北部に居を移し、実質的な宰相だった皇太子・天智天皇が
直接軍を指揮して戦って、敗戦したのですね。
「にぎたずにふなのりせんと・・・」という万葉の歌は、
この戦役に向かう軍船団の出航の様子を謳った戦争の歌なんですね。
この敗戦の結果、やはり進んだ律令国家体制をこの列島社会に作らなければ
唐に占領支配される、という強い危機感が支配層に充満した。
敗戦後、国防的な一連の処置を行ってからでなければ、
天智は即位もできなかった。
で、白村江の戦いをともに戦い破れた、百済からの難民を受け入れたのが
関東であったのですね。
そういえば、古代で関東の中心だった「毛野国」の豪族長とおぼしき人物が
白村江の戦いの指揮官として名前も見えている。
そして、天智の死後、天智の息子との武力衝突・壬申の乱によって
王権を得た弟・天武は、関東の武力を利用して勝利者になったといわれる。

このような光景が、どうも見えてきた。
岡田さんという方は、ずっとこういうスタンスで古代史を
説き続けてきているようです。
で、このような古代史の最大事件の周辺で、
「日本」という国家が目的的に創設されてきたのだ、というのが結論的な部分。
古代史というと、魏志倭人伝や、古事記・日本書紀だとかの
「ために創作した」と思われる記述に振り回されて、その記述解釈に
血道を上げているような傾向が強いなかで、
まさにクリアに見えてくるような著作だと、感銘いたしました次第です。
東アジア3カ国・日本・韓国・中国による
共同歴史研究って、きわめて大切だと思う次第です。
最近のNHK歴史番組などでも、たとえば元寇の元の撤退の真相分析など、
たいへん客観性に満ちた歴史が立ち現れてきています。
どうも、日本の歴史学会や認識が世界標準からはだいぶ、ずれていると感じます。
このような研究の一層の進展に期待したいと思います。

きのうから本格的な仕事が始まっていまして、
さっそく長期出張が始まりそうな様子なんですが、
きょうは久しぶりに爽快な歴史ロマンのお話しで、一服清涼感を感じています(笑)。
写真は、北海道中世の上ノ国の軍事集落再現模型です。
まぁ、昔から軍事と権力は一体のものですね。


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2009年12月27日

百済と天皇家

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歴史の解釈というか、理解において
ずいぶんと国民の認識の違いがあるものと思われることが続いています。
最近では小沢民主党幹事長の一連の発言があるけれど、
あれをもって「不敬罪」だと書いている「週刊新潮」に至っては、
どうにも、まぁ、という感想を持たざるをえない。

以前、あるひとから真顔で、
「天皇は百済の国から来たと、公式に発言した」
というように言われて、「え、それ何? 本当に?」と
聞き返したところ「え、知らないの?」と問い返されてしまった。
そのことがどうも心に残っていて、
先日来、その根拠に近いことの事実を確認してみました。
そうすると、今上天皇が日韓共催となったサッカーワールドカップ開催への祝意を
記者会見で述べたくだりの中に
「続日本記」の記述には、平安期初頭の天皇・桓武は
百済の国からの渡来王族の子孫を母としているとあるので、
韓国にはゆかりを感じる、と話されたという事実があるということ。
どうもこのことが、「百済から来た・説」につながっているようなのですね。
歴史の理解がやはり相当におかしいのが今の日本の現実のようです。
事実は、天皇が話されたままであって、
そういった血筋も天皇家には入っているのは事実でしょう。
ただ、歴史的事実として百済からは大量の渡来民が来ていて、
その後、6世代を経た子孫の女性が後宮に入って天皇の子を身ごもった。
普通に考えれば、大陸からさまざまな先進技術をもたらした渡来民から
そうした身分を獲得する家系が出るのも必然でしょう。
そして自らの氏素性を明らかにするに際して、
民族としてのアイデンティティとして、百済王族の流れであると表明するのも
きわめて自然なことだと思います。
日本の歴史が進んでいく過程では
そもそも文字や、社会制度まで含めて
中国を中心とするアジア世界から「文明」を受容し続けてきたのが
きわめて重要な要素だと思います。
そういう意味では、天皇家に渡来人の血筋が入るのもごく自然。
そういうことを重大視したり、タブーにしたいと考える
勢力や考え方がこの国に深く根付いていることの方が奇異だと思います。
そもそも歴史の説としての「騎馬民族説」があり、
それが大きな流れを生んでいることも事実。
まだ、日本の「天皇家」というものの成立については
タブー視する権力機構(宮内庁など)の存在もあって
天皇陵とされている古墳の調査もやられていないのが実態なのですね。
これでは科学的に論じたいと思っても難しいのが現実。
古事記というものにしても、
口承として伝えられていたものをもとに遙かな後世に記述したもの。
その内容については、よくわからないことばかり。
天皇の実在すら疑わしいものが多い。
昭和天皇も、ある晩餐会の席で
「推古(592〜628年在位)以前の日本の天皇の歴史はよく分からない部分が多い。」
と語ったといわれている。

わたし自身も、先述の天皇会見を報道では見ていなかったし、
たぶん、マスコミでは大きく扱わなかったに違いないのでしょう。
こういう事実が正しく伝わりにくい、ということのほうがおかしいのではと思います。
というようなことで、
本日は歴史なのか、状況へ発言なのか、ですね。
そろそろ年末年始時期に突入で、きのうも
買い出しに行ってきたものですから、このブログもふだんの話題から
ちょっと違う方向に行くかもしれません(笑)。


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2009年12月05日

厚岸国泰寺の古桜

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ふたたびきのうの続編です。
国泰寺は桜の名所とされているそうです。
ほぼ桜前線日本最北端ということになるでしょうが、
その桜の由来が一枚の看板に書かれていました。
それによると、創建1804年から28年後、
本堂と庫裏を修復するときに、
「厚岸場所」請負人、山田分右衛門が奥州石巻から
移植したと伝えられる古木と言うこと。
桜は、移植され続けていくものなのだそうで、
当時の全国の桜の名木のなかで、北方の気候風土に似合うと想像された
奥州石巻から、持ってきたのでしょうね。
この記述から、いくつかの類推が浮かんできました。
ひとつは、創建から30年を経ずして修復が行われたと言うこと。
一般的な経年的なメンテナンスであれば、
わざわざ桜の古木の移植など、付随的に計画しないでしょうから
かなり本格的な修復をせざるを得なかったのだろうということ。
まぁ、これは本来、居住用ではない宗教的な建築なので
建築の常識的にも、通風換気を重視して
木材の耐久性を優先する工法で建てるのでしょうが、
そういうふうに考えて建てても、寒地では劣化がすさまじかったのではないかと推察します。
まぁ同じように建てられているに違いない僧侶の生活領域の
「庫裏」の建築的劣悪さはものすごかったでしょうね。
マイナス30度に平気で下がる上に、太平洋からの寒風が吹きすさぶのですから
そういう条件下で、隙間換気をむしろ重視した建築では
立ち行くワケもなかったでしょう。

次に、経済的な側面ですが、
こういう格式を誇る寺ですから、
幕府官営の寺なので、この地域の最高権力者、
このときには「場所請負人」がそれに相当したようですが、
かれからの援助があったということ。
まぁ、官営なので基本的な建築費の部分は公共事業でしょうが、
こういった桜の寄贈などは行われたでしょう。
場所請負人とは、漁業を中心的な経済基盤とした北海道での
独特な収奪方式で、漁場を経営する権利を商人に請け負わせて
幕府や松前藩はその上前をはねるという構造だったのですね。
江戸期の独特な官と、商人との関係なワケですが、
そもそもこういうシステムが発生したのは
幕府が松前藩から蝦夷地の経営権を取り上げて直轄地にしたことがきっかけ。
で、公共が直営したら散々な経営実績だったのです。
それで、その財政負担に音を上げて、商人に払い下げた、ということだそうなのです。
で、そういう経緯なので商人たちの決算報告でも
いやぁ、ことしも赤字でございまして・・・、
というようになっているのが一般的。
なぜかといえば、黒字を出せば、商人側から見て何一ついいことがないのです。
残された大福帳上ではそうなっているのですが、
どう考えても、利益にならないことはするわけがない。
それにこの請負権利の取得には相当、執着している連中が多い。
その辺はあうんの呼吸で、官と民の談合、「◎○屋、おぬしも悪よのう、むふふふ」
というような世界が赤裸々に展開したのではないかと想像されます。
そういった請負場所のことが透けて見えてきます。
また、この桜が石巻から来たと言うことは
この当時、太平洋まわりの航路も使われていたのかも知れないなぁと
想像が起こってきます。

一枚の立て札ですが、
いろいろな事情が推察されて、しばし、立ち止まってみた次第です。


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2009年12月04日

国泰寺・唐破風

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きのうの続きであります。
国泰寺の本堂入り口と思われる様子であります。
どうも、本堂は風雪に耐えきれず、建て替えられたようでして
外壁などに新建材の類なども使用されているようです。
「史跡」の指定は受けているようですが、
この場合には十分な保護施策ができないと言うことなのでしょうか。
そもそも北海道にはこういった保護されるべき歴史的遺物が少なく、
国宝に至っては、縄文の土偶1点を除いて
なにもないのですね。
建築で今後、国宝に指定される可能性があるのは道庁赤煉瓦庁舎か
札幌時計台くらいなのでしょうね。
まぁ、それだけ新開発地であって、人間痕跡に乏しいということなのでしょう。
この国泰寺は重要ではあるけれど、
そこまで保護を加える必要までは認めていないのでしょう。
やや残念な状態なのですが、写真は唐破風正面。
唐破風というのは、その名から類推できるように
中国から伝わってきた屋根のデザイン技法でして
ごらんのような優美なカーブを見せるものです。
こういった建築は宗教的な視覚体験を建築技術に対して要求するので
宮大工はいろいろな古例格式を検討して、デザインを考えるのでしょう。
この寺の場合、禅寺と言うこともあって、こういうデザインを強調したのでしょうか。
しかし、看板的な「せり上がり」の木組み表現など、
やはり重厚感には乏しい仕上げになっています。
徳川幕府11代将軍の時期と言うことで、
幕府の国家財政も破綻している状態の中での、しかも北方での工事。
資材も北前船航路で運搬されてこの地まで運ばれてきたのでしょうから
この看板的せり上がりのように、簡易な建築手法が考えられたものと推測できます。
屋根もカラー鉄板という寂しさでして、
たぶん、創建時はどういった素材だったものか、
銅板葺きまで立派だったかどうか、不明です。
まぁ、それでも唐破風のデザインという古建築がこの地に残っているというのは
やはり当時の日本建築技術と北方圏との関わりの中で貴重。
北海道内では、現在、函館五稜郭内で「函館奉行所」復元工事が行われています。
江戸期の復元工事であり、主たる施工業者は石川県の会社が受注し、
地元北海道の会社は参加できなかったようですが、
できるだけ、北海道にもこういう古建築、残していきたいものだと思います。


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2009年12月03日

厚岸・国泰寺

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厚岸という場所は、江戸期から釧路と並んで
東蝦夷地の中心的な港湾として重要視されてきていた。
そういうことで、官製の寺院が建立されていた。
「蝦夷三官寺」というように言われているのですが、
この厚岸の国泰寺と、様似の等樹院、伊達市有珠の善光寺です。
だいたい北海道の人口密集地、といっても
経済産業的に考えて価値は漁業資源が最も大きい地域なので
北海道の南側海岸線に沿って函館半島地域を除く3箇所に配置された。
官製の寺院というのは、日本の歴史では東大寺をはじめとして
まことに歴史発展の基本部分であると思うのですが、
北海道では、その名もほとんど知られていない。
また、明治期になると、維新政府の「廃仏毀釈」の方針から
たとえば政治的中心として開発された札幌では、
そういった存在はない。
わたしも途中一時期そうでない時期があるものの、札幌の3才からの市民ですが
札幌の「代表的なお寺」っていうような概念がないんですね。
たぶん、こういう欠落感を持っているのは、
北海道の住人には数多いのではないかと思います。
いまだに、そういう概念を持てないでいます。
日本の歴史を考えるときに、仏教が政策として果たしてきた役割を考えると
北海道という地域は、この意味で本当に稀有な地域。

まぁ、そういう思いがあるので、
かえって天然記念物でも眺めるように見たくなるのが
こういった江戸期までの寺院なんですね。
で、写真のような門構えだけが創建時の様子を伝えてくれています。
本堂の方は入り口だけが唐破風で、それらしいけれど、
現代的な外壁材が使われたりしていて、風情が感じられない。
住職さんは江戸幕府から任命されて派遣されるわけですが
日記のような日誌が残されていて、この寺だったか
ヒグマに襲撃されて困ったというような絵入りの日記を見たことがあり、
なんとも悲惨だけれど、ユーモラスな事件も記録されていました。
日本の政権の基本的な宗教政策の施設たる寺院が
ヒグマの襲撃で機能不全に陥るなど、
なんともすさまじい地の果てぶりだと感心せざるを得ない(笑)。
門なんですが、どうにも基礎工事が怪しい工事だった、というべきか、
寒冷地の地面の凍結を考慮していなかったと見えて
地面の不整合、「不同沈下」が見て取れます。
どうなんでしょうか、もともと傾斜地に沿って建てられた塀だとは思うのですが、
それにしても地面凍結・爆裂の結果での傾斜ぶりも見られる。
一応国費を使った公共事業として行われた工事だったのでしょうが、
請け負った宮大工に寒冷地建築のことを研究する知恵がなかったのでしょう。
門につながる塀の傾斜ぶりなど、
恐ろしげな印象すら与えてくれていて、
これはこれで、江戸期の日本建築技術の寒冷地非対応ぶりを証明するものとして
大いに保存していくべきものであるかも知れないなぁと(笑)。
それに対して、たいそうな墨書書きの由緒書きが
なんとも面白いコントラストを見せてくれていました。

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2009年11月24日

土地単位とコメ生産

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土地の単位の歴史を調べていて
大変興味深かった。
きっかけは人口を歴史的に推移を把握した本を読んでいることなんですが、
コメを基盤とした経済がいかに日本人の観念に深く根付いているか
その実態に触れて、まさに驚く次第です。

日本は、なぜこんなに計画経済的で官僚制国家的なのか
やはりコメ生産を経済の基本にしている、ということが大きいのでしょうね。
コメ生産は生産収量を土地面積で比較的単純に把握しやすく、
税金の計算も非常に把握しやすかったと思います。
コメの収量単位に1石、という単位がありますが、
それは人間1人の一年間の必要量を基準にしている。
そしてその生産に必要な土地の広さが1反、というもの。
1反は時代によって、コメ生産効率が変化するけれど、大体、300坪。
江戸期の人口推計を見ていると、基本単位である農家の平均的な生産石高は
一軒につき、大体5石を基準的に見ています。
そういう家で、家族数が6人とか8人とかになっているのですから、
税金としての年貢で収奪される分(約5割と考えても)を考えれば、割が合わない。
まぁ、コメ生産だけではない収入方法が歴史的に大きくなってきたのが
日本の経済歴史だから、そういう部分でなんとかやってきたのでしょう。
江戸期に盛んになる商品作物の生産や、農家の大型化による、
養蚕業の副業化など、経済の実際的主体者である自作農は
さまざまな形で、経済活動を営んできたのでしょうね。
税の収奪者と、納税者とのあいだのさまざまなやり取りの経緯
たとえば納税の方法の変化、コメの物納形式から
換金しての銭での納税まで、実にさまざまな納税方法がとられています。
制度の中で、なんとかそれをかいくぐって
いかに自分たちに有利なようになるか、考え続けてきた様子が明瞭。

そう考えてくると、日本の経済運営って、
どうも社会主義的な計画経済的な方向のための方向性のように思える。
お上の権威性の異常な高さ、などの歴史的民族感情は
このような経済構造が大いにあずかっているように思えます。
たいへん面白かったので、しばらくはこの辺の研究を続けたいと思います。

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2009年11月23日

田植えの芸能化

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写真は室町のころの田植えの様子。
日本の芸能って、ごく初期には朝廷内部で行われる雅楽とかが起源ではあるでしょうが、
基本的に民衆のものとして発展をはじめたのは
室町期くらいの地方の農業生産が上がってくる時期からのように思う。
人口で見ても、平安末期1150年ころの総人口が680万人。
そこから戦国を経て、関ヶ原1600年のころの人口が1230万人。
350年間くらいの間に、ほぼ人口は倍増している。
それ以前、800年ころの人口が550万人だから、人口の増加は急角度になっている。
<資料は鬼頭宏さんの「人口から読む日本の歴史」から>

こういうふうに人口増加が見られてくると、
主要な経済であるコメ生産を中心に、ゆとりが生まれてくるものか。
あるいは、田植えという、一種祈りを込める瞬間に対する「ハレ」感が強くなる。
そういうなかから、自然発生的に農耕儀礼化が進んだ部分があるのだろう。
写真のなかで、労働する人たちをはやし立てるように
扇子を広げてまるで踊っているような動きを見せている人がいる。
原初の姿としては、「田楽」というのはこういうものだったのでしょう。
1年の豊穣を等しく願う思いが凝縮して、
こういった肉体動作を、多くの人間が見続けた既視感が残って、
それを芸能民たちが定型化し、デフォルメして面白さに高めたのでしょう。
自分たちの日常的な動作をテーマにして、それが芸能に高められる瞬間を
たぶん、一般民衆ははじめて目にしたのではないか。
数少ない娯楽の瞬間としての「祭り」の場で
村の広場、多くは神社仏閣の広場で、こういった芸能が行われ、
多くの民衆の共感を勝ち取っていったのではないでしょうか。

多くの古典芸能の中に残されている人間の所作、
カラダの動かし方のデフォルメへのこだわりって、
共通言語としての、肉体言語として大きく育っていったものと思われます。
よく伝統芸能、能や狂言などで、昔の日本人のカラダの使い方が
典型的に表現される瞬間があって、
思わず身を乗り出してしまうほど、至当だなぁと手を打ってしまうことがあります。
田植えは、現代では機械で行われてそれこそあっという間に
終わってしまうものだそうですが、
あれをひとつひとつ手で植えていくというのは
腰も曲がってしまう、大変きつい動作だろうと思うのです。
そういう労働を、できれば浮き浮きと楽しく終わらせよう、
一種の祭事に仕立ててしまおうというのは、大きな知恵だと思います。

っていうことで、本日は勤労感謝の日です(笑)。
まぁ、わたしは勤労に感謝して仕事しているのですが(泣)
そこそこ家庭仕事をこなしながらの一日であります。
明日からは、ふたたび年末進行の作業が再開なんですが、
いっとき、歴史世界にひたっている時間です。


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2009年11月20日

大名庭園の意味

7846.jpg

きのう、札幌に帰還して原稿を早々にアップ。
年末進行真っ盛りで、取材・制作と進行が押してきております。

というところですが、
かねてから疑問に思っていた「大名庭園」の意味であります。
写真は水戸藩が造営した後楽園の点景。
東京には、こうした江戸期からの庭園が多く点在しています。
逆に言うと、江戸期以前からの名所って言うのは
せいぜい、浅草寺くらいのもの。
それにしたって、江戸の興隆とともに栄えていった庶民信仰というもので、
地方にあれば、目立たない一地方社寺に過ぎないと思われます。
で、そうした地域に全国の武力権威の象徴としての幕府が開かれることになった。
関東での武力権威所在地としては、鎌倉が
歴史的な意味合いでは大きい存在で、
それなりに宗教的施設などが揃っていて、
ひとが集まってくるのに引きつける磁場が存在した。
それに対して、江戸では一面に葦の原が揺れているような状態だったのでしょう。
そういった地域に政治的な中心としての磁場を構築しなければならない。
京都は歴史的な遺産が山ほどあって、
文化の中心としてまことに申し分ないけれど、
それに対抗できるまではないけれど、なんとか、権威の象徴みたいな
そういう存在を作らなければならない。
為政者の側からすると、大名庭園造営の主要な動機というのは
どうもそんなあたりだった気がします。
京都の巨大な蓄積文化とは違う、そういうものを作りたかった。
なので、一種の公共事業として、都市作りの大きな要素として
こういう大名庭園をこしらえていった。
そういう意味では、日光の造営というのもそういう一環だったのかも知れません。
広大な江戸城街区というのも数えられるかも知れない。
権力というのは、そういった装飾性を持ちたがるものなのではないでしょうか。
一時は江戸市街地の相当部分がこういった大名庭園で占められていた、
ということですから、いわば庭園都市、とでもいうような
そういった情緒性を江戸新開発都市に与えたかったのかも知れません。

京都に対する一種の文化的コンプレックスを
そういった形で克服したかった。
そのように思えてくるようになったのですが、さてどうなんでしょうか?


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2009年11月17日

二荒山神社

7847.jpg

今回の関東取材で、なにかと縁があったのが宇都宮。
東北から南下してくると、関東の玄関口に相当する。
交通の要衝地と言えると思います。
ただ、北海道にいると、関東といっても東京の存在があまりにも大きく、
それ以外の関東地域について知識を得ることは少ない。
足利に以前行ったときにも、札幌出身のスタッフたちは
そこが足利幕府という、日本史の中でもきわめて枢要な家系の出身地である
というような認識は全くなかった。
まぁ、無理からぬところかなぁと思われましたが、
わたし自身も、宇都宮といっても餃子での街おこしくらいしか
思い浮かばなかった次第です。
でも、ちょっとした合間に見たのが写真の「二荒山神社」。
式内大社、という表示が堂々と記されているとおり、
古い時代、奈良や平安期を通して、関東地域の中心的な存在だったようですね。
近くの日光に同名の神社があって、紛らわしいということが
どうもこの神社の存在を大きくさせていない原因のような気がします。
ちょっと調べてみて、その由緒というか、歴史性にびっくりいたします。
以下Wikkipediaより抜粋。

古くは宇都宮大明神と呼ばれ尊ばれた。正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して呼ばれる。両社は祭神が異なり名称の由来も異とされるため、全く別の神社と謂われるが、日光社は下毛野氏の氏寺であり東大寺(大和国)や観世音寺(筑紫国)と並ぶ戒壇であった下野薬師寺の修行僧であった勝道上人を開祖とする傍ら、当社は宇都宮氏が座主となるまで、座主は下毛野氏の姻戚者であったと謂われており、両社とも古代関東地方の文化の中心地であった下野国の豪族であり国造である下毛野氏にゆかりの深い神社である。
崇神天皇の第一皇子で毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀る。主祭神については時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。
当社の社家である宇都宮氏は、摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。

っていうような次第。
律令国家体制が固まって、
国司となって下向するもっともいい国のひとつがこの地域だったのでしょう。
摂関家藤原北家が利権を確保する狙いを持ったあたり、
この国の重要性が自ずと知られますね。
ほとんど、知ることもなかった地域ですが、
餃子ばかりではない興味がわき起こっているところです(笑)。

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2009年10月23日

皇室の名宝展

7840.jpg

東京上野の国立博物館で、現在、
皇室の名宝展が開かれています。
時間を縫って、行って参りました。
さすがに国の華、そろいも揃って大作ばかりがこれでもかとあります。
なんでも10万人を突破したと言うことで、
展示会としては大成功のようですね。
展示の中では、伊藤若冲の一連の連作が一挙公開されていたのが壮観。
このひとは、江戸中期の京都のひとで、
芸術の中心地であった京都の気風のなかで、
富裕な家に生まれ育ち、絵を志して家業を早くに引退してから
多くの作品を残したひとです。
この国立博物館の展示では、何回か取り上げられていましたが、
これまでは、知る人ぞ知る、という存在だったと聞いています。
日本の画家でありながら、忠実な写生リアリズムを感じさせ、
同時にシュールレアリスティックな画風の作品を残しています。
細密な描写と、克明で詳細な色彩に対する感覚、
それらが、一目で目に鮮やかに飛び込んできて、
幻想的な世界に引き込んでくる感じがする作品です。
ちょっと、日本的な絵画感覚からは異色の作家ですね。
ただし、あまり知られてはいなかったのに、
やはり、皇室では、しっかり大作をコレクションしていたのですね。
ワンコーナーを独占して展示されていたのですが、
最近、伊藤若冲さんって、ブームなんだろうと思います。

でもやっぱり、一番最初のコーナーで真っ正面で迎えてくれるのが
狩野永徳法印の名画、唐獅子図であります。
なんでも、由緒では秀吉が天下統一事業の時期に描かせた、ということ。
日本の歴史が生んだ、もっとも強烈な個性である秀吉の、
その最盛期の権力志向を端的に表現するような
雄渾な画題と、描かれ方で、見るものに圧倒的な存在感を魅せてくれます。
安土桃山は、やはりものすごくわかりやすく、
日本の芸術表現も、自信とオリジナリティにあふれた闊達さがありますね。
日本の歴史にこういう時期を持っているというのは
誇らしくもあり、という思いをいつも抱きます。
この時期の京都の街の自由闊達な雰囲気の春爛漫の中で
その空気を胸一杯に吸ってみたものだ、という思いですね。

時間のない中での駆け足参観でしたが、
でもたっぷりと、日本の名華を堪能できたな、と思いました。
11月12日には、天皇即位20年ということで、入場無料なのだそうであります。
あ、でも、今回展示のものは総入れ替えで、
11月12日からは全部、展示が替わるのだそうです。


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2009年09月19日

日本周辺北方交易の要衝地域

7802.jpg

さて、本日から「シルバーウィーク」という
秋の連休って言うのだそうですね。
まぁ、まったく知らずに過ごしていて、
24日の前に出張に出たいと、23日の航空便を9月初旬になって探したら
どの便も満席という事態に遭遇。
用事は24日に関東・茨城県の常陸太田市での取材。
その後の予定その他もあり、仙台との往復で考えたのですが、
全便満席に近い状態で、不可能。
で、やむなく24日の朝1便でなんとか、仙台から自動車移動で
到着する予定を立てています。
まぁ、この時期に長い連休があるというのは意識していなかったので、
連絡なども、つい遅れ気味だったのはあります。
年末に向けて仕事が大車輪で動き始める時期なので
こういう時期の大型連休、早めに感覚が慣れないとちょっと困難が発生しますね。
出張手配などでも影響はあったわけですが、
そのほかでも、仕事の段取りなどで、
大型連休中、身動きが取れないことを理解していないので、
ちょっととまどう次第であります。
どうなんでしょうね、給料日の直前のこの時期、
長い休みとは言っても、もくろみ通りの結果は得られるのでしょうか?

とはいえ、連休であります。
きょうは頼まれたイベントが開催されるので、
午後からは仕事ですが、
あとは、一応23日までは、手持ちぶさたな日々。
なんの予定も組んでいない(笑)、中年男の休日であります。
まぁ、カミさんと近場でも外出するような日程になるでしょうが。
そんな休日なので、書斎にたまった資料や書籍をひとめくり。
そうなるとやはり、ライフワークテーマの
北方アジアの「生活文化」や「歴史」研究です。
こういうテーマの研究に没頭できるようになりたいというのが
わたしの小さな願いなのですね。
で、前から興味を持っていた「間宮海峡」です。
昨晩から、オホーツク文化人の足跡とか、歴史事実を探っていて、
どうやら、かれらが活躍していた時代、8世紀から10世紀、
もっと具体的には、700年代から900年代に掛けては
気候が大変温暖で、オホーツク海には流氷が接岸しないような
そういう気候だったのだそうです。
このひとたちは、アジアのバイキング、という別称で、
大型海獣狩猟に優れた技術を持った民族だったようです。
かれらが日本のオホーツク海沿岸域に定住したこの期間に
いわゆる「北方交易」というものが盛んになるのですね。
京都の貴族社会で、「鷹の羽根」や「アザラシの毛皮」などが
最高級嗜好品として、貴族のステイタスシンボルになった時期に相当している。
また、この時期に北東北地域での馬産産業の隆盛がある。
なぜ、京都の政権が東北の経営に深い興味を持ち、
侵略戦争を繰り返したのか、という意味もどうもその辺に根源がありそうです。

そういう活発な日本周辺の北方交易のキーポイントが
大陸とサハリンの間の間宮海峡。
ここを通って、オホーツク文化人も日本に南下しただろうし、
安倍氏・清原氏・藤原氏という東北の王権も
大いに北方交易の実を上げたに違いない。
安倍氏には、ここを通って大陸側である「靺鞨〜まっかつ」国まで当主が行ったという
氏族伝説も残っている。
帰ってきてから「あんなとこは人間の住むところじゃない」という
印象を語ったと言うことなのですが(笑)、さて真偽のほどはどうであったか。
また、多賀城碑文には、多賀城から靺鞨国境まで3000里という
地理認識が書かれていて、この間宮海峡を渡れば、
たしかに海の道も足していくと、ほぼ間違いがないと推定される。
アジア北方民族というのは、少数民族がたくさんいて、
狩猟採集型の民族で、活発な交易活動が基本的な属性。
日本の歴史にも、大きな影響を与えたに違いないのですね。
その鍵を握っているのが、最狭部で7kmほどというこの海峡ではないかと
いろいろな想像力が沸き上がってくる地図です。
(地図は、Wikkipediaの使用権許諾のものです)

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2009年09月05日

北上川と安倍氏の痕跡

7791.jpg

北上という街は、東北を歩いているとなぜか
よく中継点になる街。
南北関係で言えば、ほぼ白河から青森の中間点なのか。
また、東西関係でも秋田への東北道分岐があり、
ちょうど、中間ポイントのような位置にある。
そんなことから、東北でも稀有な人口増加が見られる街。
わたし自身も、よく宿泊することになる街です。
先日も、青森で仕事を終え、
翌日は仙台で仕事と言うことで東北道を南下しましたが、
ちょうど北上あたりで、疲労もピーク状態になったので
北上で一泊することにしまして、
北上川河畔のホテルに投宿。
で、朝、散歩していたら、すぐ近くに「安倍館公園」というのがありまして
見て参りました。

この地理的な位置は、1000年以上前でも同様に重要だったらしく、
大河、北上川に支流として注いでいた河川の合流点でもあり、黒沢尻という
ユニークな地名も残っています。
前九年合戦で滅ぼされた安倍氏の主要拠点があった地域のようで
地元では「安倍館」という地名が残されています。
この公園は、その遺跡の上に作られたもののようです。
まさに北上川に面しており、
奥六郡地域の農業生産物や、土器などに詰められた酒やらが
往来したに違いありません。
国境地域である平泉周辺地域と並んで交易活動が
ここで展開されていたのではないかと推定されます。
東北地域では、やはりこの安倍氏や、藤原氏の痕跡が多い。
それらは、基本的に敗者の側の事物なので
なかなか正確な文献資料などに残されることがない。
安倍氏の支配体制や、その経済的背景などは
資料に乏しいのですね。
とくに金の生産が大きな部分を占めていたので
秘密の保守にも慎重だった部分があるのかも知れませんね。

早朝散歩しながらも、
こんな埋もれた、さりげなさで安倍氏の事物に出会うんだ、と
ちょっとびっくりいたしました。


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2009年08月31日

八戸市・林の前遺跡

7787.jpg


八戸を拠点にして、2日ほど
住宅取材をしていまして、その間、
以前から調査してみたいと考えていた
「林の前遺跡」を見に行ってみました。
この遺跡は、大変特異な遺跡で、歴史年代の戦争の様子が
生々しく発掘されたという、稀有なものです。
というのは、平安中期年代で、前九年合戦前後の遺跡であるということ。
発掘された人骨が後ろ手に縛られて、しかも
首と胴体が別々に何体も発見されているのですね。
時系列的には、糠部という王朝政府の地方支配単位が設定された前後です。
八戸周辺には、戸という地名が多いのですが、
王朝政府の基本的な地方支配単位は農業生産にその根拠を置くのに対して、
この地域は、馬産にその根拠を置いたとされています。
その単位として、戸、という単位が決められたという。
で、その馬産経済の中心的な支配者としての存在が、
この「林の前遺跡」の支配者に比定されているのです。
具体名で言えば「安倍富忠」という人物ではないかと思われている。
まぁ、この名前からして、王朝政府側の命名であって、
蝦夷のなかの有力者で、まったく違う通称名であったかも知れませんね。
八戸周辺は、その後の歴史年代でも飢饉に見舞われることの多い地域。
伝統的ヤマト民族が基本にした米作農業には必ずしも適さない地域です。
そういう地域特性の中で、馬産という
武家勃興期にあって全国的に市場規模が拡大してきた産業を
この地域で起こした勢力があって、
その勢力が、さまざまな「外交関係」を各地の勢力と展開していたのでしょう。
基本的な地政関係から、奥六郡周辺の国境貿易独占勢力、
当時で言えば「安倍氏」、その後の清原氏、藤原氏との関係が深かった。
しかし、気仙地域の「金氏」や、多賀城国府とも直接的な関係があったと思われる。
馬産経済というのはどのようなものであったのか、
イマイチ、詳らかにはなっていませんが、
貿易交換型の経済であったことは間違いないので
より有利な条件を求めて交渉し続けるというのが基本的なスタンスでしょう。

そのような背景を持った遺跡なのですが、
実際に行ってみると、平地から高台になった段丘状の地域。
八戸の海へもほど近く、台地上にあるので、防御的な城郭要素は満たされている。
写真の真ん中に走っている県道の工事で掘削してみたら
この遺跡が出てきたということなんですが、
周囲にはなんの案内もありませんでした(泣)。
やむなくクルマを降りて森の中に入ってみましたが、
クマかも知れない大型動物の糞が散見されるような地域で、
どういう痕跡も発見できない。
しかたなく「八戸市博物館」に行って情報を聴いてみました。
たぶん、館長とおぼしき方が説明していただけたのですが、
かろうじて、青森市の埋蔵文化財センターに資料はあるだろうという情報。

かなりマイナーな興味分野なので、
情報はなかなか得られません(泣)。
今度、青森市での用事ができたら、時間を見つけて探ってみたいと思います。
ただ、その後の歴史年代で南北朝のころに
この地域に南朝方勢力として侵略してきた「南部氏」のことも
おぼろげに、その出自への想像力が沸き上がってきました。
この南部氏は、武田の源氏を名乗る甲州の出身勢力なのですが、
甲州にはこの地域同様に馬産の伝統があり、
そういう経済勢力であったという推定が聞き取り情報として得られました。
いずれにせよ、馬産に関係するのがこの地域の
キーワードなのだと実感させられます。
そうやってみてみると、この写真の手前側一体は広大な「牧場」であったものか、
そんな想像が膨らんで参りました。 ふむふむ。


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2009年08月24日

戦国期北条家の政令

7777.jpg

写真は、歴史民俗博物館展示より。
いわゆる「楽市楽座」という新政策について、
中世的支配体制を破壊した「戦国大名」たちの立場というものがわかる。
北条といえば、最後まで関東の支配権を維持した
戦国大名の雄。
時代の読み取りにおいて、固陋な体制で対応できず
滅び去ったという側面が強調されているけれど、
この政令書では、世田谷に「新宿」を開くために
その地に「楽市」を開催することについて、認定している。
中世的な経済的既得権益を排除して
自由経済体制を推進する立場に立っている。
こういう文書から見れば、革新的な経済政策を推進していた。
織田信長が、楽市楽座を推進したというように
歴史の教科書には書いてあったけれど、
正しくはそういうものを、ほかよりも積極的に行ったくらいのことなのでしょうね。
たぶん、どういう政権でも庶民の経済活動の盛り上がりに
依拠せざるを得ないのであり、
経済の最先進地域、畿内地域に武権を樹立した
織田政権としては、ごく自然な経済政策だったということができる。
しかし、こういう政令書類は、
どういう主体が申請し、許認可を得たものか、
従来は許認可をする側の歴史だけが残されてきたけれど、
こういう経済行為は、庶民の側に主体があったことは間違いがなく、
興味深い部分ですね。
で、なんと、現代に続く市場の始まりが
こういう時代からのものだいうことです。
この「政令」文書を起源として、こんにちも「ボロ市」というのが
世田谷地域では行われているのだそうです。
そういう意味では、北条家の政策が今日まで継続してきている。
なんとも奥深い、経済の世界であります。


さて、きのうまで2日間、
建築家セミナー・相談会を開催。
これまで、建築家の紹介、というイベントという位置づけでしたが、
建築家のみなさんとも、有意義な話し合いができた結果、
より、お客様のニーズの把握、
その個別の状況にあった「相談会」重視の運営に変えてきています。
その結果、2日間とも、より具体的な相談プロセスになっています。
やはり、家を建てるのはあくまでも建て主さんということを
改めて実感させられますね。
まぁ、当たり前っていうことですが、
徐々に、方向性が明確になってくる。
事業というのはどんなものでも、やはり
やってみないと本当のところは見えてきませんね。


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2009年08月22日

さすがは歴史「民俗」博物館(笑)

7762.jpg

千葉県佐倉にある「歴史民俗博物館」であります。
ことし、2度目の訪問を果たせた次第なのですが、
まぁまぁ、太古から戦後までのこの列島社会で生起した事柄や、生活ぶりなどを
さまざまに記録して保存する機能ということで、
あらゆる種々雑多な情報に満ちあふれています。
じっくりと思考を巡らしながら見て回ったら、
とても開館時間内では無理。
開館時間を前提にすると、たぶん、1週間くらいの滞在が必要、
いや、それでも無理でしょうね。
また、体力的にもそんなに続くわけがない。
そうですよね、何万年か、歴史時代が始まってからでも2000年以上の
日本列島上で人間が活動してきた歴史時間を追体験なんて、
そんなの、無謀というものですね(笑)。

写真は、そんな博物館の最後の方の、ごく現代に近い
戦前の社会風俗を展示しているコーナー。
それも、いわゆる「風俗」に属するような営業店舗の復元。
お堅い、役所仕事の博物館なハズなんですが
「民俗」と謳う以上、たとえば東北地方の土俗的な稲わら人形なんかも展示するわけで、
かなり猥雑な部分も、含まれてくるのは自然。
ここでは、「美人局・うるとら」という「カフェ」なんですね。
うたい文句が「喫茶の気軽さと、カフェの濃艶とを兼ねた、情熱工場」。
「うるとら娘のハリキリサービス」なんていう猥雑さ(笑)。
などというような想像力は、しかし、わたしのような年代以上の人間だけのようで、
もっと若い年代の子ども連れのお母さんたちなどはあっけらかんと、
「なんだろね、これ。いやぁ、古くさ!」とかいって笑っておりました。
まぁ、確かに、時代を経てこういう光景を見ると、
その時代の中での雰囲気や空気感のようなものが揮発する部分があるのでしょうね。

しかし、逆に言えば、
たとえば広い意味での風俗というものが
貴族や王侯階級にも広く受容されてきたのが日本文化の特徴とも言えます。
その時代が生み出す、活力や熱気というようなものが
こういう風俗の世界には表現されるものなのだと思います。
きっと、どの時代にも、こういうような部分というのは存在し続けたのでしょう。
そういうのはおおらかな王朝文学の世界にも、
活気に満ちた戦乱の時代にも、かならずサイドストーリーとして存在しますね。
まことに根深いというかなんというか(笑)。
それにしても、こういう展示まであると、
歴史というものの奥行きの深さに、目がくらくらとしてきます。
わたしも「カフェ」という場所で一休みしてみたくなりました(笑)。


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2009年08月19日

縄文期の土偶面

7768.jpg

歴史民俗博物館の展示より。
縄文時代の土偶のお面の陳列です。
いろいろな表情のお面が作られて発掘され保存されています。
紐が通せるようになっているので、
お面として使用したであろうことは明白。
だからこそ、このように変わった表情をしているのでしょう。
弥生ののっぺりとした、つるんとした埴輪などの表情とは全然違う。
一番上のお面は、以前に一度触れたことがあります。
恵庭付近で発見されたモノのようですが、
表情がなんともいえず哀切で、
まるで、幼くして失った息子のことを想いながら作ったのではないかと
見るものに強く伝えてくるような表情をしていました。
そのほかにも、全国各地でこのように、まさに豊かな表情のお面が作られている。
やはり縄文の社会に、こういうお面を必要とするような習慣があったと推定できる。
地域ごとに表情が違うと言うことは、
作り方が手作りであり、しかも画一的な用途、
たとえばこのお面を使って、お面に人格を憑依させて踊るというような
そういう場面が想定できるけれど、
そういう憑依人格には一定性はなかったと思われます。
なにがしか、「神懸かり」の状態を演じる個体が存在し、
その人物を通して、神の意志を受け取ろうと考えた、
というのが一般的な理解かなぁ、と。

たぶん、かがり火のまわりをこうしたお面の人物が踊りまわり、
周囲を多くの共同体構成員が囲んでいたのではないか。
日常ならざる光景の中で、
いったいどのような呪術的な願いが託されたものか。
残された、このお面の表情の中から、そういう部分を想起するしかないでしょう。
それにしても、縄文期って、
まことに表情豊かで、「個人」を強く意識させるような表現力に満ちている。
たとえば今日に至るまで続く、「なまはげ」のような
そういう始原的なパワーを強く感じますね。
こういうものが、繰り返し、この日本社会の基底から
吹き上がってくるようなことが、たびたびあっただろうと
そんな想いが起こってきます。

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2009年08月14日

松前藩がやっていたこと

7769.jpg

わたしが小さいころは、なぜか、無人島のような場所で、
友人たちとそこをパラダイスにする開拓計画を行うことを夢想していた。
なぜそんな夢想をしていたのか、
自分でもよくわからなかったけれど、
北海道ということと、札幌という街にそういった気風があったのかも知れないと、
最近は思うようになってきました。
何もないところから、知恵と工夫で自分たちの暮らしを豊かにしていくことが
社会的な目指している方向だったと思える。
物心ついたときに住んでいた札幌の建売の中古商家住宅での起居のなかに
そういう先人たちの思いが宿っていたのかも知れない。

まぁ、いずれにしても、北海道の明治以降は
開拓の歴史だったわけで、それは日本民族にとって、
壮大な実験だったわけですね。
そのためにのちに総理大臣を務める薩摩藩保守本流の黒田清隆という政治家が
開拓施策の基本として、ケプロンという農務長官を
アメリカからスカウトしてきて、建白書をまとめさせた。
そういう方針の中で、さまざまな開拓努力が重ねられていったのですね。
そういう雰囲気の中でわたし自身も育ってきたのだろうと思うのです。
だから、そんな夢想にも、こうした背景を感じるようになってくるのですね。

で、一方で明治以降の開拓の中で、
まったくその痕跡を認められないのが、松前藩の存在。
きのうのブログでも、ずいぶん否定的に書いたのですが、
かれらは、この北海道のために、一体何をしていたのだろうか、
と、深く思わざるを得ないのです。
写真は、松前の街に建てられた実物大ジオラマともいえるもののなかの
「沖の口奉行所」での藩役人の様子。
ようするに北海道島の住人であるアイヌとの交易の窓口として、
その貿易産品に対して税を取り立てる活動痕跡なわけです。
本州地域から北方交易に来る船頭たちの積み荷をチェックし、
その交易に対して、藩は干渉するのが役割だった。
で、江戸期を通じてそれ以上の想像力を持たなかったのですね、300年間。
この写真のように偉そうにふんぞり返って商人から巻き上げ続けてきた。
ほかの藩が、必死になって殖産興業を計っていたというのに、
この藩だけは、そういう痕跡が認められない。
ちょっとまともな考え方があれば、函館平野を開拓し、
畑作農業でも興し、たとえば大豆など寒冷地に適した特産品を開拓でも
するべきではなかったのか。
逆になぜ、そういう発想が出てこなかったのか、
そっちのほうが、より研究に値するのではないかとも思えます。
どうも、わたしは松前氏については、
どうしても肯定的な見方が出来ない部分があって、
意地の悪い見方ばかりになってしまいます。
事実は、もう少しまともな存在だったのでしょうか。
まぁ、北海道の歴史において、まったく意味のない時間が
かれらによって固定化されていたと思う部分が大きいのです。

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2009年08月13日

松前と北海道史

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松前は、札幌から遠い。
先日、用があって道南を訪れた折、
やや迂回して、一度は行ってみたかった松前を目指したのです。
カーナビでは、札幌から最短距離で350km以上ある。
中山峠を南下して、洞爺湖をまっすぐ目指して、
途中から豊浦付近で高速に乗って、
八雲で高速を降りたら、日本海側の熊石に抜けて、そこから一路
日本海岸道路を南下するのだけれど、
江差・上ノ国を通り過ぎたら、あとはほとんど集落はまばら。
うねりつつ続く海岸線の道路を走り続けるのは辛い。
そんな先に、ようやく松前はある。
一方で、函館までも約100kmの距離。
地理的な位置関係を見てみれば、確かに本州から海路を取って
もっとも距離は短かそうだけれど、
北海道全域、島としての北海道の全貌を把握する地理的な環境にはない。
しかも、猫の額のような海岸線の平地に張り付くように
城が建っているけれど、後背は険しい山岳地帯がそびえ立っている。
この地に、松前氏という藩権力が存在していたのだけれど、
いかにも、その想像力のなさにはあきれざるを得ない。
江戸期でも、幕府が北海道全域に対して測量したり、
アイヌの人々に対して、いたわりのある政策を直接支配地で試みたりしているけれど、
松前氏には金輪際、そういう発想はなかった。
ただひたすら、アイヌに対して恐怖し、交易でかれらを搾取することしか、
考えが浮かばなかった、無駄な時間を過ごし続けていた。
この地を初めて訪ね歩いてみて、そう思わざるを得なかった。
もう少し発展的な考えを持つ権力であれば、
当然その首府は、函館にしたであろうし、
農耕は米作には適さなかったまでも、畑作など、試みるに違いない。
そうではなく、幕末に至るまで、
ただひたすら、アイヌからの襲撃を恐怖し、
このひたすらに防御的な場所にしがみつづけてきた。
幕末期、榎本武揚軍が松前になんの価値も見いださず、
また、無視して函館に五稜郭を造営して本拠地として
「蝦夷共和国」を計画していたことから比較して、
300年間、なんの「施政方針」も持たなかったこの藩というのは
この島の歴史にとって、どういう価値と意味を持っていたのか、
どうにもやりきれないような思いを抱く。
松前氏は、その出自において、奥州藤原氏とのつながりも濃厚な安倍氏を出自に持つが、
途中、戦国期前後に家臣であった蠣崎氏が
乗っ取る形で、権力を簒奪している。
このとき、実質的に権力を握る過程では、どうもアイヌの有力者たちを
だまして、殺害するような手段で権力を握ったのではないかと推定されるのですね。
その後の、ひたすらにただただ、防御的なかれらの姿勢を見ると、
どうも、そのような想像をかき立てる気がします。

なんにせよ、この北海道の土地利用とか、開発というような部分では、
かれらはほとんどなんの役にも立っていない。
権力というものの意味を深く考えさせられる松前訪問でした。

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2009年08月05日

縄文の食料保存方法

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ジオラマなどで展示される情報って、
言葉になっていないけれど、より雄弁にいろいろなことを伝えてくれるもの。
写真は、国立歴史民俗博物館での三内丸山遺跡の様子を伝える一部。
何回か訪れると、実に詳細な情報を得ることができるなぁと思ったひとこまです。
っていうのは、なにげない状況説明ですが、
この時代の知恵としての食料保存の方法について、
この一枚の写真は貴重だからです。
食料の保存って、いろいろな人間の知恵の中でも
極限的に基本的な部分だと思います。
現代生活のなかでの「冷蔵庫」って、
わたしたちの生きている基本的構成要素に属することですが、
こういうことに手段が進化していない時代、
どのような知恵が働いてきたのか、
そういうことを証立ててくれるのがこういうジオラマ。
なにげに見ていたけれど、初めてまざまざと見入った次第です。

ここでは、地面に穴を掘ってなかに植物を編んで作った容器に入れた
穀物とおぼしき食料を中に貯蔵しています。
周囲には木材が置いてあって、たぶん、作業後、
木を組んで屋根を掛けて、穴を保護するのだろうなぁと推測されます。
こうすれば、大体、その地域での年平均気温程度の「涼房」環境が得られるでしょう。
北海道札幌のそれは、現代で約8度。仙台は12度。
ここは青森なので、10度前後だろうと思われます。
乾燥させてから保存していく環境としては
まぁ、悪くはないというか、良い環境が維持されていると言えるでしょう。
冷蔵庫のない時代と考えれば、人間の知恵のこの時代での極限点でもありそう。
ただし、この情報だけでは、
たとえば、ネズミの食害に対しては、どうするのか、
よくわからない部分もありますね。
しかし、そういうように情報を推測し、またそこから分析を深めるよすがにはなっている。

やはり何回か、足を運んで見てみると言うことは
実にさまざまな重層的情報を得ることに繋がります。
昔もやはり、人間の知恵には、驚くほど共通性を感じます。

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2009年08月03日

歴史と建築の視点

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千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に再び行って参りました。
というのは、目玉が飛び出すほど
わたしの興味にぴったんこの企画展をやっていたからなんですね。
題して「日本建築は特異なのか」。
東アジア三カ国、日・中・朝の建築を比較対照しながら、
日本建築の「特異性」の評価に、歴史の側から迫ろうという企画。
北海道にいて、現代の住宅を考え続けていると、
比較対照すべきなのは、つい北欧・北米という視点になります。
住宅の性能という意味では、まったくそうなるのですが、
一方で、わたしたちのDNAには、この東アジア世界3カ国の
関係性の中で営んできた時間がたいへん長いわけで、
建築の基本的世界も大きく規定されている部分がある。
そういう視点を提示してくれたという意味で、手を打つほどにいい企画なんですね。
写真は、3部構成のなかの一番最初の
第1部・宮殿建築の部の大唐帝国の都・長安の街割りの様子。
律令を生んだ、中国の中華思想を体現するように
規格的な碁盤の目の街割りが整然と展開する。
こういう世界観にわたしたち日本も、長い歴史年代を過ごしてきたのですね。
圧倒的な受容の歴史がわたしたちの歴史だった。
ただし、さっそくこういう宮殿建築においても
日本は中国とは違う道を歩き始める。
中国がいかにも、権威的な「皇帝権力の示威」的な建築に向かうのに
日本の天皇権力は、宮殿と言うよりは住宅に近い建築になっている・・・。
っていうような、展示展開が広がっていて、興味が尽きない・・・。

が、しかし、なんとも遠い(泣)。
きのうは朝1番で博物館に着いて、9時半開館と同時に入場したのですが、
特別展・通常展示と見ても、3時前には切り上げないと
札幌まで帰ってこられない。
千葉県佐倉市から、ってもう成田のホンの手前なんですが(笑)
そこから羽田に迂回するのですから、やはり遠回り。
きのうは、都合2時間半くらいはかかりました。
いいんですけど、国内各地域からのアクセスは
この博物館、やっぱり辛いものがあると思います。
しかし、そのスタッフの優秀さや、「国立」としての資料の一級さ、など
面白すぎて、困ってしまうくらいなんです。
もうすこし、利用者の利便性を考えて欲しかったですね。
まぁ、しかし、やむを得ないですなぁ・・・。

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2009年08月02日

北海道唯一の国宝「中空土偶」

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「国宝」であります。
でも写真はもちろん、レプリカです(笑)。
中空土偶。制作年代は3500年前くらいと推定されています。
青森県西部海岸一帯に眠っている土偶と似ている。
よく教科書に登場する遮光土偶などと
よく似たような作風を感じます。
でも、その後の弥生文化の埴輪が、
無個性な均質性に向かっていると感じるのに対して
こちらの縄文社会の文化性を表現した土偶の方は、
呪術的で、より「個性的な」表現力を持って迫ってくる感じを持ちます。
岡本太郎さんの絵のように、あるいは
青森県出身の「ねぷた絵師」であったといわれる棟方志功さんのような
そういった表現世界に繋がってくるような
強い印象を見るものに訴えかけてくる気がします。

それにしても、北海道唯一の国宝に指定された、
ということは、北海道にはほかに国宝がないのですね(泣)。
まぁ、日本文化を背負った人間の歴史はまだ、百数十年ですから
無理もないとは言えるけれど、
でも逆に言うと、この国宝もその民族性は、詳らかではない。
日本列島に居住していたひとびとの生産・表現活動、というところ。
まぁ、北海道に暮らしている人間からすると、
赤煉瓦庁舎や、時計台などは国宝になってもいいのではと思いますが、
そうはさせてくれないようですね。

縄文期の土偶って、
ほかにも以前ブログで触れた作品があり、
たぶん、子供を失った悲しみを紛らすために作ったのではないか、
というような彫像がありました。
作風として、あの表現にも繋がっているように思います。
この時代には、土をそのまま、機械やろくろを使わずに
制作した土器生産の専業者のひとたちが、それ以外の生産活動として
たぶん、副葬品生産を手がけていて、
そういう生産活動の結果がこのようなものだったのでしょうね。
そういう意味で、手ごねの味わいがあり、
作者の手業の細部までが伝わってくる感覚があります。
北海道に暮らすものとして、誇らしく思うと同時に
われわれ時代の人間も、
縄文に負けないように痕跡を残していきたいと思いますね(笑)。

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2009年06月26日

開陽丸

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本日は、これから仙台へ移動であります。
きのうまでに片付けられることは片付けましたが、
いまは同時進行で2つの大きなプランを進行させていて、
なかなか綱渡りな作業を余儀なくされております。
さてさて、ふ〜〜〜。

なので、しばらく、歴史関係のことは
頭のなかだけでとどめざるを得ず、探訪旅行が出来ません(涙)。
来週あたり、道東標津あたりに足を伸ばしたいと考えていますが
さて、どうなりますことか、・・・。
もうひと月半前くらいに行った上ノ国探訪の折に見た
戦艦・開陽丸の様子であります。
開陽丸、と丸を付けるのは船の愛称であって、
本来、戦艦には丸を付けるべきではない、という説を聞いたことがありますが、
一般的には、この幕府最後の旗艦には「開陽丸」と、丸が付いて呼称されてきました。
戦前日本の旗艦「大和」も、最後はあっけなく来たのですが、
この開陽丸も、最後はなんのことはない、些細な操縦ミスで
あえない最期を遂げています。
江差の岩礁地帯で座礁して沈没してしまったのですね。
それをサルベージして、いまは江差の街の重要な歴史遺産として
港に係留し、観光客に開放しています。

まぁ、何回か見ておりますが、
ごらんのような蝋人形による戦闘風景などもあって、
なかなかに迫力がある。
幕末の国家予算のなかでも相当に大枚の国費を費やしただけあって、
船体も大きく、当時の軍事技術でも相当のレベルの軍艦。
榎本武揚が深く頼んだことが、さもありなんと思われる偉容を誇っています。
江戸から、この軍艦を旗艦とした榎本軍が出航したとき、
新政府軍側が、なすすべがなかったのが
この軍艦の最後の花の出来事だったのでしょう。

でも、ひとつの軍艦が、
象徴的な存在として、構成まで語り継がれるという意味では、
やはり特別な感慨を持たせるものがあります。
何回見ても、やはり明治の動乱の時代のひとびとの息づかいまで
こちらの胸に伝わってくるような思いがしてきます。


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2009年06月14日

中世京都の風景

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京都が日本の首都であった歴史年代って、
実に永く、京都で観光バスがアナウンスする「千年の都」というフレーズは
誇張でもなんでもないのですね。
その国の首都の雰囲気が作り出す感覚のようなものってあると思うのですが、
いまは東京が首都になっての時代が140年近く続いている。
東京という土地は、京都とはまったく違う気質を持った都市ですから
きっとそのような違いが歴史に反映した部分も多いと思います。
京都から東京への遷都って、
それまでのアジア中心の世界観から脱却させる、というのが
一番大きかったような気がする。
世界に対して開港した横浜から上がってくる欧米世界の雰囲気に対して
敏感に反応して、それを前提条件なく摂取すること。
そういう意味で、京都ではあまりにもアジア的な蓄積、
仏教権威から政治的なシステムすべてまで
ごっそりと残ってしまっていて、
大きな振幅に耐えられない文化性を持っていたのではないでしょうか。

一方で、京都が中心であった時代の感覚って、
通り過ぎてしまった過去であって、皮膚的な感覚を持てない。
写真は戦国期の京都の街のジオラマ接写。
たぶん、地方から京都に用事があって出張してきた
地方政権の中堅幹部クラスが用事を片付けたあと、
国元に帰還するような様子が感じられる風景。
信長の逸話に若い時期、京都に上京し、堺に遊んだ下りが出てきますが、
そんな様子を想起させる気がします。
たぶん、戦国末期の当時で言えば、
混乱した中央政権、足利将軍家は実体を持っておらず、
形式的な追認行為くらいしかなかったでしょうが、
それでも地方政権に対してのなんらかの表面的な政治行為はあった。
それと、経済の中心としての堺の町は独自の自衛装置も持つほどに
独立的な経済権力を構成していた。
若い日の信長は、そういう時代の雰囲気の真ん中で自由を感受したと思います。
また、この時代には種子島からの鉄砲伝来以降、
ヨーロッパ世界の文化進出もめざましかった。
たいへんな大航海時代の息吹が京都にも充満していたことでしょう。
後の「琳派」の源流的位置を占める俵屋宗達が表現したような
開放的で自由な都市文化が自由闊達に勃興していたに違いありません。
こういう空気感は、たとえば「琳派」の絵画などから思い起こすしかないのですが、
階級的にも固定的でなく、自由に各人が「天下」を目指す雰囲気があったと思うのです。

こういう自由さのゆりかごであったような京都文化って、
なんとか追体験してみたいものだと想いつづけています。


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2009年06月02日

北海道の中世遺跡

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北海道の中世史って、
わたしたちの年代ではまったく解明された事実がない状態でしたが、
近年、盛んに考古発掘が相次いできていて、
いろいろな様子がわかってきています。
写真は、史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)のジオラマの様子です。
推定されている年代は15世紀後半から16世紀一杯ということですから、
ちょうど日本史の側では戦国期に相当する時代。
下克上の風潮に乗って、伝統的な支配者である
安東氏に代わって、蠣崎氏〜のちの松前氏が勃興していたころ。
北海道に和人地を築いて、北方との交易を主な生業とした勢力は
たぶん、北東北に勢力を築いた「安倍氏」の末裔が主流だったと思います。
平泉藤原氏の滅亡後、すぐに鎌倉政権側と外交的に手打ちを行って
北条家の代理人として十三湊に現地支配権を確立した安東氏は
安倍氏の嫡子を始祖とする家系伝説を持っている。
その安東氏が、八戸周辺に勢力を築いた南部氏に勢力を奪われて
本州地域での支配地を失って北海道に渡ったもの。
その家臣であった蠣崎氏が、実力でアイヌの蜂起をかろうじて撃退したことで
主家から禅譲される形で支配権を確立した。
そんな時期に、作られた城郭都市がこの遺跡です。

当時の勢力分布からすれば、この城郭が対アイヌとの境界地域。
夷王山という天然の要害中腹にこの城郭は位置しています。
その位置から眼下には北方の日本海が遠望でき、
日常的には交易の船舶をチェックできたでしょうし、
戦時には、敵対する軍勢の攻撃を予見することが出来ただろうと思います。
アイヌや、より北方の勢力が攻撃してくる場合、
多くは海上を通って攻めてきたものと推測できます。
安倍氏の東北での支配時代でも、蝦夷同士の敵対関係を利用していた節がありますが、
この城郭には、基本的には敵対関係にあると思われるアイヌのひとたちの
生活痕跡もたくさん出てくるのだとか。
たぶん、アイヌ勢力の中に蠣崎氏に取り込まれた勢力もあって
同盟的な関係を持っていたものと推定できます。

この写真はジオラマですが、
海面からはかなり高台に、見張りの望楼も設けたり
あるいはから堀や柵を厳重にしたりと、
かなりの軍事的緊張を感じさせる造作になっています。
でありながら、柵の中には中央に通りを設けて
日常的な「生活感」も見ることができます。
こぢんまりとはしているけれど「中世都市」という感もある遺構です。
いろいろと具体的な交易の関係性であるとか、
位置関係的にも、きわめて興味深い想像が盛り上がってきますね。
さてさて、どんな光景が展開されていたものか?


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2009年05月31日

北海道での円空さん

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写真は北海道南部・江差の隣町、上ノ国の漁家に残された円空仏。
円空さんは、ご存知、江戸初期のひとですが、
美濃の出身で、全国を造仏行脚して歩いた、変わった人生を歩んだひと。
北海道内でも伊達市などでもかれの活動が残っていたりします。
上ノ国は、江差にも近い道南松前氏の拠点。
和人地の北限にも近い地域。
ちょうど王朝人が仙台周辺、宮城野のあたりを北限地域と考えて
王朝文学の中の宮城野テーマを紡ぎ出していったように、
かれ、円空さんも「北への憧れ」という
日本民族に強い意識に駆られてこの地を巡り歩いたものでしょうか。

この仏像がどのようにしてこの地に残されていたのかは、
わかるわけもありませんが、普通に考えれば、
円空さんの生きた時代、この地の誰かが
円空さんに仏像彫刻を依頼し、その見返りにかれに幾ばくかの謝金と
何日間かの旅宿を提供したものでしょうね。
一生の間に12万体の仏像彫刻を作った、ということですから、
創作期間が50年間にわたったとしても、1日6体くらいは作ったことになり、
高さ40cm程度のこの写真の仏像などは、
ほんの1時間程度で作り上げてしまったことでしょう。
かれの生き方は、目当てを大体決めて
その地に逗留し、その間、地域社会の口コミネットワークで紹介を受け、
依頼を受け付けて、一気に作業を進めていったことでしょう。

人間の活動としてはまことに自由人的であり、
わたしなども、憧憬してやまない存在なのですが、
旅の中では、たとえば津軽・弘前では追われるように出国させられたとかいうような
いろいろな事情も発生はしたことでしょうね。
また、純粋に造形作家という形での世渡りではなく、
宗教者という肩書きや、仮の姿も便利に使っていた気がします。
しかしそれにしても、
今日のぎすぎすした社会に比較して、
かれの生きた時代の社会の包容力に羨望の念も持ちます。
こんな仏像を作り続けることで、社会に一定の位置を見いだし得ていた、
そういうことに、寛容な社会システムって、
素晴らしいのではないかと思えてなりません。
今日社会では、中高年男性の自殺率が異常に高い社会。
なにか、ひとの生き方を考えさせられる仏像の笑顔だと思います。


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2009年05月27日

大量死の先にある日本の宗教施設

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写真は日光東照宮への表参道の様子。
現代でこそ、「日光道」という有料道路を走り抜ければ
宇都宮から小1時間という距離ですが、
江戸期の交通を考えれば1日の旅程。
その末に、ようやくこういった空間にたどりつく。
緑に包まれた自然そのものの山中に、忽然と大鳥居が出現する。

厭離穢土欣求浄土、という旗印を掲げていたという
徳川家康。
この言葉の意味は、穢土(えど)〜よごれきった現世を遠く離れ
美しく清らかで心安らかな浄土を、よろこんで求めたい、
そのために戦うんだ、というスローガンだそうです。
ひどく線香くさいというか、厭世的とも思える。
同時代の、たとえば石田三成のスローガンが、
「大一、大万、大吉」というにぎやかで現世利益的な響きであるのに対して、
なんとも哲学的な、死生観を感じさせるような表現。
武将として戦争を行うのが宿命であり、
そのためには、将士に死の覚悟を持ってもらわねばならない。
そのときには、人間としての尊厳も満たした部分を持たねば、
いわば、「大義名分」とは少し違うけれど、
ひとが、やむを得ない、このことのために
自分の死を差し出そうという雰囲気を演出しなければならない。
人の死の担保者としての武将には、
そういった心得が必要になってくる。
日本の宗教には、このような無数の死をどのように止揚するかの
歴史的経験値がたくさん凝縮されているのでしょう。

たぶん、史上未曾有の死が折り重なった戦国を超え、
ようやくたどりついた平和な時代、
最終的勝利者として、宗教的施設を造営するときに
かれとしては、というか、徳川政権としては、
このような鎮魂の空間を演出したと言うこと。
支配者に対して傅く、というふうに考えるか、
それともこういった空間の先に、大量死の光景を思い浮かべるか、
考え方は別れるところですが、
日本人は、死生の堺を超える空間性というものを考えるとき、
この写真のような空間性にその表現を見いだしてきた。
そんなような思いが感じられます。


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2009年05月24日

眠り猫 zzzzz

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日光東照宮、奥の院の入り口というか、
本殿からの出口というか、にあるのがこの猫の像。
昔から有名です・・・っていうことですが、
単純に猫の彫刻なわけですね。
ところがこれが奥の院、徳川家康を祀った廟所入り口にあるので、
「一体どういう意味があるんだろう」と
考えさせられると言うことなのでしょうか。
東照宮の飾りには、たいへんわかりやすい表現が用いられています。
それこそ、芸術の大衆化が始まったような印象がありますね。
陽明門にはこどもたちの遊ぶ様が描かれたりしているそうです。
どれも写術的でユーモラスで、一見してわかりやすい。
たくさん彫刻で描かれている動物群も、
一種のテーマパークと考えれば、意図がわかりやすいのかも知れない。

まぁ、そんな東照宮の極めつけみたいな彫刻が
この眠り猫なんですね。
左甚五郎作、というような意味不明な作者伝承もありますが、
いや、単にキッチュな意図ではなかったのかと、感じます。
見ていたら、外人さんから「▲○●□??」って質問を投げかけられまして、
西洋人ではありそうなのですが、何語かも、よくわからなかったのですが、
どうも、猫があるのが、よくわかんね〜、ってことのようなんですね。
って聞かれても、こっちもわかんね〜、あんた何いってんのか、わかんね〜状態。
適当に答えざるを得ない。
しかたなく、「Its simply cat」などと、英語にもなっていない、
いや、英語風禅問答を返しておきました(笑)。
あとは、東洋的にあいまいな微笑をおまけに・・・。

きっと、変な日本人におかしなことを言われたと
ブログにでも書かれているかも知れない(汗)。
困った、日本の国家的損失だ(笑)。
っていうような不安な思いをしたわけですが、
やっぱり、なんのことやら、この猫さんの彫刻は意味不明であります。
他の彫刻と同様に、一般的に東照宮に多い動物の彫刻を作っていて
たまたまこの位置には、猫が端座することになっていた。
そこにあとから、家康の廟のある奥の院の入り口が出来ることになって、
その通り道の位置になってしまった。
徳川政権の担当セクションでも、ついうっかり、たいした意味付与を考えずに
そのまま計画が実行されてしまった。
結果、眠り猫という名前で有名になってしまった。
仕方ないから、「これは名匠・左甚五郎という・・・」
というような作り話を話題に供した。それが思いの外、受けた。
っていうような、官僚機構経過の結果伝承なのではないかと思います。
ほかの彫刻について、作者の個人名や制作プロセスが詳らかでないところから考えて、
ここだけ、芸術作品的に考えるのは不自然ではないかと思います。
動物彫刻作品はやはり、狩野派のプロデュース、制作は
江戸の職人軍団、というのが真実に近いのではないかと思いますね。
さてどうなんでしょうか?

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2009年05月21日

極彩色の建具ー東照宮3

7681.jpg

写真を再度チェックしていて、まぁ、圧倒される。
ここまでデザインもキッチュで、ファンキーなテーマで、
しかもカラフルでにぎにぎしい。
陽明門の左右の塀を飾っている間の戸、嵌め込まれた建具の様子。
柱の寸法は決めているでしょうから、
この彫刻建具は、たぶん、製作の工房で集中的に仕上げられたものでしょうね。
デザインモチーフと、下絵のような設計図が彫刻職人に渡されて
大量生産のように生み出されたものと思われます。

わたしたちが、日本の伝統とかいう場合、基本的には
「わびさび」というような世界の表現が思い起こされるのが一般的。
幽玄であるとかの、静謐な世界というのが想起される。
そういうのって、哲学的には禅の影響が大きいのか、
それとも、仏教的な価値観による無常観が支配的と言うことを表しているのか。
いずれにせよ、表現物の先に精神性の世界が見え隠れする。
そういう一般的日本文化に対して、
どうにもこの江戸初期の文化世界の極彩色文化は特徴的。
上方から権力の中心を無理矢理持ってきた
江戸の新興の文化の初々しさが、こんな表現につながったのか。
やはり浅草寺とか、江戸の町人文化の色合いを強く感じる。
逆に、こういう東照宮造営というような巨大公共事業が、
江戸の庶民的なわかりやすい極彩色文化を生み出していく母体になったのか。
それまでの文化が、京都を中心にして生み出されてきたのに対して、
新開地としての江戸に権力が移ってきて、
そういう浮き浮きとしたような気分が、こういうデザインを生んだのでしょうか?

思い切り現世利益的で、蠱惑的な
経済的にも、バブリーな世相を感じさせるようです。
たぶん、江戸の下町で、こういう彫刻建具を制作して大きな金額を手にして、
降るように金が動いていたのが、江戸初期の世界だったのかも知れません。
永く続いた乱世を収束させ、
政権の安定を考えれば、景気対策として好況を演出する必要があり、
こうした大枚の公共事業が、その役割を担っていたものと思われます。
そういった雰囲気が、こういうデザインからは推測されてなりません。
戦国乱世のプロセスで、争った結果として各地の経済力が向上し、
そういう生産力の向上が、庶民経済の時代の到来を準備したものでしょうか。

まるで曼荼羅世界のような繰り返しの大量な極彩色の世界を見て、
その背景を考えてみるとき、
そんなような思いが募ってきます。

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2009年05月20日

陽明門ー東照宮2

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日光東照宮といえば、極めつけというのは陽明門。
どの建物も凄い装飾性で目を奪われますが、
そのなかでも極めつけにすごいデコレーションが施されている。
入母屋の屋根で唐破風が東西南北に配置されている。
門本体部分から、屋根に掛けてせりあがりの美しさが圧倒的。
そのせりあがりも、さまざまな動物の彫刻がなんども繰り返されている。
ここでは龍や狛犬が主要な動物。
この建物は、方角的にまっすぐ南下すると江戸城に至り、
まっすぐ北側には北斗七星が位置することになっている。
「我、八州の守護たらん」と、死後の役割を規定していた徳川家康の意志を
建築的に表現しているのだそうです。

こういう装飾性の豪華さに目を奪われてきて
ふと、ヨーロッパのベルサイユ宮殿などとの類推が頭に浮かんできました。
時代的には、ほぼ同時代と考えられるのですが、
この時代の精神性に、こういう建築表現が合ったのかも知れないと思います。
同時代の建築家といってもいい、と思われる小堀遠州の作庭にも通ずる
「豪華絢爛」への憧憬が強烈だった、のでしょうか。
現代では、このような時代精神は思い起こそうとしても感受しにくい。
現代で立派な建築という場合、
装飾性というのは、このような方向性を向くことはない。
どう考えても、機能性という部分で、あまりにも装飾が過剰すぎる。
こういう建築的な志向性というのは
やはり建築主の精神性を色濃く反映してはいるのだろうと思う。
そう考えると徳川家康というのは、日本史上でも稀有なシステム構築者だと思うのです。
徳川時代という安定的な社会システムを
実にあれこれ作ってきたひとだと思う。
戦国期を通して巨大なパワーを持っていた本願寺勢力を
東西に分断して勢力を各個分散させて支配したあたりなど、
実に巧妙な仕掛けとか、仕組み作りに長けていた。
そういった支配者の個性を把握して、建築を考えた担当者たちが、
こういった建築のデザインを作っていったというものなのではないか。
細かく組み上げられている建築装飾の連続性などに
ふと、システム構築的な粘着的な精神性を見る思いがしてくるのです。
公共事業的に大変な費用がこれらの建築には費やされただろうけれど、
その計画立案にあたっては、施主側に計画が採用されねばならないわけで、
権力側の意志とか、好みのようなものをデザイン的に満たす必要は当然あったでしょう。

この陽明門の意匠デザインを見ていて、
繰り返し展開される装飾世界に、そんなような印象を抱いた次第です。


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2009年05月19日

日光東照宮探訪ー1

7678.jpg

以前にも一度、駆け足で見てきた日光東照宮。
やはり建築に関連するものとしては興味があり、出張の帰路、立ち寄ってみました。
若いころには、日光東照宮というと、
あまりにも俗物的な表現に反感に近いような感覚を持っていました。
徳川の政権を覆した薩長政権が自らの正統性を高めるために
日光東照宮のような世界を否定し、
脱亜入欧的な文化政策を当然のように展開する中で、
俗物的、というような評価を世間に広めたことが
わたしのようなものにも、予断として刷り込まれていたのかも知れません。

進行している権力争奪としての歴史というのは、
たぶん、前政権を否定することが一般的なので、
このような先入観念が一般的に刷り込まれるのは、当たり前でしょうね。
ただし、戦後の昭和30年代、40年代に青春期を過ごしたわたしのようなものでも
そういう雰囲気に飲み込まれていたというのは、
そのプロパガンダがいかに強烈だったのか、
ということを表しているのでしょうか。
しかし、写真や文献などで紹介される日光東照宮のウリには
やはり、そういうプロパガンダが、さもありなんと思える雰囲気はある。
というようなことで、初めて日光を訪れたのも5年前くらいでしょうか。
今回は、純粋に古い建築に接する気持ちで
訪れてみた次第です。

まぁ、やはり写真のような
「過剰な装飾性」というのが、圧倒的に迫ってきます。
これでもか、という色彩、飾り物の絢爛豪華さ、が見るものに訴えかけてくる。
同時代の、というか、徳川権力へのゴマすりとも思える
仙台伊達家の遺講でも共通している、色彩とゴテゴテしさの世界。
写真はいくつかある山門の様子ですが、
これでもかこれでもかと、飾り物が目を奪う色彩で展開する。
で、一方、この立地は江戸からだと将軍の移動に
3泊4日の往路が予定されていたという山深い場所です。
宇都宮からでも相当な距離がある。
緑と自然豊かな山間に、忽然と出現するきらびやかな浄土世界、
というのが建築空間としての意図なのでしょうね。
領域の広大さから言えば、また宗教施設従事者の数の多さからいえば、
これは都市建設といってもいい規模。
こういう場所であれば、
わびさびの世界を展開しても、ニーズには合わない。
庶民の活気ある現世的なアクティブな装飾性が似合うとも言える。
極彩色の曼荼羅のような世界が、庶民にはわかりやすいでしょう。
鎌倉期の武家政権は、禅宗世界を自らの精神性として主張したと言えますが、
それに対して、江戸の武家政権は現世利益的な
大衆的な文化を採用したと言えるのでしょうか。
下克上の、熾烈な社会的な身分の対流作用が活発に展開した結果としての
平和国家社会としての江戸社会を表現したのか。
まぁ、いろいろな見方は出来る空間だと思います。

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2009年05月12日

オホーツク文化人の住宅

7668.jpg


日本列島の歴史の中で、きわめて特異な存在が
8世紀ころから12世紀ころまでその存在が確認されている
オホーツク文化人。
北海道島の発展の中でも、石器・縄文からアイヌまでの
文化的な流れとはやはり異質。
海獣を主要な狩猟対象として海民としての文化を持っている。
アジアのバイキング集団というようにも言われている。
北海道でもオホーツク海一帯の海辺にその生活痕跡が残されている。
一方で、王朝国家とも交易関係で結びついていて、
北方の狩猟産品の高級品では、
どう考えても彼らの手で採集されていたに違いない産品が、
皇族や貴族の高級趣味生活をうるおしていたと想像される。

で、今回のところ遺跡の森の展示館で
発見したのが、写真のジオラマなんですね。
住宅の形式も違いがあるとは聞いていたのですが、
このジオラマはほかの文化民族の竪穴とはかなり趣が違う。
なにより大型で、20人くらいの共同生活が考えられるという。
後のアイヌの文化に引き継がれた狩猟動物の頭骨を
祭壇のように飾っている。
木材で床組みしてベッドスペースを作っていて、
共同の土間は踏み固められている。
出入り口は、屋根頂部からになっている。
出入りが屋根からという形式は、北東アジア人の特徴という。

後の世のアイヌの衣装が、
「蝦夷錦」というもので、中国皇帝権力機構の
「官服」だったということからも知れるように、
北海道では、北からの交易関係がヤマト国家との関係よりも
むしろ大きいものだったということを表していると思います。
そういう流れの中に、このオホーツク文化人というのは存在している。
どうも、このひとびとの有り様を見ていると、
日本というまとまりではない、広がりの深さを感じざるを得ません。
かれらがどのような考え方、感じ方を持っていたのか、
もっともっと、知りたくなってくる気持ちを抑えることが出来ません。
う〜む、面白いというか、泥沼というか(笑)・・・。

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2009年05月11日

過去への想像力

7657.jpg

よく考えてみるんですが、
わたしたちは現在と向き合いながら、生きている。
段々年齢を重ねてくると、このひとつながりの「現在」がいろいろに存在してくる。
って、変な書き方ですが、
複合的な要因からものごとって進行していって、
思わぬことが起因で、まったく別のことが変化したりもする。
歴史とか、勉強の世界ではまっすぐに
「信長による天下統一事業」みたいに
特定の人間の生きた視角からとらえ返したりして
整合性を与えようとしたりする。
でも、現実的には、個人も内面も大いに変化し続けているもの。
跡づけて考えれば、信長という人物はこうであったのではないか、
というような「まとめ」は不可能ではないだろうけれど、
どうも実態とはかけ離れざるを得ないのではないか。
どうしても、個人の考え方などに依拠した方が
まとめやすい、という方向に行きたくなりがち。
ある個人が、大きな役割を果たす、ということはあっても、
直近の時代で考えても、ものごとは個人の思惑で決定されたりはしない。

まぁ、基本的には経済的な変化が時代を動かしていく最大のテーマ。
写真は北海道の江戸期から明治にかけて
大きくにぎわった収奪型産業・大型漁業の様子を描いたもの。
こういう産業って、驚くほどに
残っているものが少ない。
かろうじて風化に耐えて建築が少し残るけれど、
たとえば、「松前の春は、江戸にもない」と謳われたような繁栄の様子、
というのは、具体的なものとしては残ってこない。
よく、こういう収奪産業で蓄積された資本・富は
北海道に残ることなく、
ちょうど、開港して世界との貿易基地として栄えた横浜などに
移転していったのだ、というようなことが言われる。
そういう意味では、現代の金融ビジネスの存在に近いようなものだったのかも知れない。
農業などは、なにかの文化を随伴させていく。
生産のいろいろな局面で、そういう形態が残っていきやすいのでしょうね。

北海道の歴史って、
わたしも小学校以来、習ってきても、
スタートが明治維新以降にしか、スポットが当てられない。
しかし、歴史の事実としてはさまざまな収奪型ビジネスは展開されていた。
そういう歴史を掘り起こして、
まっとうな人間の営みの時間的把握をしなければならないと考えると、
やはり想像力が、絶対に必要になってきますね。
オホーツク海沿岸部の歴史時間とか、
発掘できてきた事実で、想像力が高まってきております(笑)。
なんか、まとまりのないブログになってしまった(笑)、
お許しくださいね。

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2009年05月09日

遺跡の復元住居

7667.jpg

5月2日に行ってきた「ところ遺跡の森」です。
この遺跡は、旧石器時代から、アイヌ期までの8000年以前くらいからの
遺跡が積層している、遺跡の宝庫です。
ここまでの人間活動が発掘され、発見されてきていることは
北海道全体にとって、たいへん貴重な「資産」だと思います。
それが、東京大学の継続的な調査研究の成果でもある、
っていうことなのですから、
歴史的な信憑性とか、真実性はきわめて高く信頼に足るもの。
なにより、日本最高の学府が一地方遺跡のために
ここまで資源をつぎ込んでくれたことを活かさない手はない。
調査自体は、東大の資金で国費でまかなわれてきたのですから、
地方自治体は、まぁ、一定の負担はあったかも知れないけれど、
それを遙かに上回る資産価値をいただいている。

確認されている竪穴住居痕跡だけでも3000近いというのですから、
これはもう、縄文などの時代の大都会、大集落地域といっていい。
しかも民族構成も、多様な民族の痕跡がある。
わたしが高い興味を持っているオホーツク文化人の竪穴住居など、
隔絶するようなレベルの高い文化性を持っている。
ところが、
こういう文化資産を活かすべき現代の貧困さは目を覆うばかり。
まずは、こういう遺跡の存在を地元の人間がほとんど知らない。
友人にオホーツク海沿岸の地方出身者がいるのですが、
「そんなの、あるのか?」
っていう次第。まったく初耳の顔をしている。
そして遺跡の重要な事業になるべき、竪穴住居の復元作業。
これがまったく予算が付かないので、
地元のボランティアによる、勤労奉仕だけで行われている。
っておい、というところなんですが、
作業に当たっていた方に聞いてみると、
時代的、建築的考証は、最初の時に専門家によって指導されて、
その後は、ボランティアにもっぱらゆだねられてきたそうです。
まぁ、確かにきっちりとすべてを綿密には調査できないと思いますが、
ちょっと悲しい現実だと思いました。
石器時代など、どのように「穴を掘った」ものか、
そういう考証から始まって、
本来は歴史や建築の専門家が、いろいろ調査研究しなければならない。
とくに道具の問題って大きいと思うのです。
以前、日高管内の二風谷でアイヌ民族の住居を取材したときには、
たとえば丸木船をどうやってくりぬいたか、
実際に当時の材料を使ってやってみた、というお話しもあったのです。
それには地元で獲れる川床の石が、きわめて材料として適している。
それを掘削道具として使ってみたら、驚くほど性能が良かった、
っていうようなことだったのですね。
そこから、なぜ二風谷がアイヌの集落に適していたかの推論も生まれる。
文化というのは、生活の総体的な把握をしなければならないのですから、
ぜひそのように探求したいものです。
まぁ、アイヌ民族の場合には、そこにダムを造成するために
その国策のために土地を収用するために
国費を文化保護に使えたという側面が大きいとは思いますが・・・。

しかし、そのようなしっかりとした調査は、
あとになって、資源活用を考えるときに、たいへん大きな拠り所になる。
オホーツク圏全域にとって、
この遺跡を中心として、地域振興を図っていく手は十分に考えられると思います。
ぜひ、そのためにはしっかりした本物の調査活動を行っていきたいものだと思います。


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2009年05月08日

江戸期の基本ビジネス

7666.jpg

写真は江戸期から続いていた増毛の成功者・本間家住宅より。
北海道の日本海側一帯は、江戸期に大型漁業で栄えました。
江戸期は旺盛な商品経済が地域的に発展した時代で、
あらゆる産品に及び、
それが今日社会の「地域性」の基本を形成していると思います。
そういうなかでももっとも旺盛な需要は
やはり流行の先端であるファッションであり、
若い女性を彩った呉服が極めつけの商品だったと思います。
西洋近代の国家では、こういう需要よりも
侵略戦争のための軍需産業が大きかったことでしょう。
その意味では、日本の平和社会というのは
江戸期からの基本的な日本社会の性格に根ざしているとも言えるのかも知れませんね。
そういう平和ボケを、黒船が一気に打ち砕き
明治の疾風怒濤の時代があり、
太平洋戦争に至るヒステリーを生んだのかも知れません。

で、こういう江戸期最大の産業を支えたのが
蝦夷地西岸域で大量に収奪されていたニシンを材料にした「金肥」。
木綿畑は、大量の肥料投入を必然にし、その最良の原料として
ニシンがその需要に応えたということです。
そして、この増毛の地でも、この写真のように
最新の京都のファッションである呉服反物が
北前船交易によって、もたらされてきたものでしょう。
「松前の春は、江戸にもない」賑わいだったというのは、
こういう経済循環の根源に北海道地域の産品があったことから
生み出されてきたことなのだろうと思います。
そういう余波のようなものがこの増毛にも来ていて、
いろいろなビジネスをやっていた江戸期の豪商に連なるこの家でも
このような反物を扱って儲けていたのでしょう。

いまの時代になってみれば、
もう、この時代が持っていた呉服反物への熱気というようなものは
追体験は出来ないでしょうが、
このデザインにおいて、京都の文化はまさに核心的に強い影響力を持っていた。
ことばで「下らない」という言葉が日本語の基本言語になってありますが、
それは、京都の文化が生み出す(酒)産品への強い憧憬を
長い年月、日本人が抱き続けてきた歴史を証してくれている。
京都から「下ってきた」ものでなければダメだ、下らない、なんですね。
花鳥風月であるとか、色彩への感覚など、
こういう呉服反物の基本デザインのテーマには
まことに色濃く、京都が持ち続けてきた
日本人の好みの文化性が直接的に反映していただろうと思います。
そういうものに、万金が投入され消費されてきたのですね。
そういう風に見てくると、
最北の日本経済圏という印象が深く感じられてくる光景です。

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2009年05月04日

平安期・北海道での交易実態

7662.jpg

写真は、縄文からアイヌ期まで8000年間の住居跡がある
サロマ湖畔・栄浦から北方を見た様子です。
住居跡は全部で2706軒分が確認されているそうで、
それらが積層しながら継続していたとはいえ、
未発見分も含めて考えれば、ここは狩猟採集生活文化にとって
まるでパラダイスのような地域だったと思われます。
オホーツク人は、漁網のようなものも工夫していたと考えられ、
海産物の採集能力はきわめて旺盛だった。
そういうなかには、「水豹〜アザラシ」なども存在したに違いありません。
日本の歴史で言えば、オホーツク人の存在した時期は
ちょうど平安期に相当するので、
平泉藤原氏が、京都の政権に対して貢納した「北方産品」のなかの
貴重種の毛皮としての物産が想定される。
ここのオホーツク人が採集したアザラシの毛皮が、
平泉藤原氏の手に渡り、そこからさらに京都に収められていたに違いない。
鷹のハネなども貴重な交易品とされているけれど、
それらもこの地域のオホーツク人からもたらされたと考える方が自然。

当時の北海道には、
このオホーツク人のほかに在来の民族として、
「さつ文時代人」が併存していた。
かれらは、道央から道東一帯に主要な遺跡が確認されている。
また、この地域でも痕跡が確認されている。
そうであれば、かれらのネットワークから、オホーツク人との交易品が
きっと平泉地域との交易に使われたのでしょう。
鷹のハネは貴族にとって、なくてはならないファッション素材であり、
アザラシの毛皮は、高貴な女性の衣類として使用されたとか。
ちょうどこの時期は寒冷期であり、
女性の「十二単」などの重ね着ファッションがもてはやされた結果、
こういう素材の貴重性が高まったとも言えるのでしょう。
このような交易品物流ネットワークはどのように出来ていたか、
北海道内の各文化間の交流実態はどのようなものであったか、
このあたりは、まだまだ、わからないことだらけですが、
そもそも交易というのは、狩猟採集社会にとっては基本的な存在意義を持っていたそうで、
ひとの営みの開始から、交易活動はセットで考えるべきもの。
海の幸と山の幸の交換は、人間活動の基本だと思われます。
われわれが考えるよりもずっと自然なかたちで交易は進められていたと思います。
ただし、このオホーツク人地域から、
さつ文文化人たちの主要な居住地域である道央地域間は
どのような交易の道があったのか、探ってみなければならない。
多分、陸路だろうけれど、途中からは豊富な水路も利用できそうです。

明治期からの「開拓の歴史」のほかに
北海道地域には、われわれがまだ、つまびらかに出来ていない
豊かに積層した歴史が存在していると感じられますね。

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2009年04月29日

播磨灘

7659.jpg

きのうの続きです。
わが家の家系で、日本の歴史に登場してくるのは
室町期の播州の守護、赤松氏の経済官僚としてのようなんですね。
だいたい確かといわれているのですが、
学者さんではないので、まぁ、家系伝説という域は出ないのですが・・・。
で、紆余曲折があって、播州の「英賀浦」という中世の港湾都市を
支配していたということが伝えられているのです。
赤松氏は、途中で直系子孫が途絶えたので、
その家を引き継いだかたちになったともいわれています。
家系っていうのは、けっこう途絶えるものなので、
まぁ、ありうることでしょうね。
わが家系にしても、江戸期には夫婦ごと外部から後継者を移植したりしています。
法人的な家を存続することに意味があって、
必ずしも、血がつながっていくことにそれほどのこだわりがない、
っていうようなことのように思います。
戦国期には、播州は織田勢力圏と、毛利勢力圏の角逐が見られた地域ですね。
司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」に、黒田官兵衛の戦争の相手方で
この「英賀」の勢力のことが触れられています。
毛利からの援軍と協力して黒田官兵衛と戦うのだけれど
かれの巧緻な作戦に、まんまとしてやられて敗戦しております。
その結果、なのか、その後、家系は広島県福山市近郊に移っていっています。
毛利のために戦ったので、その勢力圏に避難というか、
移転せざるを得なかったものと思われます。
ただ、それも一族のうちの一部、ということのようで、
敗残軍は、散り散りになったということなのでしょう。

そんなことなので、わが家の伯父とか、
よくこれらの地方を行脚していたということです。
北海道に移転してくる、というのは
いろいろな意味でやむを得ざる決断だったのでしょうから、
郷里との関係も、疎遠にせざるを得ない事情があったことでしょう。
そういう「失われた消息」を求めたくなる、子孫の思いの発露ですね。
いろいろな家系伝説の類の調査活動を近親者が行ってくれて、
いま、書いたようなことが、どうも信じられそうな経緯のようです。
歴史といっても、別に戦争に勝った人が「偉かった」というような
山岡壮八さんのような史観はあり得ないと思うのです。
結局は、経済的な基盤的な部分での激烈な競争があり、
その軍事的表現が、歴史上の「戦争」の意味合いであったのだと思います。
一時的な勝利を得ても、家系という意味では存続しなかった
豊臣家というのは、勝利者なのか、敗者なのか、
見方はなかなか難しいと思います。
歴史の中の局面局面で、先人たちがどんな考えを持ち、
どんな行動をしてきたか、それを考え、
その中から学んでいくことが、意味があることなのだと思います。

いまとなっては、まったく縁遠い世界になっている
こういうジオラマの播磨灘。
いまは、阪神と戦う北海道日本ハムファイターズの応援の方が
似合っているわけで
まことに転変多い歴史だなぁと、思わされますね(笑)。
なんか、いかにもブログ的な、個人的なテーマで
大変恐縮です。
つかの間のゴールデンウィークということでお許しください。

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2009年04月28日

ご先祖の生きた世界

7658.jpg

写真は、瀬戸内海地域のジオラマです。
瀬戸内海地域は、古くから日本が海外と交通する主要幹線海路として
もっとも主要に栄えてきた地域。
畿内地域までアジアや西南日本地域からの外洋船が入っていくのに、
かならずこの地域を通ることになり、
必然的に水や食料などの補給のための港湾が必要だった。
その結果、早くから活発な港湾都市が形成されてきた。
現在、広島県にある草戸千軒遺跡は、実に商業ビジネスが活発だった遺跡として
中世都市の実像をかいま見せてくれているそうです。
絶対見に行きたいと思っているのですが、
まだ果たせていません。
なんでも、手形などの交易痕跡も発見されているという話を聞いたことがあります。
平安期に中国では宋が栄えていましたが、
この国は、商業国家として大変な発展を遂げた国だったそうで、
手形に似たような経済決済が行われていたそうです。
宋との貿易で巨大な経済力を得た平氏が
日本の権力を奪取するわけですが、
かれらが、その権力基盤の神聖聖地として厳島を造営したのは
この地域の経済力を誇らしく表現したものでもあったのでしょうね。

わたしは、今でこそ北海道フロンティアを志していますが、
実はご先祖は、まごうかたなくこういう地域でDNAを育んできた(笑)。
夏とか、海とか、色白なのに胸騒ぎが大きくなるのは、
こんな地域でのご先祖様の体験が、自分の既知体験のように
なにか、遠くから感じられてならないものなのかも知れない、って
なんの根拠もなく夢想することしきりなのであります。
まぁ、間違いなく単なる錯覚ですね(笑)。
ではあるのですが、
わが家は、北海道に移住してきた多くのみなさんと同じように
その家系に対しての探求心が旺盛であります。
幼いころに北海道に移民してきた父や、兄たちが
いろいろに調査活動(笑)を積み重ねてきておりまして、
そんな縁から、一族の歴史研究者の方などとも交流があります。
なので、かなり詳細にわが家の先祖を調べてきております。
先祖の中には、一遍上人もいるのだそうです。
讃岐地方に、律令国家の形成期ころ直接の氏族が見いだせるということ。
そのころから、江戸幕末まで、一貫して
この地図のあたりを、あちこち、転々としてきているのですね。
なにかこう、立ち上ってくるような
おかしさがこみ上げてくる思いがいたします。
さてさて、いったいどんな人生を積み重ねてきていたものか、
でもまぁ、時代によって形は変わっても、
同じ人間、そうは違った感じ方、考え方をするわけがない。
そう思うと、時代の変遷の中で、
どんなように生き延びてきたのか、興味は尽きないのであります(笑)。


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2009年04月26日

古代国家の政庁

7649.jpg

写真は、民俗博物館の展示模型から
東北・宮城野の地に築かれた多賀城国府。
京都の御所のように、古代の国家施設は
このように基本的に方形に区画して、築地塀で周囲とを仕切って
神聖空間を内部に作る。
内部には、広大な庭が造作される、というのが法則的。
朝廷、という廷という言葉は、まさに庭を表しているのだそうで、
そこで、権力者の声を聞くというのが
アジア的な権力様式の姿なのだと思います。
この多賀城国府も、「遠のみかど」という位置づけで、
西の太宰府と似たような、朝廷権力の出張施設なのです。
東北各地に残され、現在も発掘が進んでいる国家城郭は
基本的にこのような建築的特徴を共有しているようです。
やはり、果たす機能において、
同じような機能を持っていたものだったからなのでしょうね。

古代世界において、このようなきれいな方形の敷地割りと、
まっすぐな築地塀の連なり、というものが
当時の人々に、どのように受け取られていたものか。
こんにちのわれわれが、田舎の風景として認識する田んぼや畑は
むしろ、繁華の象徴、生き生きとした経済活動そのものであり、
そういう耕作地は、新規獲得した領土ではなかなか見ることができなかったに違いありません。
追体験を想起してみると、
草深く、自然のままの田舎の風景の中に、
忽然と、こういう幾何学的な形態の建築物が出現している、
っていうような驚きだったのでしょう。
それは、東北の地生えの「蝦夷」と蔑称されていたひとびとにとって
初めて認識する「国家権力」そのものの具体的な形だったのでしょう。
こういう「政治」と、
国家施設周辺に整備された宗教施設などの、
「この世ならぬ」ような一連の建築物が、
蝦夷のひとびとの心には、名状しがたい、
理解しがたい存在でもあっただろうと思います。
平安の世が始まって、桓武という武断的な権力者が
「まつろわぬ」蝦夷のひとびとを「討ちて、獲るべし」と侵略していった
その最前線国家意志がこの多賀城だったのでしょう。
国家意志の側から見る見方と、
強制的に隷属させられた側から見る見方、
その両方を見ていかないと、歴史は正確には理解できない。
そして、こういう建築周辺で、
活発なひとびとの「日常」的な経済活動も営まれていた。
当時から、ずんだなども食されていたものかどうか(笑)。
この城下では、手前側に南下する道があり、
それが突き当たって、港や街道に連絡する道路が整備され、
その周辺が、古代都市を形成もしていたそうです。
いろいろな想念を呼び起こされるジオラマです。

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2009年03月29日

400-500年代・東国日本のムラ

7608.jpg

柵に囲まれた内部に、居住用の建物や、農作業の小屋などが
幾棟か配置され、作業場としての広場で、女性たちが臼と杵で脱穀作業をしている。
農作業用の馬が飼育されていて、
水くみ・運搬しているひともいる。
柵の外側には、各種の農園が広がっていて、
畑作業を行っている人々が点在している。
道路は、必要なあぜ道が各職場に向かって延びている。
住戸はおおむね茅葺きで、方形が主だけれど、
円形とおぼしき平面の小屋も多い。

っていうような、生活風景を活写したジオラマです。
身を寄せ合って暮らす、ムラとしての共同体の生存の基本形。
庶民の暮らしって、たぶん、この5〜6世紀のころの関東地域の暮らしと
そう大きくは違わない形で、ごく近い世紀まで続いてきたものでしょうね。
この写真の中で、社会的な交易の痕跡を考えると、
まぁ、馬や農機具・鉄器などになるでしょう。
このムラで生産された食料を交換材料にして、
権力機関を通してか、あるいは自立的商業手段を通してか、
必要なそうしたものを入手していたのでしょう。
こうした農業生産活動には、生活の羅針盤としての暦の知恵が必要であり、
権力はそういう祭祀を司る、宗教を管理下に置くことで、
権力としての正統性を維持してきたのでしょうか。
こうした農業生産を基礎とした経済単位としての
ムラが、各地に成立することで、開墾が広域に進み、
大きな権力も存在可能になっていった、ということでしょう。
歴史というものは、わたしたちの先人が同じようにものを感じ、
同じように考えただろうと推測しながら探求する楽しみを与えてくれます。
そしてその結果が、いままさに生きて存在しているわたしたちに連なっている。

このような営みの中で、
愛し合い、悩み、苦しみ、よろこび、悲しんできた人間の暮らしがある。
そう考えると、たとえば、コメの生産って、
年に一度の収穫と考えたら、
まだ、日本の歴史年代では2000回と、繰り返されてはいない。
そもそも、そういうコメ生産様式が社会の基本になったのも
まだ、それほど悠久のことではない。
って、いろいろな想念が次々と湧いてきて、
とどまることを知らなくなってしまいます。


さて、きのうも建築家イベントを開催。
バス見学会を含めると、10回目ということになります。
参加者は、そう多くはないとはいえ、切れずに続いています。
また、現実の住宅依頼レスポンスも、増えてきています。
実際に会って話すのと、一方では同時にWEBでもコミュニケーションが進行している。
現代のビジネスって、こういう両方で進行していくものですね。
なにより、根気を持って取り組むことが肝心。がんばるぞ、と。


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2009年03月28日

400-500年代の関東有力者邸宅

7624.jpg


以前に「足利学校」を見学したことがあります。
あれは、八幡太郎と呼ばれて武家貴族のひとつの典型を示した源義家が
栃木県に立ち寄ったときに子孫を残し、
その末裔が足利氏を名乗ったことから始まる家系の本拠地遺講。
本拠の敷地は、ぐるっと壕が巡らされていました。
このように防御機能を果たす環濠というのが
その地域の権力者の伝統的な居館の形式なのですね。

そんな思いを持って、民俗博物館で出会ったのが写真のジオラマ。
表題の通り、400-500年代の関東有力者邸宅ということなんですね。
まさに足利学校と瓜二つ。
ということは、この時代、すでにこの程度の「防御を必要とする」
軍事的強制力を持った有力者が、関東地域に成立していたことを表している。
ヤマト朝廷の大化の改新よりずっと以前の時代になるわけですが、
ここまでの明確な権力機構を感じさせる居館があったのですね。
考証については、民俗博物館に展示されているということから、
相当に検討され、実際に存在した居館を模してもいるでしょうから
疑問を持つ必要はないだろうと思います。
具体的にこういう模型展示を見ていると実にいろいろな想像が膨らむ。
っていうか、いろいろな具体的事実を再構成していって
想像復元していくと、こういう具体的な造形にたどりつく、ということか。
環濠がここまで大きいと言うことは、
「万が一攻められる場合」というのが日常的準備として存在していることを表している。
そういう緊張関係が日常化していたのでしょう。
まさに、倭国大乱と魏志に書かれている状況が
切迫感を持って迫ってくるようです。
塀も、整然と方形に幾何学形で構築されている。
その後の時代の「官衙」の形式に似ているようでもある。
このような幾何的な形というのは、
民衆にとって、「尊貴なるもの」を具体的にイメージさせる効果があったのだろう。

こういう居館は、一定の地域にとってまとまりの中心装置でもあっただろうから、
数多くの民衆が、ここに通ったり、
ここで働かされたりしたに違いない。
農耕のためのスキやクワといった鉄製品も、こういう居館で管理され、
あさ、1日の農作業の道具をここで渡されて
それぞれの農地に向かったりしたことが想像される。
そして農作業が終わったら、農機具を返却して、
竪穴住居の一般民衆住居に帰っていく、というような暮らしぶりだっただろう。
そういう意味で、権力の明確な表現であるとともに、
民衆にとっては、生活の場でもあっただろうと思います。
いったん戦争が勃発すれば、
こういう共同体が、一体となって戦ったのも間違いがない。
管理された農業生産と、戦争行為が同時に進行していった歴史時間。
弥生的生産様式・社会というのは、
具体的には、こんな社会であったのでしょう。
「一所懸命」という言葉がもつ強い意味合いをも感じさせてくれます。


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2009年03月22日

弥生時代のキャッチャー

7616.jpg

3連休、きょうまでですね。
WBCもあとは準決勝、決勝と勝ち抜き戦があるだけ。
よくぞここまで、戦ってきているものと褒め称えたいですね。
まぁ、きのうの原監督、
いいコメントを出していましたね。
「尊敬するアメリカ野球」という言葉を出して、
アメリカ社会を十分に意識した素晴らしいコメントだと感心しました。
っていうか、ベーブルースの本の話を引き合いに出すなど、
本心から発露しているようで、
戦いを前に、正々堂々とした姿勢を打ち出して
「国家の威信を賭けて」というよりも、日米の絆の深さを訴えるあたり
なかなか、指揮官として優秀だと感心いたします。
こういうコメントのあとの戦いは、
純粋なベースボールが展開するものと思います。
監督という仕事、立場というのは、
選手を戦いやすくするのが最大の任務だと思うので、
そういう意味で、今回の人選はまことによかったと思います。
選手たちの結束力は、今回かなり高く、一体感のあるいいチームになっています。
かくなるうえは、全力ファイトの日米決戦を期待したい。
選手たちを信じて、祈っていたいですね。

なんで野球の話になっているのか、
この写真を見て、つい歴史ネタということを忘れたことが大きい(笑)。
歴史民俗博物館でのひとこまなんですが、
弥生社会の兵農一体ぶりを表現したものなんですね。
日本の水田による米作は、たぶん、朝鮮半島からもたらされた段階から
集団的な分業と、階層分化が明確な「組織」として
「移住」的に移ってきたものではないかと思っています。
米作自体は、中国揚子江河口地域から少しずつもたらされたものと思いますが、
社会システムとしてのものは朝鮮社会からの移住が大きかったのではないか。
で、米作の適作地を求めてその地域を占領し、
他に対して防御的な環濠を巡らして、
深く壕を掘って、他者からの略奪に備えていた。
また、逆に他にスキがあれば、このように武装してそこを襲って、
自分たちの占領地域を広げていったのではないか。
鉄器の生産管理は、ごく初期からのこうした環濠集落で広く行われてきたけれど、
それは、農業生産力の向上のためでもありながら、
同時に殺人兵器の生産でもあった。
っていうように思えます。

なんですが、このマネキンの様子。
なんとなく、野球のキャッチャー然とも思えてユーモラス。
木製の楯、棒を持って戦う様子ですが、
弥生時代の城島とも思える(笑)。
っていうことで、前振りと本論の、どっちがどっちか、
どうもよくわからなくなってしまった本日のブログです。
いずれにせよ、がんばれ、ニッポン。

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2009年03月17日

縄文のヴィーナス

7615.jpg

これ、歴史民俗博物館のエントランス正面に展示されている造形。
でも、これ、現代彫刻ではないんですよ。
実際に4000年から5000年以前のわたしたちの祖先が造形した「作品」なんです。
って、ちょっと信じられない。
・・・・
ということで、インターネットで調べたら

最初に「縄文のビーナス」と呼ばれた
山形県西の前遺跡で出土した土偶(重要文化財)は
あまりにも現代的な造形の土偶には驚かされます。
この土偶は頭部には紋様が見られませんが、衣装を纏っております。
この衣装と見られる腰部に文字と思われる紋様が描かれております。
縄文中期4000年前に制作されたものとされております。

っていうような次第です。
まぁ、ここに書かれている文字のようなモノも
きわめて興味深いものとはいえると思うのですが、
こういう形態を生み出す造形家としての芸術的感性に深く打たれます。
芸術というのは、日々の暮らしのなかでの余剰のような部分、
もしくは豊かさの発露、というように一般的に理解されるだろうと思うのです。
生きていることに対する賛歌のような思いが
芸術的な表現に人間を駆り立てるのではないか。
こういう表現物を生み出した社会や、その個人に対して、
たまらない愛着を覚えてしまいます。

日本的な感受性の系譜の中に
こういう作品を持っているというのは、誇らしい。
日本人が生きてきたことの記念碑的な作品ですね。
こういう作品を生み出した背景としての縄文社会というのは
おととい触れた三内丸山の暮らしぶりに理解できるように
非常に完成度の高い豊かさを持った社会だったと言えると思います。
文字は別としても、こういう表現物を生み出すほどに
文化レベルがきわめて高い社会であったことは疑いようがない。
日本社会は、何回か、
海外からの刺激によって変容した社会だと思います。
近くは欧米的価値観のまるごと受容。
古くは文字の導入、律令国家、仏教文化の受容などなど。
その都度、日本的にそれを受容し、
「日本的」と、今日、わたしたちが表現するような
独自文化として発展させる能力を持った社会だと思うのですが、
どうも、弥生の先達としての縄文社会も、
弥生を大きく包み込んで受容した
発達した社会的感受性を持った存在だった気がします。
弥生的な、東アジア世界の受容は、
このような作品を生み出した縄文によって可能だったのですね。

深く立ち止まらされるような作品に、
出会ってしまった思いがして、たまりません。


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2009年03月15日

三内丸山の大型建築

7612.jpg

さて、歴史民俗博物館取材で、しばらく歴史ネタは大量の取材在庫がありますので、
いくらでも取り上げられることになっています(笑)。
っていうか、通常の仕事関連のブログのほうが
触れなければならないテーマが多くあるので、
とても紹介は無理ですね。
写真撮影点数は、360点もあり、そのどれもが興味津々のもの。
自分自身の中でも、まだまだ整理統合できていないものばかりです。

ジオラマが興味深い、ときのう書きましたが、
さっそく目に飛び込んできたのが、
青森市郊外の「三内丸山」大型建造物復元ジオラマ。
ここには2〜3回足を運んでいる記憶がありますが、
まさに「縄文の都」「国のまほろば」とでも呼ぶにふさわしい景観。
物見のやぐら建築がシンボリックですが、
縄文の都市、って呼ぶことに異論が出ないほどの大型建築が印象的。
その建築がどのように使われていたか、
現代最新の知見を動員して、ジオラマ表現しています。
建築の連なり、大きさから、どう考えても
千人を下らないひとたちがこの縄文の都で暮らしを営んでいた。
活発な交易活動を営む基礎の港が、ごく近くに迫り、
同時に海の動物性タンパクは豊富に消費され、
栽培されていたと推定される「クリ」が炭水化物の最たるものだったでしょう。
そうした植物性食物は2階に植物繊維で編み上げた袋や容器に貯蔵され、
多くの大型土器に、海山の幸が豊富に貯えられていた。
むしろを敷いて、いろいろな作業を分担しながら、
「都市的生活」を営んでいたに違いありません。
よく見ると、麻のような線維を編み上げた服を着ている。
衣食住というけれど、服を作るというのも人間の基本的労役。
女性の基本的な労役が機織りであるのは、
洋の東西を問わない。女性がファッションに敏感であるのは、
たぶん、こういうDNA的な部分での経験記憶が預かって大きいのではないでしょうか?
こういう大型コロニー、まぁ、都市と呼んでいいでしょうけれど、
その運営は、どのような社会システムで行われていたのか、
農耕社会が普及する中で必要性が高まった「文字数字表現」直前の段階で、
いったいどのように社会が運営されていたのか、
文字がないので、それを知るよすがは残されてはいませんね。
しかし、確実に写真のような共同体が営々といとなまれていたのは疑いない。

それと、「交易」というのは、
人類が出現してからずっと、営々と行われてきたことも間違いがない。
どう考えても、人間の本然の姿の中に、モノを交換して
自分たちの価値感を向上させたい、という欲求があると思います。

まぁ、こういうジオラマひとつに
実に多くの知見が集約されて表現されていて、
飽きることがありません。
生きた歴史・民俗のあたりまえの姿が克明に見えてきますね。

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2009年03月14日

日本建築の木組みの技術

7614.jpg

先日の東京出張時、時間を縫って訪れた「歴史民俗博物館」。
展示されている歴史的知識の積み重ねに比較して
発表資料の少なさは、ちょっと拍子抜けするほど。
大体の博物館では、その収蔵展示物の詳細な紹介本が出されているものなのですが、
って、それを購入して、再度確認するのがわたしの見学スタイルなのですが、
そういう刊行物がない、ということ。
パンフレット的なものくらいしかなくて、
追体験しようと考えても、そのよすががなかなかない。
ホームページなどで、閲覧確認するくらいなのですね。
でも、そういうのではまったく全体像は見えてこないですね。
豊富に展示されている「ジオラマ」が特徴的ですが、
そういう復元展示模型の作成に至った「知のプロセス」なども知りたい。

常設展示の方は、一部、皇室が関係するとおぼしき資料部分については
「撮影禁止」の処置が散見されましたが、
大部分は撮影しても構わないと言うことですので、
カメラで収めていくのがやり方ということになるでしょうか。
歴史研究についての各大学のセンター的な機能も持っているそうで、
最新の調査研究の成果が反映される、むしろ、そういう部分で、
総体的な刊行物を出しにくい、ということかなぁ。
まぁ、それにしても展示の仕方も一般にわかりやすく
ジオラマや、展示模型が詳細で、具体的イメージがつかまえやすい。
本当に歴史好きにはたまらない環境が整っています。
できれば、1週間くらいは通い詰めて、
詳細な「取材」をしてみたいと思っています。

写真は、仕事にも関係する部分で展示室のアプローチに置かれていた
「根来寺」の構造模型展示。
たぶん、建築歴史に専門的に取り組んでいる研究者たちの調査成果なのでしょうね。
まさに日本建築の木組みの美しさを端的に見せてくれる模型。
アジア文化世界の最終的到達地域である日本が、
仏教というこの地域で繁栄した思想表現をどのように感受し、
建築としてどのように表現してきたのか、
その技術の断面を表していると感じます。
四角の中に丸い平面を調和させ、せり上がりの美しさを感じさせる
テーマ的な表現部分をクローズアップした次第。
住宅としては、竪穴のような住宅が一般的だった時代に
こういう木造建築は、思想とか、権威性とかを
民衆に具体的な視覚表現として、訴求させる効果があったのだと思います。
建築技術は、やはり権力に奉仕することが
発展を支えてきた一番大きな力だったのでしょうね。
こういう木組み、見ているだけでつい、時間を忘れてしまう気がします。
って、すぐに立ち止まって見入ってしまうものばかりなんですね(笑)。
ううむ、
これは困った博物館に出会ってしまったものだと思わざるを得ません(笑)。

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2009年02月27日

北上川の水運

7593.jpg

写真は江戸期の仙台藩領土の絵地図。
いろいろな藩の絵地図って言うのが残されているのは、
幕府がその大名の統制のために
詳細な絵図面を各藩に提出を義務づけていたからなのでしょうね。
この仙台藩の図面など、美しくて、またわかりやすい。

図面を見ていて、やはり改めて感じるのは
「陸奥の国」にとっての北上川の重要性。
岩手県北部地域を源流として
石巻付近で太平洋に注ぐ北上川は、太平洋側東北地域のまさに中心。
王朝国家がこの河口にもほど近い多賀城に、遠のみかどを置いたのも自然。
古くからの港町、塩竃は天然の良港といえる位置。
で、この河口から北上川を遡上すると
いくつかの支流と合流する地域に枢要な地域が配置されている。
そのもっとも重要な位置を占めているのが、平泉。
平泉藤原氏の遺跡発掘で発見される遺物の中に、
東海地域の「瀬戸」ものや、北九州地域の陶器、
さらに遠く中国からの輸入陶器などが出てくるのだそうです。
平泉には、中国から来た当時の最高重要輸入品とも言える重要教典も所蔵されている。
この北上川を介した世界的な広がりの交易が活発だったのでしょう。
マルコポーロの「東方見聞録」の時代背景として、
日本東北方地域から産出する豊富な金の記述があったことからも
当時の日本政府とはまた違う直接的な交易が行われていたと思われる。
というか、平家の力の源泉が間違いなく対中交易の結果だったことなどから、
当時の貿易は、正統的政府とは関係なく、実力を持った勢力の私貿易だったのでしょうね。
そうした実力を背景にして国内権力争奪を繰り返してきていた。

そんな背景の中にこの北上川河口地域はあるのですね。
陸上の道よりもはるかに遠距離で、しかも大量の物流をともなった交流の道。
どうもわたしたち現代人は、クルマや鉄道といった物流に
イメージが出来ている部分があるけれど、
歴史的には、そうした陸上交通よりも、
やはり基本的な発展経緯で考えると、やはり水運が大動脈。
水運との関連で、物流のポイントになる地域が
都市として発達してきたのですね。
こういう時代の東北地域というのは、
日本の中でもきわめてユニークな地域として存在していたと思います。

いろいろな想念が起きてくる
絵地図のご紹介でした。

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2009年02月22日

権力とテーマパーク

7589.jpg


しばらく歴史テーマから遠ざかっています。
あんまり冬の間は、歴史探訪する機会がない、ということですね。
昨年の年末には雪が来るまえに、オホーツク方面の遺跡復元住居などを
見に行きたいと思ったのですが、
ちょうど大雪がやってきて、断念せざるを得ませんでした。
また、道南地方にも松前藩関連の遺跡があり、
それも見に行きたいと念願しています。
だんだん、東北地域からふたたび北海道地域に興味が
向かってきていたのですね。
この列島社会では、北海道はやはり特異な発展形態を取ってきた地域。
しかしだからといって、人間の基本的な営み活動から
経済活動から、日本社会と無縁だったとは言えない。
むしろ、交易は積極的なひとびとが北海道に住み着いていた。

写真は、日光に行ったときのもの。
東照宮なのですが、行ってみて、
まぁ、なんとも奥深い地域に家康さんは墓を作ったモノだと感心しますね。
たぶん昔は人跡未踏みたいな霊場だったと思われます。
もともと、山岳信仰的な対象の地域ではあったといわれています。
それを大開発して、日本有数の観光テーマパーク(?)として
整備して、江戸期の「参拝観光」の目玉コースに仕立てたのですね。
京都の観光施設、というか、清水寺とか金閣とか、
ああいうのも代々の有力な権力者が
自らの権力の心象風景を表現したのか、動機は明確とは言えないけれど、
あたかもテーマパークとして残そうと考えたかのように
残ってきていて、文化資産になっていますね。
京都にある場合は、まぁ、それでも費用はそうでもなかったでしょうが、
この日光東照宮なんて、
こういう場所に建築資材を集中させ、
職人たちを常駐させ、
っていうように考えると、壮大なお金が投入されただろうと推察します。

こういうことに血道を上げる、動機の部分、
権力者の思いというのはどんなものであるのか、
興味は湧きますね。
権力を握る過程で、相当に私利私欲での戦争を仕掛けた人間として、
やはり最後は宗教的な庇護を求めたくなるくらい
あくどいことばかりに手を染めたという「暗い過去」を
なんとか、鎮魂させたいと考えるものなのかも知れません。
で、テーマパークとしてみても、ものすごいお金がかかっている。
率直に感動してしまう部分ですね。


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2009年02月09日

十三湊と北海道の関係

7541.jpg


以前も一度、書いたのですが、
平安末期、北海道では刷毛でこすったような文様のついた
「サツモン」土器の生活様式をもった文化が栄えていました。
このひとびとの活動範囲は広く、北上川河口付近でも
この土器が発見されていることから、
東北北部、あるいは政庁である多賀城都市などとも交流を持っていたと
推定されています。
しかし、一般的に考えれば、北上川河口ということから、
平泉藤原氏との交易のために
北海道に生活文化をもっていた人々が、拠点として
造営していた痕跡だと思われます。
北海道と、平泉との交易とは、陸を行くよりも
普通に考えれば海の道、水の道を使うと考える方が自然。
そうすると、相当長距離の航海になります。
そういう困難を超えても魅力ある交易があったということでしょう。
ただし、それはあくまで北海道に暮らす人々にとっては
特殊な交易であったに違いなく、
通常的な、鉄器やらお酒といった交易品は
もっとも近い本土側の港としての、津軽半島西岸の十三湊を使っていたのは疑いない。

この福島城は、創建の年代が平安末期と言うことなので、
従来、鎌倉期の安東氏拠点と考えられていた通説が
覆されてしまっている。
そうすると、この城はだれが、なんのために造った城なのか、
というようなことになっているのだそうです。
しかし、それが平泉藤原氏の関係の氏族による築城と考えても
やはり、基本的な用途としては、
対北海道交易の利権を考えていた城であることはある程度、確定すると思う。
この築城年代より古い記録では
蝦夷地のひとびとが秋田城(王朝政権の出先機関)を攻めたという記録もあるので、
この福島城も、そうした対北方民族への備え、という要素をもっていただろう。
もちろん、交易も戦争も、両方考えていたのが実態。

実際にここに行ってみた実感では、
やはり津軽平野の産品を、海路に乗せて運ぶ基地という
要地に当たっているというのが、ありうべき存在理由ですね。
そして、それは北方世界全体と、より南方の「日本国家」との
中継的な国際交易の拠点でもあった、といえるでしょう。
そう考えれば、日本の玄関口として長く機能してきた
西の「太宰府」と、似たような機能を果たしていたと考えられます。
それを、日本の正史記録を書く勢力ではないひとびとが
そういう機能を押さえていた。
このあたりの、日本国家と現地勢力との間合いの取り方というのは
きちんと正史に書かれることのない部分。
やむなく想像力を働かせるしかない。

平安末期といえば、人物で言えば義経なども出てきますね。
「蝦夷渡り」の伝説も生まれる素地は、やはりあるようです。
本日は、久しぶりに歴史ネタブログということで・・・。

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2009年01月09日

芸術的造形の土偶

7547.jpg


だいぶ以前にも、北海道の縄文期かのころの土面を
ご紹介しましたけれど、
今回も、ものすごく人間内面的な「表現」を感じさせる作品。
これは東京国立博物館平成館で見かけた縄文期土偶。
撮影はきちんと了解の上で取っています。
っていうか、フラッシュをたかない限り撮影は自由というのが
こうした公共施設の基本的なスタンスのようです。
もちろん、特別展などでは別扱いですが・・・。
で、なんともいえないユニークな造形だったのですね。
こうした作品(って呼ぶべきだと思います)からは
豊かな内面性・情念のようなものを感じることが出来ると思います。
現代の作家達が作り出すモノと、ぜんぜん違わない「個性」表現を感じます。
個人主義という現代文明の基本と、そう違いのないものが伝わる。

縄文の時代って、
やはり相当にくらしは豊かなものがあったのではないかと思います。
たぶんこの作品は、ひと型土偶として、
宗教的な儀式などで使用されたものでしょうが
ここまで個性的な表現をするというのは
基本的に想像力の無限な豊かさが伝わってくる気がするのです。
人体のデフォルメの仕方が、なんとも面白く、
しかも顔のまわりの表現など、岡本太郎さんはこれをパクったの(笑)
と思わざるを得ないような楽しさですね。

こういう表現が、そう貧富のない社会で
自由闊達に生み出されていたということに接すると
さてさて、進歩とは一体どういうことなのだろうかと
考え込んでしまわざるを得ない気がしてきます。
こちらをじっと見つめてくる土偶のまなざしに込められた古代の人たちの
豊かでおおらかな精神性に深く思いをいたす次第です。
みなさん、いかが感じられますか?

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2009年01月04日

奥州の馬産

7543.jpg

歴史の中で、謎に包まれていることは多い。
そのことが果たした役割は大きいのだけれど、
実体を持って感受しにくいようなことがらがある。
「奥州の名馬」というのは、そういうなかでも極めつけ。
平安期から、鎌倉に時代が変遷していく中で、
朝廷高級官僚から、武家に権力が移行していく時代は、
軍需産業としての兜・甲冑、武具、刀剣などの製鉄産業がどうなっていたのか、
という部分、きわめて重要だと思うけれど、
案外知られてはいない。
後の戦国時代には、堺の街や鉄砲鍛冶という存在が明確になってくるけれど、
平安末期については、よく見えない状況。
そして、戦争の帰趨を決めた要素として、
もうひとつ、軍馬の生産活動がどのようなシステムであったのか、が
よく伝わってこない。

とりわけ、奥州の名馬、という確固たるブランドを構築していた
第1等の軍馬について、
東北の歴史でも、どうにも曖昧模糊としている。
そんななかで発見したのが上の写真。
青森県での「牧」と呼ばれる馬産施設の様子を描いた江戸末期の絵。
青森県南部地域、平安期には「糠部」と呼ばれた地域は
馬産を基本とした行政単位が構築されていた。
平泉のあたりを境にして、北東北地域は蝦夷の地とされているなかで、
例外的に王朝国家側でも「郡」扱いされている地域。
国や郡という王朝国家の行政単位が
米作の田んぼを基本として考えているのに対して、
この糠部では、馬産を基本の産業要素としてシステム構築していたようなのですね。
王朝国家が、米作単位としての人頭税を基本とするのに
この地域では、米作ではなく、馬産に合わせた収税を実施しようとしていた。
で、なかなか、支配システムが現地でうまく機能できない、
ということから、「蝦夷のことは蝦夷にやらせる」という
方向に王朝政府の方針が転化してきて、
坂上田村麻呂の征服戦争の一段落後に、
現地の「俘囚長」としての安倍氏・清原氏という支配システムができてきた。
このあたり、米作を基本とした社会の法律システムが
北東北・北海道といった当時の非米作地域では、
社会の実情にまったく合致しなかった、ということを表しているようです。
王朝国家社会側としては、
安定的な馬やその他北方資源の供給が求められ、
それがうまくいくように特別なシステムを実施してきたと言うことなのでしょうか。
そのように経済的側面から考えれば、
だんだん、見えてくるものがあるのではないかと思っています。

で、次なる疑問として、
「なぜ、奥州から名馬が産出したのか?」ということ。
頼朝の奥州藤原氏攻めの結果、平泉の文書類が焼失したことで、
日本ならざる北方日本のシステムを探る手掛かりがないというのが
なんとも、困る。
この当時の平泉藤原氏が、どのような社会システムで運営されていたか、
その豊かな経済力と、社会の安定はどのように実現していたのか、
そういう部分が、見えにくいのですね。・・・う〜む。
この絵を見ながら、深く考え込み、
いろいろな想像力を働かせてみている次第です。

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2009年01月01日

鶴岡八幡宮

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あけましておめでとうございます。

ことしは、景気の動向がたいへん不安定な中での新年。
どのシンクタンクの予想も、日本経済マイナス成長という予測。
政府の発表がかろうじてゼロ成長予測と言うこと。
日本の「成長率」を引っ張ってきた大企業が
概ね、輸出型産業であり、
そういう産業が、軒並み大きく業績を下げていて、
世界最大のマーケットであるアメリカ市場が好転しないと
国内景気も底値を探る展開が続くのでしょうね。
いや、まことに厳しい状況だと思います。
ましてや、さしたる産業のない北海道を基盤とする企業は、
なかなか、展望が見いだしにくいなかにいると思います。
さて、どうやっていくか、知恵を出して、
元気を出して、立ち向かっていくしか術はないでしょう。

写真は、武家・源氏の「神聖幕府」、鶴岡八幡宮。
ほとんど時代が前後する平泉の伽藍群と、
中世的都市の成立の仕方が似通っているだろうと推測しています。
平泉は、昨年、世界遺産申請が却下されてしまいましたが、
鎌倉も世界遺産申請を検討しているのだとか。
仮に、鎌倉が認められると、平泉という奥州の首府は
繰り返し、関東に敗北を喫することになる気もします。
源平の争乱とは別の意味で、頼朝は
むしろ、正面の敵は平氏よりも平泉と考えていたのが正解なのでしょう。
平氏との戦いは朝廷・院政との政治的思惑の戦いだったけれど、
っていうか、同じ陣営内での勢力争い的なものだったのに対して、
平泉との戦いは、まさに天下分け目の戦いと考えていた節がある。
平泉を殲滅した大軍勢の動員は、
後の世の秀吉の北条攻めと比肩されるような、政治的大虐殺だったと思います。
ただし、そのように意識すればするほど、
都市計画とか、武権の作り方とか、朝廷との距離関係とか、
いかに頼朝が平泉を徹底的に研究し尽くしたに違いない、という
事実を浮かび上がらせてくれると思います。

さて、これから、わが家は
北海道神宮に初詣です(笑)。さて、いい運勢になるように
しっかりお祈りしてきたいと思います。ではでは。


北のくらしデザインセンター
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2008年12月23日

龍の天井画

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写真は、関東鎌倉の建長寺の一堂の天井画。
昔の都市の成り立ちとか、機能とか、
いろいろ興味が募ってきています。
都市と権力、宗教施設の関係など、いろいろ調べているところ。
鎌倉というのは、関東の武士団が王朝の首都、京都に対して
まったく独立した政権を樹立して造営した武家の首都。
で、前九年・後三年戦役から藤原氏による平泉都市建設を
間近に見て、それに深く影響を受けて
頼朝はこの鎌倉の建設を進めた。
その権力後継である北条氏に至っては、
奥州の北方圏交易の利権によって、その権力基盤を固めたと言われている。
どうも、藤原氏平泉の光景は、鎌倉に基本的に受け継がれてきていると思える。
権力を握ると、
鎮護国家思想として、仏教なり、神社なり、
宗教施設の祭祀を司る、というのが洋の東西を問わず、一般的。
そう考えると、藤原氏平泉のあの荘厳無双な宗教設備は
どれだけの気宇壮大な権力規模だったのか、
想定するにあまりあると思えてきてなりません。

で、だいたいこういう都市建設では
龍が何匹か、描かれるのが一般的に多い(笑)。
というか、東洋的な風水思想の発露として、
都市の発展を願って、龍が何本か、空に登っていく地、という考えがある。
鎌倉という都市を建設する都市計画のなかで、
中心的仏教施設と考えられたこの建長寺は
行ってみてびっくりするほどの広大な寺域を誇っている。
まさに都市計画の中で、中枢的な意味合いを持っていたと思われる。
そういう表現が龍なのだ、とも言えるのでしょうね。

龍は想像上の生き物だけれど、
であるだけに、なんとも楽しい想像力が発露している。
俵屋宗達の国宝・風神雷神図のように、
現代のマンガ表現につながってくるような、楽しさがいっぱい。
ニッポン人の想像の世界って、
どこか通底していると感じられる部分があって、
面白がっている次第です。

北のくらしデザインセンター
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2008年11月15日

縄文期の土面

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写真は北海道千歳市近郊で発見された縄文期末期の土面。
墓標の一部として使われていたと推測されています。
2000年以上前のひとたちが土をこねて造作した作品。
こういう土面としては珍しい写述的なもの。
そうですね、無表情ではあるけれど、
なにか、訴えかけてくるような表情があって
心に残ってくるような趣があります。
こうした遺跡発見物には、人間個性を感じさせるものは少ないのですが、
そういうなかでは、飛び抜けて「個性」表現が感じられる。
こうした時代の人びとは、っていうか、
歴史年代以降でも、「個性」というような部分って、
日本の歴史では近代の西洋文明が導入されるまで
そう大きな関心を持っていなかった領域だったと思います。
それよりも、個人は集団に帰属するものであり、
なによりも「家」の存続が、個人を超えて最高規範だった社会だと思う。
武士の生き死に、死生観のなかに
死後、自分の死を超えて家の存続を保証してくれる存在として
そういう死の見届け人、家存続の保証人として、
「大将」というものがあったと思われます。
そんななかで、それも縄文末期の時代なのに、
どうも、この土面からは匂い立ってくる「個性」が迫ってくる。

写述への強い思いを抱きながら作ったものなのではないかと
そういう推測、想像が沸き立ってきます。
やや少年的な顔立ちを感じるのですが、
ひょっとすると、愛する子どもが不慮に死に、
その我が子への愛情を心に思いながら
その親が造作した作品なのではないかと、
情念が感じられてなりません。
事実や、残されたものから、
どういう思いでこうしたものが作られたりしたのか、考えること、
歴史を楽しむって、ようするにこういう人間への興味が
その根本にあるのでしょうね。
で、やはりその判断材料は、わたしたちと同じように
感じたり、考えたり、願ったりした人間の営みだったということなんですね。

みなさん、こんな土面から、どんな思いを感じられますか?

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2008年11月12日

年表の魅力

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写真は先日終わった「古代北方世界に生きた人びと」展の図録から。
年表って、学校時代を思い出すわけですが、
久しぶりにこのように並べてみると興味深いものです。
この年表では、日本、というかヤマト朝廷国家の動きと、
並列的に東北地域での動き、北海道の様子、
さらに北方の北東アジアから中国の動向などの
古代世界での国際関係や世界的な関係性などが一目瞭然に把握できる。

どうしてもヤマト朝廷国家からだけの見方をしやすい、
というか、そのようにしか歴史教育をしていないから当然だと思うのですが、
そういう考え方から一度自由になってみてみる必要があると教えてくれます。
もう少し相対的な見方を教育すれば、話題の自衛隊官僚のようなひとは出ない・・・。
考えてみれば当たり前なのですが
古代世界では、現代のような国家の制約というのは存在しない。
国家成立以前から地域間で行われてきた交流は
ごく自然的に存在したと考える方が自然。
古代に北東アジアで成立した「渤海国」は
700年代から900年代にかけて30回以上正式な外交交渉が記録されているけれど、
かれらはヤマト朝廷の正式外交窓口・太宰府ではなく、
出羽の国や能登半島などにさかんに来着する。
能登半島にはこの国名を冠したホテルがあるそうですが(笑)
北東アジア、沿海州にある国家としては
日本海北方ルートを南下してくる方が安全で、慣れた航路だったようです。
ヤマト朝廷側からはさかんに太宰府に来いというけれど、
全くそういうルートはとらないのです。
ということは、「日常的に」使っている安全ルートが存在していたことを証明する。
そうでなくても、国家外交は日常的な交易活動を円滑にすることが
大きな目的だろうから、交易は盛んだったに違いない。
で、こういう地域の歴史記述はヤマト朝廷側には少ない。
しかし、盛んであったことはその後の日本史の進展から明らか。

年表からは、こういう事情とかも重ね合わせながら
いろいろな事実間のつながりが見えてくる。
どうも、このような北方交易の利権官僚連中というのも
跳梁跋扈していたようです。
欲深い人間くさい部分はどうも容易に想定ができてくるのですね。
まぁ、そういうのは絶対に正史には登場してこないけれど・・・。
さらにこの年表がおもしろいのは、
当時の気候変動や、自然災害の様子も記述されている点。
現代よりも自然への依存性の高い社会ではこういう部分もきわめて重要。
っていうことで、
楽しく想像力を盛り上げている昨今であります。


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2008年11月04日

「北方世界の古代文化」講演会

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きのうで、北海道開拓記念館で行われていた
「古代北方世界に生きた人びと」展が終了いたしました。
最終日を飾って、福島大学名誉教授・工藤雅樹先生の講演会が開かれました。
先生の著作はだいぶ、読んでいまして、
まさに先生はこの古代北方世界の歴史の第一人者という方です。
あいにく冷たい雨が降りしきる悪天候でしたが、
会場は130人くらいはいたでしょうか、大盛況。
比較的に高齢の方が多かったのですが、なかには子どもさん連れもいたりで、
こうした興味が徐々に膨らみつつある現状を物語っていました。
わたしの興味がすこし多くのみなさんとも共有していると感じられて
ちょっと、うれしくなりますね。
カミさんからは「チョーマイナー」と言われている(笑)次第ですが、
こういう光景を見ると、カミさんに報告したくなります。が、
彼女は別行動で、残念でした。

工藤先生のお話は著作を通して論旨は理解していますので
その詳細な展開部分に、強い興味を抱きました。
とくに古代歴史の世界でも、人間の営みがかいま見えてくるような部分、
たとえば、国衙を襲って犯罪人になっていた不良貴族が
最高権力者・藤原道長に贈り物などで取り入って、
当時最大の利権役職、対蝦夷交易の責任者・鎮守府将軍職をめでたく拝領するくだりなど、
生々しい「悪徳の栄え」を見るようで興味深い。
また、ヤマト朝廷側との交易の進展にともなって、
蝦夷の側の社会構造も変化していって、
次第に部族間・有力者間での争闘が激しくなっていった様子など、
当たり前ですが、欲望と悪徳と、弱肉強食が支配する人間社会の縮図を見せてくれます。

講演後も、先生は展示会場に姿を見せていただけ、
2,3の質問にも答えていただけました。
わたしが一番聞きたかったのは、「奥州の馬」に関することなのですが、
最先端の研究でも、まだまだ、このあたりのことは不明のようです。
いろいろな推論が交わされているのが現状ですよ、というお答えをいただけました。

たいへん興味深く、想像力も刺激される講演で、
しばし、その余韻にひたっている次第です。
また、先日来旧交を温めさせていただいているUさんからは
貴重な資料もいただけました。深く感謝しております。
ありがとうございました。
さてさて、ライフワーク、資料がいよいよ充実してきました。ふむふむ・・・。

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2008年11月02日

現代の戦争世界史

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わたしが歴史が好きなのは、このブログの読者のみなさんにはお分かりでしょうが
直近の時代である、太平洋戦争の時代史は
あまりにも資料がありすぎて、正史として定めにくい部分がある。
また、権力のなまなましさが戦後に連なる部分も多いので、
教科書的にも触れにくい部分。
しかし、考えてみると、明治維新から敗戦までの時間と、
現在時点の戦後との時間が釣り合いが取れてくるほどになってきた。
そんなことで休日、戦争のアメリカ側からの視点でのものを見ていました。
ドキュメンタリー的にアメリカの政治事情も伝わってきて、
国民には知らされていなかった
日本の政治意志決定プロセス内部での葛藤なども伝わってくる。

日本のナマな権力構造って、
やはり恐ろしい構造をしていると実感させられる。
沖縄戦での地上戦での困難ぶりが、
精神文化を異にする国家との陸軍戦での泥沼のような状況が
アメリカ内部で相当に議論されたことは想像に難くない。
そんないろいろな思いを知らしめさせられました。
http://jp.youtube.com/watch?v=gbnNwM6wcVk&feature=related

で、わたしたちは戦争に負け、
その後の社会が形成されてきているのだけれど、
アメリカという国は、戦勝国家として、時間的には続いてきている。
その後、ベトナムでの敗戦があるけれど、
たいして反省のないまま、いま、イラクを占領し続けていて、
しかも、金融経済的には未曾有の恐慌的局面を迎えている。
世界大戦の契機は、NY大恐慌が引き金になって来ている、という見方からすると、
今回の局面をアメリカという国は、どうやっていこうと考えるのか、
大きな危惧を持たなければならないと思う。

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2008年10月21日

マイナーな書籍の購入方法革新

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最近、とみにインターネット経由での古書購入が続いています。
中世北方日本についての歴史記述を求め続けているのです。
いちばん参考になるのは、図書館ではあるのですが、
調べようとすると、けっこう「貸出禁止」書籍が多い。
たぶん、出版部数が少なくて万一、散逸したとき
取り返しが付かないというのが理由だろうと思うのですが、
借り出して調べたい、という側にしてみると
どうにも困ってしまう。
また、借り出せて、資料的に手元に置いていつも確認しながら使う、
となったら、どうしてもその書籍を買い求めたくなる。
そういう場合には、出版社に当たるしかなくなるけれど、
場合によっては、もう絶版になっているケースも多い。
そういうときに、便利になってきたのが、インターネット販売。

図書館から借りてきて、ぜひ手元に置いておきたくなった書籍を
購入したくなって調べると、
Amazonの古本販売などが実に重宝する。
そのうえ、当然ながら古書なので値段も安く購入することができる。
本の値段は1円、っていうケースも多い。
たぶん、送料が結構かかっているので、配送業者との話し合いで安くして貰って
送料の定価と実勢の差額で利益を出しているのではないかと思われます。
で、販売に当たっているのは個人というよりも業者。
ということで、推測はほぼ当たっているのではないかと思います。
でもまぁ、これまで古書店に足を運んで
目を皿のようにして背表紙の文字情報を目で追うという作業から解放された。

こういうことで、いまのところ、結構
調査作業がはかどっております。
なにせ、定点ポイントに近い歴史領域のことなので、
それを調べてきた先人の知的作業を足場として利用させて貰う。
歴史博物館などの収集書籍コーナーにある本って、
まさにそういうことだと思うのですね。
でまぁ、最終的には発掘調査資料のような出版されていない報告書のようなものに
たどりつくことにはなります。
そこまで来れば、だいたいその領域の現在時点の収集可能情報という地点になる。
イメージしている歴史領域を攻め挙げていく作業は
まぁ、大体こんなことになると思われます。
しかし、最後は現地を見に行くっていうことになるものと思われます。

現代の情報収集方法、やはりインターネットをどう活用するか
ということが決定的だろうなと
まさに実感させられている次第です。
<写真は住宅構造模型、骨組みですね。>


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2008年10月14日

北海道の義経伝説

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北海道には義経伝説がけっこう残されている。
アイヌ語に地形を表す言葉として、「ペンケ」「パンケ」という言葉があり、
ペンケが川上の(上の)パンケが川下の(下の)を意味します。
まぁ、一般名詞というわけなんですね。
この地名に、いちいち「なに、弁慶がここに来たのか?」
「そうそう、ペンケ、ペンケ」
というような和人とアイヌの会話が行き違いながら成立して
「弁慶が、やっぱり。ならば義経も北海道に渡ったんだ・・・」
ということになったのだろうと思われます。

日本の正史側との関連をなんとか付けたい、
というような意識が和人の認識の中に強かったのか、
ちょうど格好だったのでしょうね。
先日訪問した平取町でも、「義経神社」なるものがありました。
周辺には「義経ロード」だかという道も整備されていて、
観光資源として活用したいという願望の強さが見て取れる。
で、正面からの写真です。
ご神木として栗の木があったりしています。
なんでもご神体として鎧甲があるのだそうですが、
よく記述を読んでみると、江戸期に幕府側のはからいでこの神社に寄贈されたものだそうです。
この地域はアイヌとの交易の拠点であったので、
比較的早くから和人が定住していた地域なんですね。
たぶん、そうした和人側から現地幕府機関に誓願があって、
ご神体とされたものだと思われます。
神社の中を見ていたら、禰宜さんがいましたので、
義経と言うことなので源氏の氏神・八幡神社ではないのですか?
という質問に対して、
「いや、義経といえば騎馬武者、ということでお馬さんの神社なんです・・・」
ということなのだそうですね。
ようするに馬産地になってきた近代の歴史の中で、
地元の要請に応えてきているという次第のようなのです。
いちおう「資料館」まであったので見学してきましたが、
外観からしてサイディング張りで、信憑性はいまひとつ・・・。
陳列されているのは、せいぜい江戸期の「錦絵」で義経に関連しているものくらい。
「地元の洞窟には鎧甲も発見されているんですよ・・・」
っていうのが、まぁ、か細いながらも義経との関連を示す根拠。

確かに反逆者になったワケなので、
源氏の素性を追認するような八幡系の神社になるということにはならないでしょうが、
有名人の名前だけを利用しているというのも
なんとも情けない感じもある。
歴史的事実では、平泉藤原氏の頼朝軍への敗退に際して
敗残軍が北海道に渡ったという事実はあるようなので、
そういう軍が、自らを「義経軍」と名乗った可能性はあると思われます。
そういう中の一団が、平取に流れ着いて、洞窟に鎧甲を脱ぎ捨てた可能性は高い。
たぶん、そうしたひとびとはその後、ほとぼりの冷めるのを待って
北東北の故地にすこしずつ帰還しただろうと思われます。
で、当地には伝説のタネだけが残った・・・。

ということのようですが、
現在は競走馬の活躍をひたすらに祈る空間として、
地元のみなさんに活用されているようで、まぁ喜ばしいことと思いました。

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2008年10月12日

クマさんに出会った

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800年から1200年頃の北海道中部低地帯での暮らしぶりを研究しています。
時代考証していく手がかりがなかなかない。
でも断片的には文字記録のものも残っている。
また、江別や恵庭には古墳が残っている。
古墳って、要するに一定の有力者の存在をうかがわせるもの。
古代のヤマト権力が、連合的な国家を形成するときに
各地域の有力者に対して古墳という祭祀形態を与えたと考えられるもの。
まぁ、どのような経緯でこうした祭祀が広がったのかは定かではないけれど、
日本中にこの形態の墳墓が盛んに作られて、
北海道の中央部でも造営されたことがわかってきた。
ということは海の道を通っての交流が広くヤマト側となされていたことを表している。
また一方で、積丹半島北部側では、北東アジア世界との交流も特定できる痕跡が多く
この地域が、さまざまな交流・交易が
活発に行われていたことを指し示していると思われます。
ちょうど、北東アジアの「渤海」から
727年〜919年の間、
何回も北の日本海ルートで使節が来ているし、
日本側からも使節が派遣されている記録がある。
ヤマト政権側としては、正規の外交ルートは博多の太宰府なので
そちらに来なさいと何度も伝えるけれど、
渤海側は、それを無視して、北からのルートを下ってくる、ということ。
きっと、そのルートが安定的な航路を保証してくれていたのでしょう。
アムール川河口域からサハリン西岸を南下して、北海道を西海岸を下っていく。
そして、最後の難関が津軽海峡だったのでしょうが、
たとえば松前と竜飛岬は天気が良ければ、一気に渡れる近さ。
そうすれば、常に陸地を見ながら、万一天気が悪くなってくれば
陸地に接岸して天候の回復を待って航海することができる。
そういったルートが交流ネットワークとして当たり前に存在していただろうことを示している。

こんなような背景を想定して、
当時の北海道人の暮らしように思いを巡らせているのです。
そんなとき、ちょうど見たのが写真のジオラマ。
狩猟採集は基本的な生業手段ですから、
こんなようにクマさんの生活領域とバッティングしたでしょう。
クマさんもびっくり、人間もびっくりという様子が伝わってユーモラス。
なんですが、こういう危険が日常茶飯だったことでしょうね。
後の時代のアイヌの儀礼でクマの存在感が大きいのはこういう事情でしょうね。

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2008年10月08日

アイヌ文化取材-4 自在鉤

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アイヌの人たちの暮らし方が、
その前時代、檫文文化と決定的に違っているのが
調理と暖房に大きな囲炉裏を使用したと言うこと。
檫文文化の時代には、かまどが部屋の隅にしつらえられていた。
それは、煮炊きに使用したものが土器だったことによる。
それに対してアイヌ文化では、ヤマト社会との交易によって
「鉄鍋」が煮炊き用に使用されていたので、
暖房も考えれば、外気からの寒気を遮る意味でも囲炉裏を
部屋中央に配置するほうが合理的になったのですね。
そのために「自在鉤」が必要になってきた。
見せていただいた自在鉤には、
ごらんのように高さ調節ができるような工夫がされていました。
本州地域の自在鉤と違って、
より暖房の用途比率が高い北海道では、
火力を盛大にする必要があって、
そのために自在鉤の方で、鍋への供給火力を調整したと推測できます。
こういう調整機能付きの自在鉤ははじめて確認した次第。
さらに、囲炉裏上部には自在鉤のための棒が渡されていて
そこに曲げ加工した自在鉤が通されています。
大きな囲炉裏スペース内で鍋を移動させて、大人数での食事に利便性を考えたようです。

鉄器の鍋は、やはり土器に比べると
やはり伝導率も高くて、煮炊きに相当の利便性があったのでしょうね。
調理に革命的な変化をもたらせたものだったのだろうと推測できます。
しかし、鉄を作るというのは、
農耕民族の基本的な生産システムから生まれてくる知恵といえるのでしょうか。
砂鉄などから鉄分を採取して、それを高温火力で自在な形を造形し、
固い生産用具、具体的には土地を耕す道具にするのですね。
鉄が利用されることで、食料生産を社会的にコントロールすることができるような
「農耕型社会」が広がっていくということなのでしょう。
どんなに開墾が難しそうな土地でも、鉄器による開墾で容易になったのです。
そのような鉄は、日本列島社会では
狩猟採集を基本とする北海道地域の社会では生産されなかった。
まぁ、ヒエ・アワといった食料生産は行われていたのですが・・・。
アイヌの人たちの社会は、まさにヤマトの社会との交易によって
基本的に成立していた社会だったことが明瞭に見えてきます。
そして、北海道側からヤマト側への交易材料は、
鳥獣の皮革や、羽根類など、さまざまな狩猟採集の成果物だったのです。

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2008年10月07日

アイヌ文化取材-3 布織り

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アイヌ文化シリーズ第3弾です。
すっかり、布製品を作っていた方と話が弾んでいたら、
外人向け北海道ツアーガイドを研修中の一団とも遭遇して
わたしとの話のやり取りを聞き入って、メモまで取り始めていました(笑)。
とんだことで、取材までされはじめた次第(笑)。

で、やはり彼女の本職は布織りなんですね。
伝統的なアイヌのみなさんの布の基本は木の線維が原材料。
それもふたつの樹種、オヒョウとシナの木だそうです。
オヒョウと聞くと魚を思い出すのですが、そうではなく植物。

オヒョウ(学名:Ulmus laciniata)はニレ科ニレ属の落葉高木。日本列島〜東北アジアの山地の分布する。北海道に多い。
オヒョウの名称はアイヌ語由来である。別名アツシノキ(厚司の木)、ヤジナ(矢科)、ネバリジナ(粘科)。
[編集]特徴
高さ約25m。樹皮は縦に浅く裂け、剥がれ落ちる。樹皮の繊維は強靭。葉は広倒卵型で先端が3(〜9)裂し、縁には重鋸歯が見られる。両面に白い短毛がびっしり生え、ざらついた手触り。4〜5月、新葉の出る前に、淡紅色の小花が束状に咲く。果実は長さ2cmほどの扁平な楕円形をした翼果で、6月ごろ褐色に成熟する。
樹皮(靭皮)の繊維は強靭で、アイヌはこれでアツシ(厚司)という布(あるいは衣料)を織る。別名のアツシノキはこのことに由来。
樹木は器具材、薪炭材、パルプに利用できる。

というようにWikkipediaには記載があります。
見ていると、細かく裂いた木の皮を糸状にして、
それを結び合わせながら、長い糸にしています。
それを写真のような機織りで一枚の布にしていくのですね。
「ここまでの作業がたいへんで、布ができれば仕立て作業は簡単」ということ。
納得できます。
アイヌの暮らしでは、この作業はもっぱら女性の仕事。
まぁ、このあたりは普遍的にそうと決まっていますね。
で、結婚の時には自分で織った布で作った衣類を持参したのだそうです。
女性としての基本能力を表現する仕事なのです。
生成のアイヌの衣装は、このようなオヒョウ製品が基本なのだとか。
そういう意味では、衣類をつくるというのはきわめて日常的な作業。
染めは泥付けなどで行うのだそうです。
ただし、日常使いの衣類ではほとんど生成のまま。
ちなみに機織りの装置は、昔はもっと簡単なものを使っていたそうです。
細かく説明していただけたのですが、
こちら側に理解する想像力が不足していました(笑)。
にしても、布織り作業、糸紬ぎ作業と見せていただいて、
人類文化史の基本を教えていただけた貴重な体験でした。ありがとうございました。

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2008年10月05日

アイヌ文化取材-1

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檫文の文化世界を取材したいと考えている。
あ、檫文っていうのは、土器の名前で北海道の中央部、
石狩低地帯と呼ばれる札幌などの道央圏地域に
7~8世紀から12世紀くらいに繁栄した文化圏のことです。
この文化は、稲作だけがない鉄器受容の文化で、
本州地域日本との交易によって社会機能が維持されてきた文化と言われる。
もちろん、その後のアイヌ文化と同様に文字表記を持たない文化なので、
文献記録で残されているものはほとんどない。
そういう困難をなんとか乗り越えて、
当時の社会の成り立ちや暮らしぶりへの想像力を働かせてみたいと考えています。

とはいっても、困難は相当なレベルの感じがします。
しかし、手がかりはある。
そのあとの民族歴史であるアイヌのみなさんの社会痕跡が残されている。
そういうものを掘り起こしながら、想像力を高めていくしかない。
というような次第で、日高地方の二風谷に行って参りました。
以前、ダムの関係で仕事があり、何度か訪問したのですが、
今回のような目的的な興味がなかったので、ほとんど記憶がありませんでした。
二風谷ダムはアイヌのみなさんのコタンの生活領域に関わった開発行為だったので、
デリケートに扱われ、そのためアイヌ民族文化の保護保全に
多くの国費が費やされた結果、立派な資料館などができています。

写真は丸木船です。
民族の基本的な生活文化というのは、ほぼ似た側面がありますが、
河川の水利を利用するというのは基本的な要素。
そのために船を造るのも、洋の東西を問わない。
まぁ、そういう意味ではごくありふれた展示なのですが、
ここではその製造方法へのチャレンジ映像も公開されていました。
アイヌのみなさんはその文化の初めから鉄器を受容しているのですが、
木を削っていくのに、鉄以外の石器によってのチャレンジも試していました。
そしてその目的に最適な石材もこの地域の河川敷から採取されるのだそうです。
二風谷地域は早期縄文遺跡から積層しているのですが、
その意味で、人間生活に暮らしよい地域だったことが容易に推測できます。
で、その石で丸木船を彫り込んでいくと、実に最適なのだそうです。
こういう情報もあわせて聞くと、まざまざと人間の暮らしが明瞭化する。
それにしても、丸木船を造るというのは大変な労力がいる作業。
なので、できあがると木の神に対しての感謝の儀式も行うのだとか。
こういう船を操って、魚を採取したりするわけで
まさにひとの生存に関わる大切な道具。

同時に展示で興味深かったのが、何を食べていたのかの部分。
男性による狩猟採取の部分ばかりが強調されるけれど、
むしろ、女性たちの労働による、ヒエ・アワ・イモなどの炭水化物農耕や、
山菜などのビタミン採取の季節の生活の知恵などの部分が大きい。
さまざまな山菜への豊かな知恵、その保存や調理方法など、
実に豊かな生活文化が理解されます。
四季の変化に応じた食文化の世界は、豊穣な北国の暮らしの実相を感じます。
このような、北海道の気候条件に適した暮らし方って、
すごいものだと思いました。
あしたは、アイヌの人たちの住まい、「チセ」について見てみたいと思います。


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2008年10月04日

北前交易品偽装事件

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一昨日は気の置けない友人と久しぶりに痛飲。
やっぱり同世代の友人とは、話が合ってはずんでいく。
かれは最近、ようやく歴史小説のおもしろさに目覚めたのだそうで、
江戸期や維新期の歴史小説、それも司馬遼太郎ものに凝っているそうだ。
まぁ、わたしは学生の頃からのファンなので、
かれが興味を持ったくだりなど、ほぼ頭に入っているので、
どんどん突っ込みを入れていく。
そうすると我が意を得たり、というような感じで
その当時の時代背景などに話が膨らんでいく、っていうような次第。
「おまえ、いい趣味持っているなぁ」
と、話ながら感心されておりましたが、
そんななかで、高田屋嘉兵衛のことに話が及びました。
まぁ、痛快な日本人ということで
司馬遼太郎さんが描き出した人物像のなかでも
最上位に位置する人物だと思います。
かれは北前交易という、船を利用した日本海側の交易品流通ルートで
巨利を獲得したことで知られています。
そんなことで、江戸期の最先端ビジネス・北前交易のことについて・・・。

先日行った余市で見た北前船のミニチュアと、当時の主要交易品、
ニシンの金肥の俵もの詰め作業風景写真です。
江戸期はファッション産業が隆盛を極めた時代で、
最新ファッションとしての京都の衣類が
全国に下っていく時代。
その産業興隆を支えたのが、木綿の生産拡大だったと言われています。
木綿は畑で生産されるけれど、
肥料がたっぷりと必要な商品作物。
その肥料として、北海道で大量に獲れるニシンに注目が集まったのですね。
高田屋嘉兵衛 さんなどの成功は、
こういう時代背景が基本にあったわけなのです。
で、そういう知識はあったけれど、
実際にどのようにニシンの金肥が交易船で運ばれたのか、
恥ずかしながら、やはり余市に行ってみてわかった次第(恥)。
まぁ、考えてみれば当たり前なんですが、
植物繊維で組み上げる俵に詰めて出荷していたのだそうです。
江戸期の社会の仕組みを考えれば、当たりまえですね。
基本はコメ生産なのですから、その余剰生産物である俵がいちばんふさわしい。

で、写真のような俵詰めが船で出荷されたのでしょうが、
そこから実は、船上で多くの場合(としかいえない)
俵の詰め替えが日常的に行われていたのだとか・・・。
まぁ、時間はかかるのだし、ただ漫然と運ぶより、
船員の仕事にもなる・・・。
察しのいい方はお分かりの通り、大きいのから小さいのに詰め替えるんだそうです。
要するに1個のものを2個以上にして利益を倍以上にしようという「偽装」の算段。
そもそも北海道のニシン金肥はいい値段で売れるし、需要はきわめて高い。
ならば、多少ごまかしてもいいだろう、ということのようです。
そのように小さくなって荷揚げされても、飛ぶようにさばけた。
北前船の船主の儲けはどんどん大きくなっていった。
もうやめられない、っていうことなのでしょう。

というようなことを余市の方たちの説明で伺いました。
なにやら、当節の食品偽装などにつながってくる不正の伝統(笑)を感じます。
まぁ、とくに証拠は確認できないし、とっくに時効成立(笑)のことですが、
そうした事情は容易に類推できると思いますね。
当時は、そのような交易についての法律や、チェック体制は
事実上はなかったに等しいでしょうし・・・。
あったにしても、賄賂などでどうとでもなったことでしょう。
交易という世界では、こういう側面も
相当に深く考えていかないと、実態への想像力が失われてしまう、と思いますね。
まぁ、余市のことなので、余談の余談です(笑)。


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2008年09月29日

古代北方世界に生きた人びと〜フォーラム

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きのうは日ハムも気になっていたのですが、
やはりこちらのフォーラムに行って参りました。
先日もご紹介した「古代北方世界に生きた人びと」展フォーラムです。
会場に着くなり、先日ブログで紹介したUさんから
「さっそくブログに書かれていましたね!」って、声を掛けられました。
「ギョエ〜、なんで知っているの?」
「検索で調べていたら、一番上に出ていましたよ(笑)」
っていうようなことで、すっかりタジタジ。
「どうせなら、もっと、宣伝になるようにドンドンお願いしますよ(笑)」ということ。
それに「マイナーな話題」と言っていたカミさんの言葉も頭にある様子・・・。
なんか、変な展開になって参りましたが(笑)、
まぁ、わたしとしても本意ですので、多いに宣伝になったらいいと考えています。

展示については、考古年代から奥州藤原政権・山丹交易まで、
考古的な資料から、歴史文献資料までの
北方日本の歴史の流れが理解できる画期的な内容だと思います。
フォーラムの開始に当たってのあいさつで
日本の歴史には、中央政権としてのヤマト政権の歴史の他に、
北東北・北海道を主舞台とする北方世界の歴史と、
沖縄を主舞台とする南方世界の歴史の3つの流れがあり、
それらの複層的な結果として、現代があるという意見が示されていました。
まさにその通りで、「内向きの単一民族」という狭小な世界観の
辞めた大臣には本当に多いに勉強して欲しいと思います。

フォーラムは、古代北方世界探訪・律令国家と北方世界さらに、
古代北方世界の物流・交易、
安倍清原平泉藤原氏と北方世界、という4つの発表がありました。
それぞれに興味深い内容で、時間が足りないというのが率直な実感。
東北歴史博物館・佐藤さんの発表では、
南東北の多賀城の研究からの最新情報も聞くことができました。
大崎平野では、ミニ万里の長城的な遺構の発掘も見られるということ。
平泉以北の世界が、古代の世界で異国として認識されていた
さまざまな例証が語られていました。
檫文文化の世界を、考古的な発見資料から生き生きと伝えてくれたのが
「物流交易」の発表。
石狩低地帯、というまさに札幌もそこに含まれる地域が
奈良平安期にどのような実情の世界であったのか、
具体的なイメージも得るきっかけを与えてくれた気がします。

さらに、歴史文献に記載された安倍・清原・藤原についての
弘前大学・斉藤先生の発表はまさに刮目すべき内容でした。
氏の、岩波書店「平泉〜よみがえる中世都市」は愛読書でもあるのですが、
発表ではむしろ、自著の内容を塗り替えたいという発言もありました。
平泉都市について京都との連関性が色濃く提起されていましたが、
きのうの発表では、その後の調査活動で、
宗教施設の作られようなどを検証しながら、
きわめて独立的な性格が強い、という側面が強調されていました。

フォーラム終了後、展示を見ながら、
発表者のみなさんといろいろな質問などができまして、
こういう試みも大変ユニークだと思いました。
本当は先生に名刺交換などもさせていただきたいと思っていたのですが、
あまりにも多くの質問者が殺到していて、断念。
フォーラム冒頭のあいさつで
「こんなに多くの参加をいただいて・・・」ということでしたが、
こうした催しでは珍しいほどの「盛り上がり」がみられたのではないかと思います。
そこそこ若い年代の方も多く、
わたしの「超マイナー」な興味も、同好のみなさん、
そこそこ数が多いのかも知れない、という期待を抱かせてくれました(笑)。
カミさんにも、しっかり報告したいと思います(笑)。ではでは。
<写真は開拓記念館に行く途中出会ったリス・・・ですが残念、写っていませんでした(涙)>


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2008年09月27日

気候と歴史

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写真は、北海道開拓記念館正面に展示されていたパネルより。
開拓記念館の研究グループが発表した
シャクシャインの戦いの周辺環境研究を表示したものから、
その一部分を抜き出したものなのです。

この研究発表は学術的にも認められたそうですが、
ようするにアイヌの反乱と気候変動による寒冷条件との因果関係を研究したもの。
「古気候研究」という考え方から、歴史事実の背景を探っているのですね。
年平均気温の上下によって人間生活が左右されるのは、
わたしたちも日常的に感じている事柄。
そういう視点を、歴史研究にも適用してみる見方なんですね。
同館に勤務されているUさんのお話しのなかにも
たとえば、平安期の京都地方と北海道東北地域の気温について
むしろ、京都のほうが比較的に寒冷で、
そのために十二単というような服装が普及したことや、
北方産物の「あざらしの毛皮」などが珍重された背景が説明されていました。

そのような見方を重ねてみれば、
この時代の北方交易の重要度というものがよりわかりやすい。
そういう背景が、坂上田村麻呂の東北侵略戦争を引き起こした動機ともいえる。
そこから、前九年後三年、さらに奥州藤原政権の樹立、
頼朝の奥州への執念深い侵略戦争、さらには生き延びた安倍氏一族による
北条氏との手打ち成立からの、十三湊を拠点とした繁栄など
北方世界の変動要因に対する条件をかいま見せてくれると思います。
とくに北方の、文字記録をそれほど持っていない地域の
歴史研究においては、こうした見方の重要度はきわめて高い。

こうした研究で、いくつかの火山の噴火という事態も
人間生活に大きな影響をもたらした様子も見えてきます。
自然条件というものに大きく規定されているのは、
その要素の比重が、いまの現代生活よりも遙かに深甚なものだったことは
やはり、相当に深く理解される必要があると思いますね。
いろいろに研究が進んでいる様子が理解できて、
本当に楽しくなってきたなぁと、実感させられた次第です。

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2008年09月23日

「古代北方世界に生きた人びと」展

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いま、北海道開拓記念館では、「古代北方世界に生きた人びと」という
特別展示が開かれています。
これは、東北歴史博物館・新潟県立歴史博物館との共同開催の企画。
最初に新潟からスタートし、多賀城の東北へ行って、
今回、トリを飾って北海道で開催されているものです。
先史時代の考古資料から、文字を持った歴史年代の奥州藤原氏、それ以降まで、
北方からの視点で、日本史に対して再発見してみようという企画。
なんとも我が意を得たり、という企画内容で、この事実を知って、
なんとか見に行くことができて、よかったと思っています。

日本の正史の側では、どうしてもイネの栽培にともなっての歴史経緯が主。
農耕を中心にする社会は、当然、農耕のための暦ができ、
生産物の管理など、記録する必要性が高まって文字表現が生まれてきます。
「社会」という概念も、日本では弥生的なコメ生産様式が基本になって発展してきた。
確かに人口の爆発的な急増などは、このような社会様式がもたらしたものなので、
そのことには同意するのですが、
しかし、一方に北方のコメ生産とは違う社会システムも存在した事実は
もっと、しっかりと認識されるべきだと感じています。
コメ生産様式の側からは、「まつろわぬ」民ということになり、
しばしば、「討ちて、獲るべし」(正史側の記述)という侵略対象になってきた。

わたしは北海道への移民の3代目なのですが、
そういう意味では、コメ生産様式の側からこちら側の世界に入ってきたものですが、
やはり生まれた風土に対する愛着がだんだんに強くなってくる。
とくに東北地域との接触機会が増えてきて、
そこから北方ということを強く認識してくると、
このような思いがしきりに高まってくるのですね。
今回の展示は、そういう思いから、まさに深く同意できるものだったのです。
ただし、まだまだ、こういう考え方は思いっきりマイナーだろうなと
思い知らされることも多いもの。
仕方なく付いてきてくれたカミさんの言葉通り、
「誰もこんなの、面白くないっしょ!」っていう世界ですね(笑)。

こんな思いを持っていたのですが、
HPなどで調べている内に、開拓記念館のスタッフに旧知の人の名前が・・・!
「あれぇ、Uさん、ここにいるんだぁ」
というようなことで、なんとなく居ても立ってもいられなくなって、
すぐに出かけてみることにしたんですね。
会場に着いたら、なんとくだんのUさんが、展示説明を行っているではありませんか。
さっそく行ってみたら、すぐにこちらを認めてくれたようでした。
もう、25年くらい前の頃の知人なのですが、
説明が終わるとすぐに、積もった話をさせていただいた次第。
当時は、近接する北海道開拓の村で広報の仕事をされていたのですが、
実は本職としては、考古学の方だったそうで、
現在は北海道開拓記念館に所属し、今回の展示会の中心的なスタッフだったようです。
で、考えていられることは、まさに上に書いたようなこと。
本当に貴重な同好の士を発見できて、しかも古い知り合いだったという、
運命的としか思えない再会ができた次第なのです。
「よかったねぇ、マイナーな話題の強力な味方が出来て(笑)」
っていう、カミさんなのですが、まさにその通り。
しかも、学芸員の方なので、いろいろにわたしの調査活動にアドバイスもいただけそうなのです。
いや、しかし、不思議な巡り合わせもあるものだと、
驚愕してしまったのでした。

なんとか、北方世界の歴史に光が当たるような
そんな仕掛けができたらいいですね、っていうような思いが共有できました。
わたしの個人的なライフワークに一筋の光が見えてきた気がします。
<写真は平泉の古社>


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2008年09月17日

津軽の古地図

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写真は十三湊の歴史資料館で見た江戸の頃の古地図。
十三湊というのは、隣接する汽水湖・十三湖を介して内陸の津軽地方の
玄関口を成していることを表現しているようです。
岩木川がそういう水運に使われていただろうことは明らかですね。
なので、きのう触れたような五所川原の街の産業が古代から
発展する素地があった。
五所川原で生産された須恵器土器が、十三湊を介して
広く北方世界に、っていうか、北海道地域に
輸出されていった、というワケなんですね。
北海道生まれのわたしなんかにしてみると、
こういう考古的年代から、人文的歴史ともつながってくる具体的な
証のような状況が明らかになってくるのは、ワクワクする世界。
北海道の歴史は、明治以前は文字を持たない人々の世界なので、
具体的なイメージを把握することができない。
シャクシャインの反乱から、蠣崎(松前)氏の支配というような時代まで、
なかなか、具体的な事実関係が見えてこないのですね。
郷土にそういう「よすが」がないというのはちょっと寂しいものなんです。
でもその分、想像力を働かせるしかないので、楽しみもあるとは言えますが・・・。
そんななか、やはり一番近い地域から、
交流の痕跡が見えてくると言うのが単純にうれしい。

可能な限りに須恵器土器を満載した船で岩木川を下っていって、
十三湖にたどりつき、十三湊に出て、そこで荷物を海上輸送用の船に積み替える。
そこから津軽海峡を越えて、歴史年代的には「檫文文化人」の世界に運び込まれる。
この間で、どのような交流があり、
どのような交易実態が展開したのか、興味が深くなってきます。
9世紀から10世紀の時代と言うこと。
ちょうど日本の時代区分で言えば、平安時代になりますね。
もちろん、この時代、津軽地域には日本の国家制度は及んでいないとされる。
しかし、農耕文化が行われていないとは言えない。
コメ生産が定常的に営まれていたのかも不明。
しかし、弥生時代のコメ生産活動の遺跡などは津軽地方で発見される。
日本の国家拡張活動は、ようするにコメ生産システムの拡大をあらわしているとも言えるので、
律令国家体制で、その体制の中に組み入れられていないと言うことは、
コメ生産はあったとしても、ごく限定的なものだったのでしょう。
そういう状況のなかでの経済交易は、
どのようなものであったのか、
わざわざ、交易品としての須恵器土器生産工房を作るということは
かなり目的的な行為ということが出来ます。
その交易実態をもっと知りたくなります。

きっと、失われている北海道の地域の記憶、というような思いが
こんなことに興味を掻き立てられている一番の動機なのでしょうね。
きわめて限定地域的な興味で、多くの地域のみなさんには申し訳ありません。
でもやっぱり、まだまだ、こういうテーマ、止められません(笑)。

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2008年09月16日

五所川原・立ねぷた

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五所川原の街を歩いていたら、発見した大きな建物。
予備知識もなく、建築探訪のつもりで入ってみたら、
これが、五所川原名物・立ちねぷたの展示館になっておりました。
立ちねぷたは高さが20mもあり、
合計3騎あるのだそうですが、それをしまっておく場所って
確かに大変だろうと思われますね。
そんなことで、公共事業として、市の施設なのか、
こういう大きな建築を作っていると言うことだそうです。
津軽北部地方って、今回の訪問でいろいろ興味も湧いて調べたのですが、
考古年代では遮光土偶で知られる亀岡遺跡での土偶生産。
それから時代を下ると、五所川原地域で対北海道との交易の主要産品となった
「須恵器」の生産。そして、このような巨大ねぷたの製造と、
なにか、ものづくりの伝統のようなものが感じられてなりません。

須恵器について、Wikkipediaを見ると、
9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。
という記述が見られます。
須恵器はヤマト朝廷権力の独占的な陶器生産技術なので、
それがこの時代の五所川原に存在したのはどういう経緯なのか、
十三湊にあった福島城との関連を考えると、
整合性がありそうな気がするのだけれど、王朝側の正史には、
福島城が古代城柵として築かれたという記述は見られないということ。
むしろ、北海道に本拠を持つ「擦文文化人」〜アイヌ以前の北海道人〜の
城柵づくりではないのか、という指摘が成されているようです。
ちょうどこの時期というのは、直線距離にして200kmくらいの
胆沢城地方で、安倍氏が大きな勢力を築いていた時期とも重なります。
飛躍して考えれば、胆沢城地域の有力者となった安倍氏勢力が、
胆沢城の職工を五所川原に連れて行って、
須恵器の工房を作らせて、北方勢力に対しての主要交易品として生産した。
それが、大量の鷹の羽とか、海獣の皮革、などといった蝦夷地交易になって
安倍氏の富強を支えたのではないか?
いやむしろ、安倍氏というのは「擦文文化人」との関連性が高い氏族だったのではないか?
というような疑問、仮説が頭のなかを駆けめぐってくる次第なのです(笑)。

ということなのですが、
確かに、五所川原の立ちねぷたの様相を見ていると、
あまり純日本的文化のにおいは感じられない部分がある。
より、土着的で、縄文的な感覚が感じられる、
と、考えるのはわたしだけでしょうか?

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2008年09月14日

浜離宮

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浜離宮って、面白い作られかたをしている大名庭園です。
なぜか、江戸初期に各地の大名たちが贅を尽くした庭園造営を行っています。
そういう設計者には小堀遠州という造園家が名を残しています。
この浜離宮は、やや江戸中期に属する時期なので、
かれでないようですね。
しかし、その構想は雄大というか、すごいものです。
たぶん、海を埋め立てたか、一部を築地した土地に
池地を造成して、そこに海水を導入させて、その水量をコントロールして
結構を尽くした庭園として造り上げている。
こういう「海浜庭園」というか、海の上にあらたな造園を行うという
奇想を思いつき、実際に実現してしまう土木技術というのがあったのですね。
戦国期から江戸初期にかけての時代は、
こういう稀有壮大な土木技術が大きく盛り上がっていた時代。
きっと、安土城から始まる築城技術の土木部分が
独自に進化発展していったものだろうと思います。
城を造る技術という技術発展の動機が大きくなって
それに対応して、どんな場所にでも築城できまっせ、ということだったのでしょう。
戦争がいちばんの技術発展の契機になるということですね。
歴史の新しい段階での、飛行機や原爆の開発など
実例には事欠きません。

見立て上、海に浮かんだような休憩施設(写真真ん中の木造建築)からは
海上を渡ってくる海風(?)が心地よく肌を冷やしていってくれる。
新政府の江戸接収後は、皇室の庭園となり、
国賓の接待などに使われた様子が絵に描かれていました。
明治天皇が海外賓客をもてなしている様子。
冷房のない時代、こうした体感を求めて、ここまでの土木技術を動員した
という事実に、富の蓄積を見るのか、民衆からの搾取を見るのかは
考え方次第だとは思います。

現代では、浜離宮の代表的な景観スポットの後背に
ごらんのような高層ビル群が林立しています。
どちらもその時代の建築土木技術を動員したものですが、
このあいだに400年くらいの時間経過があります。
なんとも東京らしい景観だと思えてならないのですが、どう感じられるでしょう?


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2008年09月07日

十三湊の古城・福島城

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福島城というと、一般に福島県の方をまずは思い出すけれど、
こちらは津軽半島西側の十三湊の内湖、十三湖の北方台地上に建てられていた城郭。
大きな1辺1kmの三角形の外堀と、その内部に四方180mの正方形の内堀で仕切られた古代城郭。
外郭の東側および内郭の東側に門があった、とされている。
Wikkipediaで見てみると、

平安時代後期の10世紀後半に築かれたとみられる。10世紀後半から11世紀までの土師器が城域から出土するが、これは北緯40度以北の東北地方北部が中央政権の影響下から離れて北海道で9世紀に始まった擦文文化圏に合流していた時期にあたる。同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であると考えられる。
内郭は室町時代前期の14世紀後半から15世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3キロメートルの位置にある十三湊が最も栄えた時期にあたる。
「十三湊新城記[1]」に記された、安倍(安藤)貞季が正和年間(1312年-1317年)に築いたとする新城を福島城にあてる見解がある。

というような記述があります。
どうにも謎が一杯です。
築造が10世紀半ばといえば、胆沢城国府などで安倍氏が勃興する時期にも符合する。
正史、朝廷内裏の側からのこの福島城への記述も見られないようだ。
ただし、規模や作られ方は、律令国家の古代城郭と似ている感じがする。
港湾都市・十三湊から岩木川をさかのぼっていけば
古くからの農耕地帯である津軽平野の富の集散も可能。
そうした交通上の要衝地に立地していることは明白。
律令の時代に、津軽地方の農業生産物を収奪したという記述はないだろう。
なにより、律令体制はここまで及んできていない。
だとすると、この城郭はどういう人々が、どのような目的で活用したのか?
ここに記載されているように「擦文文化人」が登場するのであれば、
十三湊の性格は、北海道やその以北の勢力が
日本本州地域に打ち込んだくさびのようなものとなるのか?

擦文文化人という存在の研究はまだまだ、考古に属する研究で
人文的な色合いが乏しいけれど、
この十三湊で、ついに北方世界の考古と律令国家的人文要素が
混じり合ってくるように見えます。
文字を持たず、記録を持たなかった民族の息づかいのような部分が
断片的に交差するようになってきます。
十三湊、どうも大きな湖さながら、ハマってしまいそうです(笑)。ふ〜む。


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2008年09月06日

北のまほろば・十三湊

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たいへんマイナーな夢だったのですが、
わたくし、この度ついに、念願の地、十三湊を見ることができました。
感激いたしました。
東北をたびたび訪れるようになったとはいえ、さすがに
津軽半島の西側日本海本州最北端に近い
十三湊は、さすがに機会がなかなか訪れませんでした。
今回、たまたま、五所川原での講演の機会がありましたので、
そのあとの盛岡での取材時間を調整させて貰って、
ついに念願を果たすことができた次第です。

十三湊って、歴史に興味がある人でもそんなに知らない。
忽然として歴史上から消え去ってしまったという
ことから、「幻の湊」というようなとらえ方もされていた。
大津波で一気に存在が消えてしまったという説も流されていたのですね。
ところが、北海道から北の北東アジア民族との日本の交流は
ひとえにこの十三湊が主要舞台になってきていた。
中国朝鮮との交流が博多が主要舞台であったとすれば、
北の方は、この十三湊であるのですね。
北海道に暮らすものとして、アイデンティティのまほろば、という思いがある。
そして、その存在などがなんとも謎に満ちているのです。
日本列島社会の北の玄関口だとすれば、
歴史年代を通じて、活発なコミュニケーションが展開されたことは疑いがない。
十三湊に近い場所には、遮光土偶が出土した亀岡遺跡も存在し、
青森市の三内丸山なども考え重ねると、
この地域は、まさに豊穣な歴史が浮かび上がってくる。

律令時代の古代城柵、福島城祉も近接してある。
ということはこの地がいかに枢要の地域であったのかを表している。
出土する土器のたぐいは、中国から朝鮮、日本の太平洋側・常滑など、
世界中のものが集まってきている。
この地を支配した「安東氏」は、前九年戦役の安倍氏の後裔ともいわれる。
そして、なにより、安東氏は「日本将軍」と称していて、
京都の中央内裏もその名を確認している。
日本という国号は、律令の祖国、中華世界から見て東側にあって、
「日が昇ってくる」という意味合いだと言われる。
そして、日本列島社会では、その「まほろば」の地は
この十三湊を中心とする地域が擬定されていたのでしょう。
その地の最高権力者として、安東氏は認定されていた。
1993年に国立歴史博物館がこの遺跡を調査して以来、
実に遺跡全体が明瞭になってきているのです。
まさに北の中心地であり、博多と並ぶ大港湾都市だったのですね。
いや、まだ興奮が続いているような次第であります。

で、本日は盛岡市で講演を行います。
ようやくプレゼン資料が確定して、やれやれであります。
あすは久しぶりに札幌に帰られます。あとひとがんばり!

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2008年08月31日

武士の自己装飾

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本日は趣味の世界の歴史探訪です。申し訳ありません。
どうしてもこういうものから興味が離れません。
やっぱり大学で、歴史を勉強しておけば良かったかなぁ、
っていう思いを強くしているのですが、
まぁ、趣味の世界で知識を得る方が、おもしろさと言うことでは大きい(笑)。

写真は前九年合戦の様子を活写した絵巻物の一部分。
当時って、鎌倉の関東独立政権に至る「武士の成立期」といわれます。
で、見ていると「武士」という存在の自己装飾性が際だっていると思います。
甲や鎧とか、きらびやかに競っている。
この時期の戦争って、どういうものだったのか?
王朝国家の律令体制がどんどん崩壊していって、
土地の私有制が認められていったけれど、
それは、官僚機構上層部の貴族連中や、大寺社という「官許」を得られる身分層の
独占的な「うまみ」だったといえるのでしょう。
実際には自分たちが高価な農業用の鉄器を入手して
簡単には開墾できない未開拓地を収穫可能な農地にしながら、
その法的所有権を、そういう中央権力層に保全して貰うような状態だった。
身分的にはそういう権力層の現地代理人的になっていた。
で、そういう連中にとって、前九年戦争は、数少ない「恩賞」が期待できる機会だったのか?
律令体制のなかで、合法的に「土地を得る」手段だったのかも知れません。

そういう機会に自分の果たした役割を、
現地で認定する武家貴族、源氏の大将などに強烈にアピールするために
他とは違う、「印」を明確にするために、
このような装飾を施しはじめたのでしょうね。
明確な形の「自己主張性」というのが特徴ですね。
鎌倉から、リアリズムと個人(家)主義的なものが成立していった、
という説が強いと思うのですが、こういう絵でも納得できます。
馬って、こういう戦争での参加基本単位を表しているのでしょうが、
その馬にも重厚に装飾性が働いている。

軍記物での武士の装飾性表現は克明ですが、
このような理由によるものと考えると、
なんともすさまじいものだと思われますね。

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2008年08月02日

民族の華

7371.gif


写真は東京国立博物館で展示されている銅鐸です。
国の宝物、歴史を経てきた「国華」に、ここにいけば会えるのですね。
それこそ、土偶から始まってこの銅鐸など、ずっと考古年代まで含めた
日本民族の宝物ばかりで、しかも常設展示していて、
一部を除いては写真撮影も可能。
歴史を経てきているものなので、確かに著作権の概念は消えているでしょうが、
やはりこのように自由に撮影もできる環境にしているのは、いいことです。

この銅鐸ですが、
建築家の斉藤裕さんが「黄金の塵」という講演で紹介していましたが、
日本的なもの作りの黄金律がすでに実現している、
と、驚きを込めて解説されていました。
どの角度からみても、非常にバランスのとれたデザインであり、
美の完成形態に近いかたちである、とされていたのですね。
デザインというものを極限的に考えている建築家として著名な
斉藤さんの言葉で、あらためて目を開かせられた思いがしたものでした。
で、やはりどんなものでもそうですが、
「本物をみる」というのは貴重な体験ですね。
今回も上野の博物館、みてきたのですが、
いろいろな日本の歴史的作家たちの作品になまで触れることができます。
って、触れる訳ではないので(笑)、誤解のないように。
たとえば歌麿の浮世絵の実物なんかを克明にみることができる。
浮世絵は版画なので、本物、というのは難しいところですが、
やはり当時の技法、仕上げ方で仕上げた本物だけが持つ質感は
実際にみてみないと、伝わってこない。
何度も写真では目にしている作品でも、全然違って見えるというか、
空気感のようなものまで含めて、一種の体験なんですね。
作品が印刷された紙の質感、顔料の雰囲気、そこに展開している
線画や、色彩の雰囲気などなど、
一気に、歌麿という人間の息づかいや、
その作品を作り上げてきた多くの職人たちの仕事も含めて伝わってきますね。
本当にすばらしいと感激いたします。

美術の世界って、
最近、こういう展覧会の枠がどんどん広がってきていて、
日本の美術やもの作りをまっとうに評価してきていて
ひたすら欧米崇拝的であった近代主義から脱却できてきていると感じます。
確かに西欧近代のすばらしさは否定する必要はないけれど、
やはり私たちの感受性に、より親しい日本の造形美術の華に
正当な評価をもたらしていくことは必要だと思います。
国際化する時代だからこそ、
こういう民族的アイデンティティに注目が集まるのでしょうね。
いま開かれている、「対決シリーズ」は好評で、
けっこうな人出がありましたが、みて損はない展示ですね。


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2008年07月22日

藤原清衡の願文

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・・・(奥州の地で は)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。・・・罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。

きのうの続きです。
ことし平泉一帯は世界遺産登録申請を行って、延期という結末になったわけですが、
その説明として、清衡の中尊寺落慶供養願文に記された「浄土思想」が
引き合いに出されたのです。
こうした平和思想が今日的にも意義がある、ということでした。

・・・大門は三つ、築垣は三面、反橋(そりばし)は一道(二十一間)、斜橋は一道(十間)、龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の画船二隻、左右楽器、太皷、舞 装束三十八人を具します。これを造るに当たっては、築山をして地形を変え、池を掘って水を引き入れました。草木と樹林を宮殿楼閣の中に配置し、この中で世 の人を楽しみとする歌舞を催し、民衆の仏への帰依を讃えようと思います。そのようにすれば、たとえ砦の外の蛮族だとしても、『この世にも極楽はある』」と 言うでありましょう。
千部の法華経に、千人の読経者。これ(法華経)については、私(清衡)は志を忘れずに、多年に渡り僧侶に書写させてきたのでありますが、同時にこれ を一日に転読させ、一人で一部、千人で千部を唱和し尽くそうと思ったのです。集った蚊の羽音は、雷鳴を成すと言います。千僧の読経の声は、きっと天に達 するでありましょう。・・・<中尊寺落慶供養願文より、現代語訳・佐藤弘弥氏:抜粋>

浄土思想というのは、
東アジア世界で一時期、ひとびとの内面世界に
非常に大きな影響を与えたものだと思います。
末法思想とともに、ひたすら浄土での平安を願ったことが
現実の政治にも大きな影響をもたらしていた。
寺を建てるという権力者の動機はやはりこういう部分が大きかったのでしょう。
そもそもこういう国家に対する正規文書に
普遍性をもたらす考えとして公認されていた思想なのですね。
朝廷に対する正規文書としての性格もあって、
建前が書かれているのですが、すさまじき戦乱を経てきた
かれの生涯を思うと、肉声とも思えるような記述とも取れます。
こういうメッセージを残した武人というのも少ないのではないのでしょうか。


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2008年07月21日

中尊寺落慶供養願文

7358.jpg


古来、タイトルのように伝えられている上奏文が残されています。
大きな寺院を開くときに、朝廷に対して勅許を得るために送った正式文書。
この文書の主体は奥州藤原氏初代・清衡か、2代基衡か、
という解釈論争があるそうですが、書かれている内容から清衡とみたい。

・・・(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。・・・命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もな く命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。 ・・・縁があって、私は東北のエミシの酋長に連なる家に生まれましたが、幸いにも 白河法皇が統治される戦のない世に生れ逢い、このように長生きをして平和の時代の恩恵に浴して参りました。そして我がエミシの里では争い事も少なく、捕虜 を住まわせた土地や、戦場だった所も、よく治まっております。さてこの時代にあって、私は、分不相応にも、祖先の残した事業を引き継ぐこととなり、誤っ て、エミシの酋長の座に座ることになりました。今や出羽や陸奥の民の心というものは、風に草がなびくように従順でございます。粛愼(しゅくしん)やユウ婁 (ゆうろう)のような海外の蛮族もまた、太陽に向うひまわりのようによく懐いております。
<中尊寺落慶供養願文より、現代語訳・佐藤弘弥氏:抜粋>

上奏文であるという形式を超えて
肉声が聞こえてくるような証言に近い印象が迫ってきます。
この文書からはいろいろな事柄が見えてきますが、
国家にとって、北辺の意味合いというものも見えてくる。
文末に、「粛愼(しゅくしん)やユウ婁 (ゆうろう)」という北東アジア、
たぶんアムール川流域から北海道などにも居を広げていた多くの民族の名前が出てくる。
日本のヤマト朝廷国家は、伝統的外務省である太宰府が九州に置かれたように
中国や朝鮮との関係を最優先に考えた政権であり、
北のルートからの交渉は正規の外交と見なしていない。
というか、そうした民族との交渉に積極性をもつことはなかった。
そうでありながら、交易品には強い興味を示している。
奥州藤原氏が強い勢力を築いていたのは、
奥六郡地域の農業生産性の高さとともに、
日本国家が正規ルートでの外交を放棄していた北方民族との交易利益が
ほぼかれらに独占されていた事実が大きいのだと思われます。
青森県西岸の「十三湊」では多くの北方民族の貿易船が出入りしていたに相違ない。
結局、朝廷が蝦夷の地で戦争に勝利しながら、
支配することができず、頼朝以前までは蝦夷側に自治支配させていたのは、
軍事的勝利は得られても、たとえば源氏の勢力では、
そのような交易ルート確保ができないという事実が大きかったのではないか。

また、逆に言えば、頼朝による奥羽軍事制圧以降、
このような北方世界との交易ルートも大きく細ったのではないか。
頼朝は確かに藤原氏を根こそぎ滅ぼしたけれど、
その結果、経済的にはこの地域の潜在力を弱めてしまったのではないか。
北海道に暮らすものとして、
なぜ、北辺のことを日本史はある時期から忘却するのか、
見えないところがあるのですが、
どうも、このあたりが一番キモになっている気がするのです。
長くなってきました、このテーマ、清衡の肉声部分ということについてはあしたに。
<写真は冬の金堂>


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2008年07月19日

悪路王首像

7356.jpg

仙台市内の「地底の森ミュージアム」で
「陸奥国大戦争時代」という企画展が開催されていました。
こういうのには弱いので、行って参りました。
っていうか、そもそも「地底の森ミュージアム」という名前も聞いてはいたけれど
どうのも、想像力が持てず、どんな施設なのかと不思議でした。
展示は常設の「地底の森ミュージアム」を見終わった先に
特別展示企画展が展示されておりました。

写真は、悪路王とされる人物の木像。
茨城県の鹿島神社に収蔵されていたものだそうで、
縁起などを総合すると、坂上田村麻呂が降伏させた「アレルイ」の像のようです。
かれは降伏したあと、京都に連れて行かれて
処刑されるという、無惨な扱いを受けたのですが、
そうした経緯を感じさせるように、憤怒の表情豊かに造形されていますね。
線数百年の時を超えて、なおその怒りが訴えかけてくるようです。
奈良東大寺の金剛力士像などの表現を見れば、
十分にリアリズム表現ができる時代だったでしょうから、
この木像は、アレルイの人となり、あるいは心情というものを模していると思われます。
ヤマト朝廷の野蛮さを告発する、稀有な表現だと感じます。
悪路王と、正面切ってここまでの名付けられ方をしている例はあまりない。

正直、このポスターが強烈だったので
思わず「見ておかなければ」と思ったのですが、
実際の展示は考古的なものの展示が主なので
こういうわかりやすさはあまり感じられませんでした。
大戦争、ということばのメッセージの単純さに比較して
展示自体はやや線の細さを感じさせるような資料が多かったです。
その点はやや残念な気持ちが残ったのが本音ですね。
もっと丹念に見れば、また別の見方もあったかも知れませんが
企画の立て方とか、すごく良かった割には展示自体はやや力不足の印象。
またの企画を期待したいと思います。


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2008年07月03日

浅草寺

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浅草で宿泊したので、日本の民間信仰のメッカともいえる
「浅草寺」を見て参りました。
いま建っている建築群は、だいたいが鉄筋コンクリート建築ですが、
浅草寺って、歴史を見るとなんどもなんども火災で失われては再建する繰り返し。
そのようになんども火災に遭うということは、
江戸の街らしいとも言えるのですが、
やはりそれだけ人出が多かったということを表しているのでしょうか。
最初は川で漁をしていた兄弟が仏像を発見したことから始まっている。
広漠とした武蔵野の一角、って、いまでは想像すらできないのですが、
新開拓地として人口も多くなかった関東の歴史の初期、
いわばランドマークとして、はじめられたのでしょうか?
創建の経緯を見ると、やはりその最初から民間信仰的な臭いがする。
なにやらあやしげな縁起からスタートするワケですが、
なぜか、大繁盛したのでしょうね。
東京湾から入り江になった隅田川という立地条件が、
交通上の要衝といえたのかも知れない。
縁起の続きを見ると、またもや慈覚大師・円仁さんの名前が出ています。
平安初期、深く天皇からの帰依を受けた国家最高の宗教指導者だったかれを
縁起に登場させて、民間信仰的な出自から
公認された宗教施設としての認知を計ったのでしょう。
この当時、一度、その経緯から天台宗の寺院になっているそうです。
こうした作戦が奏功し、その後も人気と権力者の公認を得続けています。
頼朝であるとか、関東公方とか、徳川幕府とか
この地に関わる有力者の庇護を獲得し続けています。
でもやはり、そういうことが可能だったのは、
民間信仰の対象としてのこの寺の人気ぶりを表しているのでしょうね。

行ってみると、参詣しているひとは外国の観光客が圧倒的。
仲見世商店街など、夕方になるとシャッターを閉めてしまっています。
日中も観光客が中心で、そのため、夜になると閑散としてくる。
周囲の歓楽街なども、最盛期の賑わいからはほど遠い。
創世記から江戸の賑わいぶり、昭和の初期まで継続してきた街ですが、
やはり時代の移り変わりの中で、クラシカルな歓楽街スポットになっている気がします。
現代の最前線という時代感覚とは違う、
ちょっと昔気質な江戸情緒、とでもいえる街の雰囲気。
日本人と宗教との関わり合いを、いろいろに教えてくれるお寺ですが、
そもそも娯楽と宗教が完全に分離してしまった今日の社会で、
さて、どのようなイメージを維持していくのでしょうか?
そういう意味で興味深い存在と言えると思います。


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2008年06月29日

交易ルート・平泉の陶器

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きのうのブログの関連で、交易ルートのこと。
平泉の藤原氏居館跡地の発掘作業では大量の陶磁器が出土するとか。
多くは日常使いと言うよりは、今日で言えば弁当箱のような
「かわらけ」が主体なんだとか。
都市平泉は「接待」が主要な役割であったといわれています。
こういうこともわかってくるということで、古代世界の実情が迫ってくる部分ですね。

で、そうした陶器類は、ごらんのようなルートで運ばれたとのこと。
平泉には遠く中国からの陶器類も多かったそうです。
これは平泉という存在の富を物語るものでしょう。
そのほか、愛知県との交易ルートが主体。
たぶん、「舶来」の中国陶器もいったん愛知県に輸入されて、
そこから全国に流通していったものと思われます。
仙台などでは愛知県との経済的な結びつきを感じることがあるのですが、
歴史的にはこのような交易の世界があったのですね。
海を使っての交易の世界の広がりは
当時の経済活動をいろいろに想起させてくれます。
政治的には栄枯盛衰が繰り返されたでしょうが、
こういう交易の世界では、いったん流通が始まれば、
ひととモノの交流は、そうは絶えなかっただろうと思うのです。
平安末期の東北の人口推定は約60万人。
関東が160万人。東海地区が50万人程度。
<歴史人口学・鬼頭宏さんの資料より>
この船の交易ルートを見ると、こういう人口地域間の
さまざまなひととモノの流れや動き、というものを想像します。
船の交易は行きと帰り、ともに積み荷を満載しなければ割が合わない。
お互いの地域から、いろいろな産物が行き交ったのでしょう。
一枚の図ですが、実に多様な想像を起こさせてくれます。


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2008年06月28日

天然アスファルトの古代交易

7330.jpg

いやぁ、すごい発見があったのですね。
以下、26日の北海道新聞からの抜粋です。

貝殻跡付いたアスファルト塊 国内で初めて出土 
函館・南茅部の縄文遺跡(06/26 09:15)
<アワビによく似た貝殻の跡が付いたアスファルト塊>
 国宝中空土偶の出土で知られる函館市南茅部地区で、中空土偶が作られたのと同時期の縄文時代後期後半(約三千五百−三千二百年前)の豊崎(とよさき)B遺跡から、アワビとみられる貝殻の痕跡が付いた天然アスファルトの塊が国内で初めて出土した。<中略>天然アスファルトは、本州から交易で道内に持ち込まれた。南茅部地区には九十一カ所もの縄文遺跡があり、そのうち磨光(まこう)B遺跡などから出土したアスファルトの塊は秋田産であることが確認されている。

天然のアスファルトは、矢尻などの修復に使用されたのではないかと推測されているけれど、
狩猟採集が基本的な食料獲得手段だった時代に、
貴重な道具類を長く使うために、魔法のような材料として利用されたのだろう。
そして、その産地から、厳重に保存されながら「輸出」された。
その方法が天然の貝殻に詰め込んで、
というあたり、まさに目のくらむような知恵に驚かされる。
まぁ、人間がやってきたことなので、
こうした交易の実態局面での、知恵と工夫の実際に触れると、
まさに畏敬の念に深く打たれざるを得ない。
そして、こういう交易品についての知恵が語り伝えられるネットワークも存在していたのだろう。
秋田県から、北海道南部の地方まで、というのは
当時の活発な漁業と海運の様子が生き生きと想起される。
北海道でしか発掘されない黒曜石が、高級な狩猟のための石器として珍重され、
それが広く本州日本海地域から、北東アジアまで発見されるというお話を聞きましたが、
こういう時代の道具を巡っての知恵と交流の様子が
まるで、現代の交易とそう違いのない感覚で理解されます。

やはり、北海道の育ちの人間なので、
文字を持たない時代の営みのことも含めて、
ものすごく興味深い。
いろいろに周辺的な歴史事象から、想像していくしかないのが、
北海道のひとびとの歴史なんですが、
いろいろ知識が積み重なってくると、
東北の「蝦夷」たちとの交流の深さというのが基本のように思う。
そして、さらに北方世界の北東アジアの沿岸少数民族との交流。
そうした流れの中で、
こうした天然資源やら、北東アジアからもたらされたと推測できる
馬の交易ルートなど、豊かな交易の実態がほの見えてくる。
そうしたものが、歴史に登場してくるのが
安倍氏・清原氏・藤原氏といった東北地方の時代なのでしょう。
まさにヤマト朝廷にとって、魅力的な豊かさに満ちた交易品が
きら星のように輝き、決定的だったのが金の産出だったのかも知れません。

いよいよ、古代北方世界の探求、面白くなってきたところです(笑)。
写真は先日触れた「達谷窟」の崖面に刻印された仏像。


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2008年06月25日

神社と戦争

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写真は古代律令制時代の胆沢城の北東鬼門に位置する八幡神社。
胆沢城は、鎮守府の置かれた地で、
一関から盛岡北方全域を呼ぶ「奥六郡」地域のヤマト朝廷の支配の象徴。
歴史では、そういう開設時の思惑は紆余曲折を経ていて、
開設から時間が経つと、現地豪族化した安倍氏がここをむしろ根拠地として
のし上がっていくことになります。
後に「征夷大将軍」という朝廷の一武権が頼朝によって
権威化されていくことになるので、忘れられがちですが、
この地の武権である「鎮守府将軍」というものも、
征夷大将軍と並列的な存在であったとされています。
そうした経緯があったので鎌倉幕府以降、
意識的に、東北地域の歴史を正史に登場させないような配慮が
武家政権側としては、一貫したのかも知れませんね。

まぁ、そういう経緯は別として、
こういう城郭施設では、併置的に神社のたぐいが建てられます。
ここでは「八幡神社」なので、源氏とのつながりが認められます。
安倍氏を滅ぼした源為義・義家親子の名前が「縁起」に記されていました。
そういう意味で、神社というものがなんのために建てられるのか、
という事情のひとつに戦争への準備の側面があきらかだと思われます。
きっと、安倍氏清原氏との戦争などの戦勝祈願・閲兵など、
戦士の士気高揚のために利用したものでしょうね。
命のやり取りをする前に、精神的な準備をさせる、考えればなんとも血なまぐさい。
後の世では、信長が桶狭間合戦前に神社で閲兵して
社の中から鳩が飛び立つ仕掛けをして、戦意の高揚を計ったとされています。
死にたくはない、しかし、戦争に勝つことで運を開きたい、
そういう戦争に駆り出されたひとびとにとって
こういう「宗教施設」はどのような空間であったのか、
思いはいろいろに浮かんできて、無常観を抱く次第です。


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2008年06月18日

達谷の窟

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岩手宮城内陸地震、山間地での被害の甚大さに驚愕の思いです。
土石流のすさまじさの前には無力なもの。

地震の前日、見に行ったのがこの「達谷の窟」。
被害が大きかった山間地に向かう国道からほど近い位置にあり、
1日違ったら、なんらかの被害に遭っていたかも知れないと思われます。
東北の歴史探訪をしてきて、
やはりこの達谷の窟は、欠かすことが出来ない体験ゾーンだと
だんだんと確信してきていたのですが
行ってみて、そういう思いが一層募ってきた次第です。
建物は自然の岩石を利用した洞穴に対して軒先を木造で継ぎ足した形。
創建者と伝えられる坂上田村麻呂が京都に残した清水寺と同様に
高く高楼を組み上げて造作されています。
歴史時間の前後はわかりませんが、
場合によっては、清水寺となんらかのつながりがあるのかも知れません。
作り手が同一人物、集団かもしれないと想像が湧きます。
この達谷の窟は、東北の征服戦争勝利者・坂上田村麻呂が
敗者・アテルイとその一統の鎮魂のために建てたと言うこと。
かれ自身の思いがどうであったかは別として、
状況としては、停戦合意のために京都に行ったのに
ヤマト朝廷権力にだまし討ちされたに等しいアテルイの
無念と恨みの心情を共有する現地住民に対して
こういうかたちの懐柔をしなければ、
たぶん現地に脚を入れられなかったのではないかと思われます。

そのように考えると、この場所はアテルイの根拠地であった気がします。
平泉までも5km程度とほど近く、
古代東北地方にとっての枢要の位置といえる地理環境。
後の藤原清衡の中尊寺創建時の「願文」に戦死者への鎮魂が語られていますが、
ふしぎと同じように、坂上田村麻呂によって
「神域・境内での殺傷禁止」の布令が敷かれています。
古代の東北で展開されたヤマト朝廷の側からの侵略戦争が
どのような思いを人の心に残したかを知らせてくれる気がします。
侵略と戦った側にしてみれば、その侵略に対して
その根拠になった中央集権的な国家意識というものは理解を超えていたと思われます。

建築としてのその異様さもあるのですが、
その背景に思いをいたすとき、深く鎮魂の思いを抱く次第です。


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2008年06月08日

ケプロンさんの経歴

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北海道の開拓期については、
北海道内の小学校でも触れられている(ハズ)ですが、
・・・って、いま坊主に確認したら、
「いや、そんなの習ってないよ」
という返事。
わたしが習った小学校低学年歴史教育のスタートは
「地域の歴史」のようなものでしたが、
そういうの、やっていないのでしょうか?

わたしたちのころには、いちばん初めの頃に
この人の名前が登場することになっていました。
北海道の開拓の基本計画を定めた人物として知られています。
大久保利通に連なる薩摩の本流政治家・黒田清隆が
初代の「北海道開拓使」次官(長官は宮様)になったとき、
北海道の開拓方針を諮問すべき人物として目を付けた人物。
当時、アメリカ合衆国の「農務局長」を務めていた。
明治維新政府にしてみれば、当時のアメリカを
ヨーロッパ移民による新開拓地として見ていたので、
当然、日本にとっての北海道をそうしたアナロジーで見ていたなかで、
基本的な開拓策として、北米の体験を輸入しようと考えたものと思えます。

司馬遼太郎さんの数少ない、北海道に関する記述が
「街道を行く」シリーズにあります。
わたしは司馬さんのファンなので、これまであんまり検証せずに
その記述を信用してしまっていたのですが、
どうも、司馬さんの認識違いかも知れない点を発見してしまったところ。
司馬さんの記述にはホーレス・ケプロンを「農務長官」と書いてあるのですが、
どうも、そうではなく、「農務局長」が正しいらしい。
わたしも何回か、講演などで司馬さんの記述に沿って発言したので、
ちょっと冷や汗、というところです。
当時のアメリカの政治・政府組織制度などを確認もしなければならない。
現在の常識で考えると、「農務局長」はいわば官僚機構のトップという響きであって、
大臣・長官という政治家ではないと、認識できる。
ただし、アメリカは現在でも政権が変わると、一気に実務組織トップも替わると言われる。
日本の常識とも違いがあるので、難しい。
というところで、やや袋小路に入ってしまいました。
さてさて、歴史に関する記述の確認って難作業ですね、ふ〜。

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2008年06月06日

平泉、世界遺産「延期」

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やや旧聞に属しますが、先日の新住協全国大会中に
残念ながら、岩手県の平泉の世界遺産登録が「延期」となったニューズが流れました。

<以下は、朝日新聞からの抜粋>
文化庁は平泉の価値を「浄土思想が核心を担った平泉文化の伝統は、宗教儀礼や伝承、文学作品などを通じて、今も日本人の精神構造に多大な影響を与えている」と主張してきたが、核となる浄土思想が十分に理解されない結果となった。
 「平泉と浄土思想との関連性の重要さ」や「平泉の景観が『人類の歴史上の重要な段階を物語る見本』であること」などについて「十分に証明しきれていない」などと指摘。地下遺構が大半を占め、「浄土思想」が現在、目にみえる形ではわかりにくいことも、不利に働いたとみられる。
 世界遺産委員会は7月2日からカナダ・ケベック市で開かれる予定。審議結果はイコモスの勧告に従う例が多く、近年は新規登録を抑制する傾向にもある。延期が決まると、推薦書の提出と現地調査を再び行うことになり、登録は最短で2010年となる。

という残念な結果ですね。
わたしは浄土思想云々よりも、
日本文化の多様性の方に重点を置いてアピールした方が良かったのではないかと
思われてなりません。
確かに日本中世を支配した「浄土思想」が中心的であることはそうなのだけれど、
平泉の魅力は、日本歴史のなかで、鎌倉幕府に先行する
「二重権力状況」、半独立的な権力とその文化性、ということではと思われます。
日本の歴史が秘めてきた「多様性」を表すことになると思うのです。
あきらかに多賀城の機構とはまったく別に
平泉は独立国家の計画的首府であったと思うのですね。
日本国家に対して、外交的に対処しているという意味では、
鎌倉幕府は、平泉を多いに参考にし、
それだけに、頼朝の平泉に対する恐怖は大きかっただろうと思われます。

そういう平泉を、日本国家が世界遺産申請するのですから、
海外のみなさんからは、ちょっとアピールが明確でない、と見なされたのかも知れません。
大変がっかりしたのですが、さて、石見銀山のように
逆転で申請受理されるかどうか、
まだ、望みを捨てずに見守っていきたいです。

<写真は毛通寺境内の建物>

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2008年05月31日

なぜ源氏は?

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前九年、後三年戦争で勝利を収めながら、
結局、東北北部地域の覇権を握られなかったのだろうか?
というのが疑問です。
武門のライバル、平氏や秀郷流藤原氏に対して
常に劣勢だった源氏は、この奥州制覇に命をかけていたと思われます。
で、戦闘には最終的に勝利したのに、
公家社会での政治的戦いで、無惨に敗北します。
源氏も考えながら、公家政治家連中とも交渉しながら、
軍事行動を行っていただろうから、
ことは単純ではないのだろうけれど、
軍事面では配下に従っていたにすぎない藤原清衡に
政治的には完敗を喫してしまっている。
清衡という人物、秀郷流武門藤原氏の流れを汲み、
同時に北東北世界での盟主でもあるという存在に負けてしまったと言える。

なぜなんでしょうかね?
考えられる理由は、公家社会の興味はどこにあったか、ということでしょうか。
公家にとっては、衣川から北の北東北世界は
自分たちにとって、どういう意味があったのか。
荘園とかの直接的な利害について、たとえば源氏が力を持ってしまえば
その収奪構造の維持が難しい。
さらに、それ以外の馬だとか、金、北方交易品という
貴重な北東北の物資についての「安定的管理力」が
やはり「現地官人」の流れを汲む勢力のほうが、より高いと判断したのではないか。
そういう意味合いから考えると、
朝廷にとって、北東北は貿易をする相手であって、
その相手には、安定的物品調達力を最優先に考えたということ。
このあたり、複雑な経済的利害関係が渦巻いている感じがいたします。
源氏の流れを汲む、頼朝がほぼ1世紀後に
かれの祖父が安倍氏の頭領を処刑した「厨川」で、
奥州藤原氏の頭目を残酷に処刑した故事は
どうもこのあたりの政治的な要因が大きかったのではないかと思います。
藤原氏の追討に対して、朝廷の追討令が下りなかったということは
その辺で、いかに朝廷に対する奥州藤原氏の政治的影響力が大きかったのか、
ということを表してもいると思います。

本日は、まったくの歴史好きブログであります。
ではでは。
写真は、中尊寺の一建物に立っていた卒塔婆です。

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2008年05月23日

北海道建築の歴史

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表題のようなことをさらっと考えながら、
しなければならない仕事にいま、かかわっております。
で、いろいろ、写真を整理したりしている中から
北海道開拓の村に再建されているこの旧・北海道開拓使庁舎が出てきました。
今現在、北海道庁として赤煉瓦庁舎になる以前の建物。
明治の初年、それまで東北津軽が最北端だった日本の概念が
北海道地域まで拡大したとき、
それまでの日本とは違う、脱亜入欧の理念で開拓に当たった。
こういうデザインは、明治期の指導層が長期にわたって欧米を
視察し、一刻も早く列強並みの国家にしたいという思いから選択したものでしょう。
いま、見返してみれば、日本的な部分は一切顧慮せず、
早急に追いつかねばならないという必死さが伝わってきます。

古代の日本国家成立時期も、
中国に強大な世界最強国家が成立したことで、
その文化体系まるごとを移植して、権力機構から法体系まで
全部、コピーしたそうですから、
こういうことには歴史的な経験値が高いというのが日本人なのか。
こうした明治期の建築って、全国的にも数多いけれど、
とりわけ、北海道はここから歴史的積み重ねがスタートしているといって
過言ではないのですね。
わたしたち、北海道で生まれた世代の人間は
こういう建築が「伝統」的な建築と言うところから始まっている。
奈良、京都の歴史的建築物群は、教科書として学習するものなんですね。
まぁ、あるがままに見る、というしかないのです。
はじめに近代合理主義的なDNA的刷り込みがあって、
そのあと、歴史などの情緒性が追いついてくる、という感じでしょうか。
そういうことでの「違い」というものが
いろいろなところで、否応なく感じることが増えてきています。
日本の中で、北海道の建築って、
今後、どういうような存在になっていくものかどうか、
見定めていくことは、興味深いことだと思っている次第です。

きょうは岩手県で、新住協の総会出席。
寝不足気味ですが、気合いでがんばりたいと思います。ではでは。

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2008年05月22日

胆沢城跡

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最近になってようやく、高橋克彦さんの歴史小説「炎立つ」を読むことができまして、
なんだ、もっと早くに読めば良かった、と思っています。
っていっても、まだ半分くらいしか読むことができません。
盛岡在住らしく、東北地域のことが克明な描写で書かれていて、
わかりやすくて、とてもいいと思いますね。
写真は先日足を伸ばして見てきた「胆沢城」発掘センターで見た配置図。

東北地方に奈良から平安の時期に建てられた「城」って、
戦国期の城とは、概念も違うようなものですね。
多賀城が典型的なのですが、
基本的には「政庁」としての建築であり、
武によって制圧する、という概念よりも、
抜けがたく、文化性とか、律令的国家体制の尊厳性を訴求する、
まつろわぬ民人に、ありがたき「政〜まつりごと」を施す、というイメージに近い。
従って、きれいな方形に敷地を区切って、
侵しがたい神聖性や、権力の透明性などを理解させる様式を取っている。

ただし、位置は北上川と支流・胆沢川の合流点という
当時の戦略的要衝点を押さえてはいる。
きれいに四角く区切られた築地塀は、幅が2mで、高さが4mほどで
延長距離はここでも2km以上にはなっていたようなので、
古代世界で考えたら、たいへんな土木工事。
周辺住民の税金的労働提供・搾取によって実現させたものですね。
建前としては、新開拓地として住民を移住させ、
それらに農地を貸与しているわけですから、
税金徴収として、それなりには合理性があったのでしょう。

最近は、地図の下の方にマーキングされている
「伯済寺遺跡」の調査が進んでいるそうです。
この地域は、胆沢城に勤務していた「官人」たちが住居した地域なのだそうです。
そう考えると、この北上川のまわりに古代的・中世的な
「都市」が形成されていたと考えられますね。
当然、「政庁」ですから、税金としての農業生産物の収受が基本機能。
そうしたものを運送する必要もあっただろうし、
そうした関係から、多くの人たちがここを訪れただろうから、
ひととものの集散があるわけで、都市的なものだったでしょう。
どんな様子だったのか、興味が湧いてきますね(笑)。

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2008年05月16日

日本の公共空間デザイン

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写真は足利氏の本拠に建てられた寺院の正面からの外観。
よく歴史巡りなどをすると、日本では決まって宗教的な施設になる。
この足利氏の発祥地とされる居館跡地も
お寺として存続しているのですね。
京都に残っている建築も多くがそういう残り方をしている。
金閣は足利義満が私邸、迎賓館的に造営したものだし、
京都中、歴代の権力者が妄執に駆られて造営した建物がそういう形で残る。
なにやら、現代の宗教法人の無税特典というのは日本伝統の文化なのかと、
つい、疑ってしまいます(笑)。

こういう敷地の大きな建物空間の場合、
そのなかにいくつかの建物が共鳴するように配置されます。
よくあるのが、背の高い建築〜塔のようなもの、
校倉のような倉庫状の建築、
そして、大きな屋根のデザインで見せる主建築。
きっと、このような配置デザインって、中国の影響から来るものでしょうね。
地形と方位などを考えて、良い気が満ちるように考えられているのでしょう。
そして、時間を掛けて植栽が施され、
独特の東アジア的な「公共的空間」が演出されてきているのだと思います。
で、そういうなかでもやはり、この写真のように大きな屋根の
デザインというものが、一番直接的にひとびとに訴求してくる。
屋根はいろいろな建築的検討の結果、選択されるのでしょうが、
この建物など、大変ユニークな造形を見せてくれる。
寄せ棟を基本にした入母屋ですが、ちょっと寸詰まりなのが楽しい。
日本人はいちばん、寄せ棟というのが心情に似合っているのでしょうか?
寄せ棟は、台風などの風の被害に対して柔構造のような気がします。
まずそういう気候風土に対する適格性があって、
そのうえで、心情的なものが積み上がっていくものなのでしょう。
古民家などでは、ほとんどの屋根が寄せ棟です。

やっぱりこういう空間性には、ほっとするようなものがありますね。
日本人ということを意識させられる部分。
でも、北海道では、なぜか寄せ棟はほとんど採用されない。
たぶん、日本と北海道を分ける最大のものは屋根デザインでしょう。

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2008年05月14日

江戸期の婚姻

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きのうもご紹介した「歴史人口学」。
なかなか奥行きがあって、興味深いテーマですね。
そのなかに江戸期の一般的な婚姻年齢について触れていました。
というか、婚姻と言うこと自体についても研究されている。
そういうなかで、江戸期の「小作農」という社会的存在が
日本人の基準的規範になっているというような部分があります。
「伝統的家族観」とでも呼べるようなものが、
実は江戸期の「小作農」を基準とした「家族構成」だとしています。
直系家族を単位とした「家族3世代同居」型の単位が
江戸期に社会の基本因子と規定されたのだ、と。
婚姻率というのも、こういう社会的なシステムが常識化して
「皆婚」に近い率になっていった、というわけなんですね。
それより以前には、婚姻率って50%すら切っているような社会。
小作農にとっては、家族を基本とした労働集団が経済単位にもなっているので、
婚姻は、家を存続していくという子孫づくりの側面と同時に
直接的に嫁としての労働力獲得と言うことでもあったのです。
婚姻の年齢は男性で平均的に27,8歳前後、女性で20歳前後。
一度、このような「常識」が根付いて、
それが長い時間、「伝統」的とまで思われ続けて存続してきている。
現在でも、核家族化の進展はあるけれど、
基本的社会規範としては、この常識が基本になっている、ということ。

このように指摘されれば、ふむふむなるほど、と了解できます。
で、平均的な寿命は40歳前後だったそうなので、
婚姻というものは、都合10年前後ほどの期間、維持されるものだったことになります。
わたしの仕事は住宅を考える仕事なので、
住宅というものの基本因子である婚姻や家族というものを考えるのは大前提。
そして現代が、どのような家族関係に向かっていくのか、
見通していくためにも、こうした視点を持つというのは大変重要。
いろいろ考えさせられますね、ふ〜む。

<写真は近所の公園の様子>

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2008年05月13日

歴史人口学

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面白い本を発見して見ておりました。
人口から見る日本歴史、ということなのですね。
いまわたしは、どちらかというと平安末期の時期の動乱期の歴史を
いろいろに興味を持って見ているんですが、
こういうのに掛け合わせてみると実に面白い。
日本の戦争、土地争奪の歴史って、
織田信長がはじめて(といわれている)専従の軍事組織を作るまでは
兵農が一体で、分離不可能という状態だったのだろうと推定できる。
古代の頃の戦争にしても、兵は募兵が基本。
ということは普段の仕事は別にある人間が「いくさ稼ぎ」で駆り出されていたのが実態。
そしてその多くは、農民の次男三男ということだったのだろうと推定できる。
そういうひとびとを練兵して、戦場で使ったのでしょう。
平安末期の戦争の兵の実態を調べた本などでもそのあたりが見えてくる。
兵隊の数というのは、どうもいい加減ではあると思うのだけれど、
それにしても、富士川の合戦〜関東に武権を樹立した頼朝軍が対峙した
平氏の側の「朝廷軍」が12万人とか書かれている。

それに対して、この人口学の本によると
その当時の日本の人口が全体で680万人ほど、となっている。
実際には現地周辺での募兵が大きかっただろうと思われるので、
東海地域で見てみても、総体で43万人あまり。
女子ども、老齢者もいるわけで、そう考えたら
この当時の「戦争」って、いったいどういうものだったのか、
色々に興味深いものがあるのですね。
確かに政治軍事貴族たちの争乱ではあっただろうけれど、
そういう意味合い以上に兵站や運輸、兵糧の提供などなど、
現地にとっては、たぶん一大ビジネスという側面はあっただろうと思われる。
現地の人間にとっては、どっちが勝つとか負けるとかはあんまり関係なく、
誤解を恐れないで言えば、
いわば公共事業的なものでもあったのかも知れない。
昔は、「家」単位が基本の社会であって、
たとえば戦死しても、家が存続して行くことの方の価値観が大きかった。
個人の死というものの考え方がいまとは違う。
そういう「無常」感に、仏教という宗教も拡大できる素地があったのかも知れない。

というような次第なんですが、
この人口学って言う物差しで、歴史を見ていくって
ものすごく大切な視点を提供してくれるようですね。
考えてみれば、経済が、700万人程度の人口とその程度の生産段階での争いなんですね。
で、一般大衆はたぶん、ほとんどが明日の生活のことしか考えられない社会。
どうも、かなりのリアリズムが見えてくるような気がします。

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2008年05月05日

東北の中心って?

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北海道に生まれたわたしが、一番関わることになった
それ以外の地域が、東北です。
まぁ、首都圏地域にも学生時代を含めて8年間ほどいたのですが、
主に仕事で主体的に動き回れるようになって
関わることが大きくなったという意味合い。

そういうなかから、生来の歴史好きが目覚めてしまって、
東北の各地域を巡り歩くようになり、
知らず知らず、考えるようになります。
ようするに、歴史的にも地政学的にも「東北の中心ってどこ?」という点。
今はもちろん、仙台がそういう位置を占めているのは事実。
伊達「陸奥守」が江戸期を通じて存在し続けてきているわけですし、
幕末では「奥羽越列藩同盟」の盟主にも伊達氏がなっているのですから、
近世においては仙台が中心となっていたとは言える。
しかし、日本史のはじめ頃から繰り返されてきたのは
仙台平野地域までの日本の権力範囲に対して、
それ以北の地域住民の反抗の歴史。
仙台平野までは、古墳が残されたりしていて、
比較的早くの時期に日本の生活文化様式を受容していたと推定できる。
しかし、その時期には多賀城が王朝の現地中心地域であったことは明白。
地政学的にも、多賀城に伊達氏は入城すべきだったのではないかと思われてなりません。
しかし、その多賀城も、どうも中心とは言えない気がする。
歴史的に見ればやはり、東北という概念を初めて権力としても
明らかに現出させたのは奥州平泉の藤原氏政権。
基本的には王朝国家の体制の中での現地軍事警察権力を握る形で
相対的に独立的な権力を樹立した。
伊達氏が仙台平野を中心とする60万石程度の地理的支配範囲だったのに対して
「白河から外ヶ浜まで」という、現代の「東北」に相当する地域を
概念上も、明示的に支配していたと言えるのです。
東北を代表する大河、北上川を水運として活用して、
関西の日本中央地域とも物流・情報とも直結していた。
現代の地図で見ても、平泉の方がはるかに「へそ」に位置する。
さらに歴史的に見て、北東北地域にその権力基盤を持ち、
それ以南の地域に対しても、中央権力との調和という形で存在していた
奥州藤原政権の方が、「東北」という概念に親しい。

いま、世界遺産の登録審査が近づいてきていますが、
この平泉地域がより正当な評価を得るためのひとつのステップになり得る機会ではないかと
密かに期待している次第です。
って、東北地域に対してはエトランゼな人間なのですが、
でもだからこそ、歴史を知れば知るほど、
このような思いを強くしてきているというワケなのです。

<写真は、仙台城の復元想像パノラマ>

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2008年04月28日

奥州藤原氏館方向から束稲山を見る

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平泉の周辺はことし、世界遺産の登録審査を迎えると言うこと。
今回初めて、中尊寺以外の平泉地区を訪れてみて、
その中世都市としての広がりを少しイメージすることができました。
写真は都市としての平泉が持った最大の交通手段、北上川と、
その東方対岸に見える束稲山の様子です。
撮影したのは、柳の御所と呼ばれた奥州藤原氏の主要居館方向。
北上川は南下すると石巻あたりで太平洋に出て
太平洋岸の湊・伊勢などから京都へ、はるかに連なっています。
この物資の大動脈を通って、黄金をはじめとする
東北地域の物産が都へ運ばれ、同時に都を通して
世界中のものがこの平泉の地にもたらされてきたのでしょう。
マルコポーロが書いた「黄金の国・ジパング」というイメージも
この平泉の繁栄ぶりを誇張した表現であったのではないかと思われます。

中世都市の場合、そこにひとびとを引きつける魅力って、
宗教的な「極楽浄土」にもっとも近い、という要素があったでしょう。
日本の権力争奪者たちが折り重なるように宗教施設を建ててきた
京都や奈良の街を見れば明白。
その意味で、権力と宗教的魅力とは一体的なものであり、
主要な寺だけでも、毛越寺・中尊寺・立石寺という巨大伽藍を配していた
この平泉は、まさに独立王国的な存在を誇示していたに違いない。
対面している束稲山は、西行によって桜の名所として謳われましたが、
その後、藤原氏滅亡後は桜はほとんど維持できなかったそうです。
藤原氏がこの山に桜を大量に植えたという記録があり、
大切に保護し続けていたのが、自然林に戻ってしまった。
桜というのは、そのように人間による手間暇がかかる森なのですね。

現在は一部に桜が植えられているようですが、
奥州藤原氏全盛の当時は、全山桜色に染まるような光景だったに違いありません。
桜に異常なまでの好き心を見せた歌人・西行が
都から遙かにこの地を訪れたというのもむべなるかな、です。
中世都市・平泉を再現復興するようなプロジェクトが
世界遺産登録によって促進されることと思います。
平成の大合併に当たっても、平泉が合併を避けたのは
きっとそのような思惑が強く働いた結果なのではないかと思われます。
北上川河岸に沿って国道4号線と合流するバイパスが造られ、
太平洋岸方向へ、新しい道路も建設されています。
こうした開発行為に対して批判的な声もあると聞きました。

こうやってみてくると、
やはり東北地域の固有性の中心って、やはり仙台と言うよりも
この平泉を中心とする一帯の方がふさわしいと思われます。
そういう地域文化の再生という意味では
世界遺産登録という機会をうまく生かしていくのが賢いでしょう。
地域の誇りを作り出す、という側面から考えたら、
よい税金の使い方のような気がしてきます。いかがでしょうか。

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2008年04月26日

毛越寺・開山堂

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平泉に足を伸ばして、一度も見ていなかった毛越寺や
「柳の御所跡」などを見学して参りました。
ことし、平泉の一帯は世界遺産申請される予定になっています。
きっと、そのころからは大変なブームになるかも知れません。
日本史の中でも、きわめて謎の多いのが奥州の興亡史。
頼朝による軍事制圧によって、東北地方はその歴史を断ち切られたのでしょう。
その後は、関東の武権が東北地方を蹂躙してしまって、
それを背景とした鉢植え的権力がながく支配する地域になっていった。
要するに、奥州の独立性はその痕跡を含めて関東によって
歴史的に圧殺されてきて、正しい奥州の歴史が見えなくなっている。
この平泉を中心とする地域は、鎌倉幕府の正史である吾妻鏡でも
「わが国無双の伽藍なり」と記載されているように、
相当のレベルの文化を持っていたことは明らかです。

写真の毛越寺・開山堂は、慈覚大師円仁がこの寺を開いた記念施設なのだとか。
慈覚大師円仁とは、以前このブログでも触れましたが、
平安初期、新仏教として朝廷の庇護を受けた天台宗の3代座主。
唐代中国の最新文化を、苦難の大旅行の末に日本にもたらした
日本仏教史のなかの大スターなんですね。
日本で初めて「大師」号を受けた僧侶なのです。
まぁ、今の日本では比肩しようもないのですが、
日本第1級の学識者であって、朝廷権力の信頼も厚く文部科学大臣も兼務している、
みたいな存在だったのですね。
そういう人物が、この平泉地域の毛越寺や、立石寺・中尊寺などの
仏教文化施設をすべて開山したということなのです。
当時の平安朝廷にとってこの地域がいかに重要であったのか、
指し示すなによりの証拠のように思われます。
いったい、なぜここまでの傾斜を朝廷権力は奥州地域に対して見せたのでしょうか?
奈良の大仏開眼に際して発見された奥州地域の黄金が
すべての鍵と言うことになるのでしょうか。
その後の、源氏一族による異常なこの地域権力への執着。
前九年・後三年戦役を通してかいま見えるのは関東武士たちの
ぎらぎらとした欲望そのものであったと思います。
八幡太郎義家が戦争では勝利を得ながらも、朝廷権力によって
「私闘」であるとされ、結局は奥州藤原氏にこの地の権力が認定されていったのは
どのような政治的経緯によるものなのか。
いろいろな想念が沸き起こってきます。
頼朝による、先祖の復讐にも感じられる奥州征伐の様子を見れば、
いかにこの地域が魅力的なものであったか、証明もしているでしょう。

って、どうも飛び飛びになってしまいますね(笑)。
円仁さんの開山を記念した建築ということで、
見てみたら、ほかの仏閣とは壁の様式などが違っておりました。
建築様式でも、どのような系譜のものなのか興味をそそられます。
塗り壁と木とのコントラストが、寒冷地を意識した意匠なのかどうか、
よく調べてみたいと思います。
まぁ、何回か焼失してきている建物らしいのですが、
再建されてきている以上、その基本デザインは踏襲されてきたと考える方が自然。
あんまり日本の正史に登場してこないけれど、
平泉を中心とする地域って、相当、日本史に強い影響をもたらしてきたのは明らか。
さらに、大いに興味がふくらんできます。う〜む。

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2008年03月25日

近江商人の残照・盛岡旧市街

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江戸期の経済活動について興味が高くなってきています。
盛岡市を先日、訪れた際、
旧市街の商家の成り立ちを聞く機会がありました。
江戸期の旺盛な経済活動を支えていたのは、
複式簿記を操っていた近江商人たちの活動であり、
いろいろな部門で、商機を見いだして、ビジネスを展開したかれらの
活動が、ベースになって歴史は展開していると感じさせられた次第。
商人たちの歴史というのは、あまり見る機会がない、と思います。
しかし、指摘されてみると、今日に至る日本の活発な経済活動で、
商人たちの動きが顧慮されていない、というのはおかしい。

秀吉などは商業の発展を自らの政権運営の基盤に据えていたに違いなく、
その幕僚には、小西行長などという有力商業資本とおぼしき人物もいたし、
石田三成という人物も、近江出身であり、
秀吉政権成立時の活発な軍事運動を支えた兵站輸送など、
相当な数学的能力で、運営していたことは想定される。
秀吉によって九州制圧の夢を絶たれ、経済的に行き詰まった薩摩藩に
藩経済の運営方法を指南した、という辺り、
石田三成という人物も、そのような近江商人的気質のなかにいた人物だと思われます。
こうした近江商人たちは
場所請負制を取っていた一時期の蝦夷地の漁業運営をも手がけていたそうで、
きっと、歴史の裏舞台で、さまざまな決定的役割を果たしたに違いないと思うのです。
一度、蝦夷地の場所請負制のことを書物で見たことがあるのですが、
そもそもなぜ、幕府が直轄領にした蝦夷地の経済の中心であった漁業を
商人たちにゆだねたのか。
要するに幕府の役人たちが運営してみたら、まったく赤字の連続だったのですね。
そのため、効率よく利益を生み出せるように商人たちに直接
「場所を請け負う」形にしたんだそうです。
その決算報告が連年、文書として残されているワケなのですが、
さすが、商売人たちですね、こちらでもきれいに若干の赤字計上になっているのです。
それはそうだと思います。かれらにとって、
幕府のために汗水垂らして黒字をあげて尽くす必然性はない。
「お役人様たちでも赤字なんですから、わたしどもではとても・・・」
などといいつつ、その実、継続して場所請負が続けられるように
抜け目なく賄賂などを配って、継続してきたに相違ないのです。
そのようにして蓄積した富を幕末に至る商業資本の蓄積にしてきたのでしょう。
明治政府側に資金提供した旧財閥系資本とはそういうものだったのだろうと思います。

少なくとも、番頭・手代といった商業の階層的ネットワークで、
どんどん、独立自営していきながら、そのネットワークが生み出す
「情報力」によって、機敏に経済をリードしていただろうことは推定されます。
盛岡は南部藩の首都ですが、
北上川の物流ネットワークで江戸への流通ルートが確保されていて、
そのような全国経済に参加していたことでしょう。
天明の大飢饉の引き金になったとされる
八戸周辺での大豆生産への過剰な傾斜というのも、
勃興しつつあった関東・野田の醤油生産活動への原材料供給が発端。
そうした経済活動は、近江商人たちのネットワークの中で
「商機」として見いだされた側面が生み出したことだと思います。

盛岡の旧市街に展開している商家の
「町家」の家並みの様子を見ながら、
そんな想念が思い起こされていました。
そういった「商人の歴史」みたいなものを調べてみたいと思っています。

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2008年03月01日

奈良期の巨大建築

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最近、またまた歴史系の話題になっています。
どうも、年齢的に自然とそういう指向が強くなってくるものかどうか(笑)
まぁ、ここんとこ、決算の関係での仕事が多くて
住宅取材とかの機会が少ないということもあります。
と思ったら、来週はふたたび、「東北住宅大賞」の審査の仕事で
東北全域を駆け回り、その後も取材が山積み、ということ。
なので、本日も歴史ネタです。

先日、斉藤裕さんの「日本建築の美、黄金の塵」という講演を聴きまして、
たいへん面白かったのですが、どうも、
斉藤さんは茶道関係の団体などから依頼されて
調査研究活動をしたようで、その成果としての取材結果に基づいた講演だったようです。
で、そのなかで、たいへん興味深かったのが、
奈良期の巨大木造建築がなぜ、文化として続かなかったのか、
ということへの示唆として、
単純に自然状態の巨木が少なくなったという事実。
朝鮮ではこの間、南大門が焼失したニュースが流れましたが、
朝鮮さらに中国でも、奈良期の巨大建築に見られるような巨木は
遺されている建築には見られないのだそうです。
仏教に国家運営の道具としての利用価値を見いだした権力は
写真の東大寺を始め、全国に「国分寺」を造営しましたが、
それらは今日に至るまで、何回かの焼失を経ながらも存続してきています。
こういう巨木による建築は、世界的にたいへん珍しい。
世界遺産であること、むべなるかな、なのですが、
インド洋〜ヒマラヤという地球規模の気候条件の結果として、
日本は湿潤で、巨木を育むのに適した自然条件を持った地域。
そういう条件で、木造の文化が栄えてきたという側面はあるのでしょう。
しかし、司馬遼太郎さんの書かれたものによると、
平安期以降しばらく、戦国期まで、
巨大木造は忘れられたようになるそうです。
巨木が盛んに伐採され、それが再利用可能なほどに復元するまで、
700〜800年の時間が掛かったということなのか、
このあたり、重ね合わせて考えて、たいへん面白い指摘だなぁと思ったのでした。

こんにち、地球環境問題から木造への関心がヨーロッパで高まり、
盛んに集成材技術を使っての巨大木造へのチャレンジが行われているそうですが、
その「サスティナビリティ」の枕詞として、
奈良期日本の巨大木造建築が最先端の脚光を浴びているのですね。
写真は、昨年夏の旅行の折の写真なのですが、
たしかに欧米やアジアのみなさんの姿が多く、
そのような関心というのも頷けるものがありましたね。

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2008年02月29日

江戸期の平和維持システム

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ライシャワーさんと司馬遼太郎さんの対談、どちらも故人ですが、
それを読んでみたら、ライシャワーさんがさかんに江戸文化に着目しています。
江戸期、たいへんな平和社会を200年以上継続したことで得られた、
集団内部での協力性とか、組織への忠誠心というような
日本と日本人社会が獲得した「組織平和の維持」システムに大きく注目しているんですね。
このようなものの見方は、やはり欧米人であって、
一方で深く日本及び日本人を理解したライシャワーさんの慧眼だと思います。
まぁ、日本人が気づきもしないようなところまで深く日本人を研究したこんなひとが
アメリカ戦争参謀本部みたいなところにいたんですから、
彼我の違いを考えれば、敗戦は必然だったのでしょう、余談ですが。

それはともかく、江戸期の社会のシステムの中に
現代の日本の素型はすべて出来上がっている、
現代が変化したのは、表面的な形だけであるというようなことば、なんです。
確かに現代の企業や官僚システムなどの内部の論理を見ていれば、
その独特の組織維持の強固な安住性というものは際だっていますね。
江戸の末期に、官僚化した幕府組織が非効率そのものになって、
まことにあっけなく瓦解したともいえるのですが、
その原因は、組織の維持ということだけが大目的になってしまって、
本来の目的に対して機能しなくなるような、組織内平和第一のシステムなんですね。

こんにちさまざまに官僚機構において起こっている
末期症状とも言えるようなシステム障害の数々を見せつけられています。
防衛省の機構的とまで言える「システム障害」が引き起こしている海難事件。
官僚システム内部での弛緩ぶりが、もはや、外部にあられもない形で表面化している。
一般社会に対して、整合性のある説明も取れないような破綻ぶり。
艦長さん個人としては、まことに正しいことばを発していましたね。
「国を守るべきものが、国民を死に至らしめてしまった・・・」
こうした認識がまだ残っているウチに、
このシステム上の不具合に対して、直していくことに取りかからなければならない。
インターネットの普及による個人意識の高まりは、
江戸期から続くこれまでの社会が第一の大前提としてきた、
「組織維持がもっとも大切だ」という考えに風穴を開けつつある、
というのが現代の変化の一番大きな部分なのではないでしょうか。
このような見方が出てきたことで、
既存の官僚システムの破綻ぶりが際だってきているということも言える。

もともとが強い個人意識に裏付けられた社会である欧米では
インターネットの出現は、その延長線上でのことになるのでしょうが、
日本型の社会では、未体験の領域を作り出してしまう、
そんな気がしてなりません。
みなさん、いかが感じられているでしょうか?

<写真は江戸期の出版物、旅行カタログから。>

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2008年02月28日

愛読書

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もう何年間、この本と付き合ってきたか・・・。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」とか、「太閤記」とか。
ちなみに奥付を見たら、昭和51年発行になっているので、
もう30年以上も手元に置いて読み続けている本になるわけです。
定価はカバーに表記しています、と書かれていますが、
とうの昔にカバーはなくなっているので、いくらで購入した本であるか
いまはもうわかりません。
この「上巻」は、一部、綴じも壊れてしまっていますが、
それでも、ずっと読み続けてきた。
どんな読み方をしてきたのか、といえば、はじめはまぁ、2〜3回通読した記憶はある。
その後は、適当にページを開いてそこから読み始めて
最後まで読むこともあったし、そのまま、寝込んでしまうこともあった。
長い時期で、数年間目にしないということもあるけれど、
時々思い起こしては、また読んでいる、っていう次第。

そんな読み方をしているので、
内容というか、書いてあることは、ほとんど全部と言っていいほど
記憶の中にインプットされている。
それでも、読み続けてきたのは、やはり、
こっちの年齢があがってくるほどに、「行間の消息」が見えてくるから。
意味としては、全部理解しているけれど、
そうではなく、小説なので人間の心理を描写しているので、
その心理などが、こっちの体験が加わるごとに重みが違ってきて、
書かれた文章の意味合いが、いろいろな色合いに見えてくるのですね。
とくに、死を巡っての否応ないこちらの体験の積み重なりが、
同じ無常観を体験した先人たちの心理を通して、
こちら側に、いつも違うかたちで読めてくるのですね。

司馬遼太郎さんというのは、
稀有な形の「国民文学」という最後の作家になるのかも知れないと思います。
ちょうど日本が高度成長期にさしかかり、
いつも「坂の上の雲」を目指し続けた時代の雰囲気の中で、
幸福な同時代感覚の中で、作家活動を続けることができた人ですね。
もう死んでから12年になるようです。
死ぬ前に書かれた文章では、日本の将来に明るさは残念ながら見られない
と、書かれていたことを覚えています。
産経新聞在職中に、自社の連載小説に応募して『竜馬がゆく』が
審査を通って採用になったのだそうですが、
その当時の社長さんが、社員でもきちんと賞金を払ってくれた(笑)
と書かれていました。でも、家一軒建てられるほどの賞金は、
新聞記者出身者らしく、「取材」のための古書購入費にほとんど充ててしまったそうです。
当時借りていた住宅の床が、それで抜けるのではないかと心配したということ。
そんなことから、歴史小説を書くのに、
かれは、本当に過去の出来事であるのに、
実際にその場所に行ったり、まさに、ニュース取材のような方法でやっていたらしい。
そういう結果として、日本の歴史に対して、
独特の歴史観や、思いが募ってくる部分があったのだろうと推測します。

そういうかれの仕事の中では、
比較的初期の仕事ではあるのですが、
戦国の終結期の、「天下」成立後の複雑な「政治」情勢が、
肉声が聞こえてくるような筆致で書かれているのですね。
ここまで長く付き合ってくると、
これからもきっと、読み続けるのも間違いないでしょう。
こんな読書の仕方もあると思う次第ですが、
出版という業種自体の危機が進行しています。
今後どうなっていくものか、先行きは難しい時代ですね。

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2008年02月18日

歴史画に残るアイヌ風俗

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この絵は、アイヌの人たちの風俗を描き続けた小玉貞良さんという絵師の方の筆。
古代蝦夷風俗之図(小玉貞良画)
アイヌの長老たちが松前城にウイマム(お目見え)に至る図。
小玉は18世紀中葉のもっとも古いアイヌ絵の画家であった。
当館北方資料室所蔵原画より複製。(貞良 宝暦年間頃活躍)

こういう絵画というのは、いろいろなことを教えてくれる。
アイヌの人たちは文字を記録しなかったので、
その生活文化を表すよすががない。
そうした隙間を埋めてくれるのが、こういう絵。
日本の国家は、律令制時代の対・蝦夷以来、
伝統的に、「まつろわぬ」人々に対して「教化」するように
かれらを招いて、文化に触れさせる儀式を行ってきた。
小さい「外交」ともいえる。
で、それに招かれたアイヌの人たちを描いている様子。
アイヌの人たちにも階級分化があって、立派な蝦夷錦を着た
酋長と、その夫人、こどもと
従者と思われる荷物を背負った人物が表現されている。
アイヌの人たちは活発に交易していたようですが、
その着ている蝦夷錦も北方アジアの民族から手に入れた中国の官服生地。
肩からは、たぶん、日本社会との交易で得られた日本刀を背負っています。
従者が持っているのは、交易の品であるのかも知れませんね。

一方で、こうしたアイヌの人たちを描いて記録した
絵師というような職業が、少なくとも松前では成立していた。
このひとは、継続的に作品を残し続けているので、
ほぼそのような職業であったことはあきらかなんですね。
たぶん、松前藩のほうから、
「今度、アイヌの連中がやってくるから、記録にするので絵をひとつ頼むよ」
というような注文を受けて、描いたものでしょうね。
出来上がった作品は掛け軸にして
場合によっては、松前藩から幕府や、京都など上方に献上されたかも知れない。
たぶん、上方や江戸などでは、こういう異国情緒が好まれるだろう、
というような計算が働いていたに違いないと思います。
そういう「交易関係」がこうした絵が生産され、残ってきた背景にあるのでしょう。
いろいろな想像を掻き立てられる絵でした。

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2008年02月10日

ナスカ展

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きのうは国立博物館の展示体験記でしたが、
あんまりオススメではありませんね、ということでしたね。
ですが、もう一方の科学博物館での「ナスカ展」はすごい正解!
っていうか、こっちのほうは「アンコール」にお応えしての催事なので、
ほぼ、正解は理解できるところではあります。
とにかく、世界最大の謎と言ってもいい、ナスカの地上絵の謎解き展ですから
まぁ、盛り上がりが全然違うわけですね。
展示は、ナスカの人々のDNA分析やら、
先行する文化の特徴の紹介などなど、立体的に直感的にナスカ文化を体感できる。
とくにミイラの分析からナスカの人々が、バイカル湖周辺で誕生した
モンゴロイドの流れを汲む民族であり、
わたしたち、日本人と遠い親戚関係にある、というあたり、
「そんなこともわかってきたんだ」と現代科学を見直す思い。
地上絵については基本的には謎とされていますが、
デザイン自体は、ナスカの人々が800年前後という長い歴史期間、
かれらが育んできた世界観や、描写手法そのものであり、
また、地上絵を描く手法の解説なども開示されていて、
宇宙人説などへのおだやかなニュアンスでの否定が感じられます。
描き方は、まず小さく描きたい絵を地上に描いて、
そこから、放射線状にロープなどで、距離と角度を特定しながら、
「測量」的に描いていく方法が示唆されていました。
「なるほど」という説明ですね。
また、世界各地に地上絵の伝統はありますよ、という例示も示されています。

こういう表側のテーマとは別に、
わたし的に強く考えさせられたのが、DNA的に近いかれらの首狩りの風習。
戦国期など特徴的なように、わたしたちの文化でも
歴史というのはまさにお互い同士の殺し合いの連続そのもの。
ナスカの人々もたいへん戦闘的な民族だったようで、
繰り返し、首狩りへの執着心が語られています。
首狩りを文化的な、たとえば陶器などのデザインにまで登場させたりしている。
生と死、戦争というものの概念世界が現代世界とは違うので、
即座に野蛮と決めつけられないけれど、やはりすごいものがある。
そうした世界観のなかで、一方で頭部への開頭手術なども技術が進んでいる。
こうした手術の成功確率も高かったという調査結果。
信長は、宿敵・浅井長政の首級・骸骨を酒杯にして
家臣に回し飲みさせたというような逸話があるけれど、
やや、近いような感覚世界にかれらの世界観はあったと想像される。
わたしたちにも、似た感覚世界のDNAはあるということなのでしょうか。

というような、独特の異種世界を体験したような気がした展示。
最後にはバーチャルリアリティのナスカ地上絵空中見学体験もできました。
どうも、ああいうの、苦手気味なのですが、
なんとか、最後まで気分が悪くならないように注意しながら、
見学を終わった次第です。
面白かったです、文句なしです。
こういう展示として、構成なども素晴らしかった。
アンコール開催というのも、むべなるかなです。
東京に住んでいる人は、やっぱりずいぶん、トクしていると思います。
いいですよね、こんな大予算を使った展示のたぐいが
それこそ、毎日のようにどこかしこで行われているのですから、
そうしたメリットの地域間格差って、すごいものがある。
所得税というような「富裕税」は存在しているけれど、
こういう「文化接触格差」の税の概念って、取り上げられることは少ない。
こういう点、「都市の快適性」という側面から、論議すべき時期に来ている。
少なくともこういうことについての格差はまったく放置・無視されている。
ひとつの考えとしては「文化税」などを創設して、、こういう展示を見に行くのに
地方の人に必然的に掛かってくる旅費交通費などをキャッシュバックする。
その経費負担を「文化税」全体で考えていく、というのは無理なのでしょうか?
わたしだけかなぁ、こんなこと考えるのは?

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2008年02月09日

宮廷のみやび

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今週はずっと出張に出ていまして、
2日間ほど東京に滞在していました。
わたし、東京に来ると時間を作っては上野の東京国立博物館に行くのが習慣。
今回は、手前側の科学館でもなんと、「ナスカ展」アンコールを行っていましたので、
両方、掛け持ちで見学してきました。
本日は、そのうちの博物館での「宮廷のみやび」展です。

なんですが、のっけから結論を言ってしまうと、
やはりがっかりさせられた、というか予想通りというか、
「ああ、やっぱりね」という展示だったのです。
日本の文化の中で、藤原氏、のちに別れて近衛家となるのですが、
このような貴族が果たしてきた役割は、理解はできるのですが、
やはり生理的に、こういう国家権力に寄生して
その甘い汁を吸ってきた、という存在に対して好意的にはなれないのです。
展示は、おおむね、天皇家との関わりを誇示するようなものの羅列。
かれらにとっては、政治的な「戦利品」のようなものですね。
そういうものが、今日的な価値観で見返してみたとき、
はたしてどれほどの意味があるのか、疑問です。

貴族というのは、「文化・文芸」の道を民族の中で
大きな役割として果たしてきた、ということですが、
それは民衆への大きな抑圧の結果として
かれらが獲得し続けてきたことであって、多少の努力要素や素養というものはあったにせよ、
基本的には、たまたま、そのような境遇に生まれたからそうなっただけだと思うのです。
「そのことにどれほどの意味があるの」と内語し続けてしまった次第。
まぁ、下々の「ひがみ」ですね、これは(笑)。
よく「王朝文学の香り」とかなんとか、
一般民衆のリアリズムとはまったく無縁な恋物語などを
さも、立派な香しい文化ともてはやすような考えがありますが、
どうにも同意できませんね。

展示の中で、近衛前久という戦国期日本史にも名前が登場する人物が出てきます。
わたしは、司馬遼太郎さんの文学で、この名前を知っていました。
家康を描いた司馬さんの「覇王の家」のなかで、
ほぼ天下統一の事業が完成に近づきつつあった信長を
家康が自分の領土の中を通らせて富士山を見物させる旅行接待をするくだりがあります。
その間の政治的な背景に触れながら、
家康と信長の心事を推量し、考察しながら展開するお話ですが、
そこにこの「前・関白」の名が登場します。
政治的にはなんの実態もない存在でありながら、身分だけは高位であるこのひとが、
信長に、富士山見物の旅への同行をねだったのですね。
それに対して信長は、「わごれなどは、さっさと帰れ!」と大喝したという描写があります。
<確か本文では、東山道を帰れ、となっていたはずですが。>
「信長から酷いことを言われた」と日記に記していたそうです。
しかし、このとき信長は、天下一気性の難しい自分を接待するという家康の
政治的な覚悟のほどを思いやって、その心事を計っていて、
そのうえ、身分だけは天下第一等である近衛が加われば、
家康には、どれだけの心理的負担になるか、それを考慮しない近衛前久に
つい、どなってしまった、というような消息を文章にしていたのです。
そうした存在であるという、知識の下敷きから、
展示を見ている自分がいるせいなのか、やはり遊離した存在という意識が働くのですね。

しかし、信貴山絵物語など、目を奪われるような素晴らしいものもあります。
また、書の歴史展示と考えれば、大きな意義のある展示でしょう。
確かにこういう存在がなければ、
日本の文化の大きな部分は継続性を持ってこれなかったのは事実でしょう。
まぁ、色々な事柄を考えたり、感じたりした展示でした。
その意味では、意義はある、とも言えるかも知れませんね。
ということで、本日は国立博物館レポートでした(笑)。ではでは。

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2008年01月14日

面白新聞発見

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写真は先日、見学した勿来の関文学館で発見した展示。
こういう歴史展示館って、歴史的な考証はあんまりいい加減にはできないので、
そのときどきの歴史認識があらわれるもの。
そうした歴史認識をベースにして、入場者に対して
一種のユーモアを持って、展示物を考えていく作業というのも、
なかなかに面白そうな仕事だろうな、と思って見ることにしています。

ということなんですが、
やってくれておりますね。
ニュース的な手法で過去事実を紹介するというのは
まぁ、そこそこありますので、その点は置くとしても、
でも、当時の時代感覚は概ね伝わってきました。
京都の朝廷政権が最末期を迎えていて
そうでなくても地方からの徴税がうまくいかなくなってきていたときに、
飢饉がやってきて、完全に行き詰まっていた、という当時の
経済的な側面が大きかっただろうと思われるのです。
そうした事情を把握しなければ、生きた歴史は感覚できない。
この時代、平氏が主に貿易による利益で力を付けてきた背景には
律令体勢が完全に崩壊の縁にあって、
国家予算の執行もままならない、というような事情があったと思われるのです。
そういう背景の中から、地方の実質的な権力、
在地の開拓農場主である武家が大きく力を付け、
律令体勢を揺さぶっていたのでしょう。
関東の武士団は、独立的権力を得るために「大頭」として
律令国家とも政治的に渡り合える「政治家」として
頼朝を政治的な盟主としていただいた、というのが実質。

奥州の独立藤原政権、西国での立貿易権力としての平氏、
老醜の身ながら、かろうじて全国政権ではあった、京都の王朝国家、
さらに北国・越の国を根拠とした木曾義仲、
もっとも根底的に京都の王朝政権と対峙する存在であった
鎌倉の関東武家政権。
このような分断された政治的な状況が見えてきますね。
このようななかで「治天の君」であった後白河と、
政治的にもっとも互角に渡り合い、勝利者になったのが頼朝と関東武家政権。

確かにこういう状況を伝えるには、
ちょうど、現代の政治状況を伝えるような新聞形式が似つかわしい。
思わず、ニヤッとさせられた展示でした。

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2008年01月10日

日本の家系

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最近、いろいろな家の家運の盛衰の話題を聞きます。
以前はすごい大成功者と思われていたお宅が、
進路選択上での判断のミスで商売の第一線から姿を消すケースが多い。
老舗の行き詰まりというようなことで、語られるケースが増えていると思う。
失われた90年代以降、骨の太い戦略という部分が見えなくなってきていて、
手探りでの試行錯誤が常態化しつつあるのが経済の実態といえるなか、
もはや、家系というような継承的なことでは立ち行かなくなるのかも知れませんね。

写真は山形・庄内地方の大豪商・本間家の本邸。
江戸期、北前の交易やコメの問屋など、
幅広いビジネスを展開して、
「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
とまでうたわれていたという伝説的大成功家系といえます。
聞いた話では、地域を基盤として経済を動かす中で、
飢饉のときなどには、自らの私邸の建築工事を起こして
多くの職人に仕事を作り出し、
まぁ、現在で言えば、不況時の公共事業のようなこともやっていたそうです。
大阪市場でのコメや色々な産品の投機的な売買ビジネスから、
そうした公共事業的なことまで、
幅広い展開を行っていたのだそうですね。
本間家の家訓のようなものも残されていると聞きます。
現代では、「本間ゴルフ」という会社が名を知られている。

この家には、本家の当主のための居室が残されています。
一番奥の部屋で、4畳半ほどの床の間付きの部屋。
方角的にもっとも運気がよいとされる場所に置かれていたそうです。
歴史的には方位学などはもっとも「実学」的なもので、
現世利益の象徴のような学問だったそうですが、
そうした粋を凝らして、ひたすら家運の隆昌を請い願っていたのでしょう。
面白いデザインの床の間で、幾何学的な、むしろモダンなデザインが施されていました。
(撮影禁止)
きっと、こういう床の間デザインも
そういういわれのあるものだったのだろうと推定できました。
江戸中期から今日に至るまで、
家系を保ち続けてきているというのは、敬服に値するものと思いました。
やっぱり年の初め、経済的な話題が続きますね(笑)。ではでは。


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2008年01月05日

9世紀中国への旅

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ライシャワーさんが著した円仁さんの唐代中国への旅行記。
なかなか、読了できません。
きのうから、銀行に行ったりしていて、そろそろ仕事が始まったのと、
情けないですが、目が疲れやすくなってきたのと。
やっぱり細かい活字を追うというのは辛くなりますね。
講談社学術文庫というヤツの本文、480ページくらいのものを
ようやく250ページくらい。
年末年始の休み、はじめのころはたまった疲れから睡魔が強くて、
ここにきて、少しスピードアップしましたが、
なかなか読み終えることができません。
なんとか明日までには、終えたいところですが、さてどうかなぁ?

なんですが、ライシャワーさんの慧眼とディテールへの着眼がさすがに面白くて
読みながら、立ち止まってしまうことも多いのです。
とくに、9年間にもわたった旅行を支えた経済的側面とか、
リアリズムで迫ってくるものがある。
いったいどういう宿泊施設に泊まったのか、
それに対して対価を支払ったのかどうか、
またその間、当時の日本王朝政府が資金を渡そうとした努力など、
まことに興味深い。
文中でも書かれていますが、9世紀のこの時代でありながら、
唐の国の治安は、この日本からの旅客僧にとって、たいへん素晴らしかったようです。
情報ネットワークとしての政府組織も信頼が置けるようで、
僧であることもあるのでしょうが、賄賂などもそうは必要ではなかった。
日本からの資金援助が、何回かではあれ円仁に渡ったということは
こうした情報と、信用、交通というような面で、
この超大国が、かなり整備された国家だったということを証し立てている。
その逆に、そのような整備された国家機関というネットワークを利用するための
官僚機構による煩雑な手続きなどが、最大の障害。
かれらが発行する「通行許可」というものが、最大のパワーを持っていた。
この通行許可によって、政府が管掌する旅泊施設などでの宿泊が容易になっている。
まぁ、それだけ皇帝権力が強大に及んでいた、ということでしょうね。
ここで重要だったろうと思われるのが、漢文の修辞能力。
徹底的な文書主義の官僚機構だったようで、
円仁の側で十分に慣れない間、かなり決済に渋滞を余儀なくされたように思います。
円仁は日本では大変な秀才で、漢籍も相当なレベルだったと思われます。
現代で言えば東京大学の大学院クラス。
そういうひとが現地へ行って、はじめ言葉が通じなかった、ということ。
なにやら、日本の教育システムを暗示させているようです(笑)。

写真は勿来の関の近くの記念館で見た古地図風案内図。
現代の平面的な地図よりも、なんか旅愁を誘うように感じられます。
とくに雲の描き方って、なんともいえず昔の方がロマンティック。

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2008年01月03日

仏教への情熱

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なぜ、日本では宗教イデオロギーとしての
仏教をここまで受容してきたのだろうか、と思う。
東アジア世界のなかで、中国で仏教が大きく勢力を伸ばし、
随とか唐とかの世界最強国家が出現する中で、
「遣唐使」というかたちの朝貢外交を展開し、受容するしか、
道はなかった、ということなのだろうか?
初期の仏教伝来期には、これを受容するかどうかの対立があったとされる。
朝鮮から「仏教が伝来」したときにそれへの対応を巡って
国論が別れ、結局聖徳太子がリードするかたちで
仏教を受容する方向がかたまり、その過程で国家体制の強化が図られた。
天皇権力体制、朝廷権力の強化が同時に進行したといわれる。

しかしその過程では外圧とか、利用する、という態度とはいえない
かなりの「のめり込み」が感じられてならない。
イデオロギーとしての仏教と共に、
流入した最新の「文化」総体に巨大な魅力があった、ということなのだろう。
世界最先端の思想や、文化が仏教周辺で大きく花開いていて、
その総体を輸入しようと考えれば、結局仏教を「熱狂的に」導入せざるを得なかった。
一度、導入すると決めた以上、徹底的に国家が全体重をかけて
文化輸入に徹底していったと言うこと。
こういう民族的な体験って、比肩するとすれば、
明治以降から現代に連なる、徹底的な「脱亜入欧」思想がそれに当たるのだろうか?
「欧米か」というフレーズでヒットした芸人さんがいるけれど、
着るものから髪型、国家体制の基本まで、ありとあらゆる欧米文化を圧倒的に受容してきた。
そういう類推が、やはり一番近いのだろうと思う。
いまはその過渡期なので、仏教に対する過去の伝統的な日本人の態度が
忘却されているのではないか。
そのように考えれば、ようやくにして、
仏教への日本人の情熱が理解できるような気がしてきます。
確かに、欧米思想の導入はすさまじいものだったし、
こういうことと、仏教の導入とは同様の事態だったと考えれば、
納得できてくる部分がある。
しかし、世界の大きな国家で、ここまで積極的に外来文化を受容した経験がある国って
どれくらいあるのでしょうかね。

写真は国宝に指定されている、奥州藤原氏の縁戚が残した「浄土庭園」を持つ白水阿弥陀堂。
中央から離れた地でも、仏教の末法思想から来る
このような大規模な土木建築工事が残されるほどの情熱ぶりだったのですね。
宗教というものの影響力の深さ、大きさを実感させられます。

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2007年12月29日

勿来の関

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勿来の関、と書いて「なこそのせき」、と読むんですが、
読めないですよね、一般的には。
王朝期から平安期ころには盛んに日本史に登場する関所。
関東から奥州に向かうところにあるわけで、
「まつろわぬ」ひとびとと、王朝国家を隔てるための装置だったのですね。
いわば、国境線。
江戸期以降の近代化は、日本人から地方感覚、独立的感覚を奪ってきた歴史。
近代国家としての普遍性が一般化しましたが、
ちょっと歴史をさかのぼれば、日本には多くの「国家」感覚が存在した証だと思います。
ちょうど、藤原氏が奥州に覇権を樹立した頃には、
外ヶ浜から白河まで、里塚を建てたという時期とも重なる。
言葉は通じるけれど、違う国家が並立していたのでしょう。

だから、「征夷大将軍」というような役職が存在もしたのだと思います。
というようなことはさておき、
この勿来の関には、源義家の像が置かれています。
こういう人物がおかれているあたり、この地の歴史が伝わってきますが、
現代から見れば、やや遙かな感じがする。
でも、関東や東北各地には源氏の氏神といわれる「八幡神社」が多い。
源義家は八幡太郎という別名のような武名が高い武将。
対奥州国家への侵略者というのが実相のように思われるのだけれど、
英雄視されて伝わっているのは、その後の頼朝による全国制覇が預かっているのではないか。

そんな雑感が思い起こされるのですが、
やはり歴史の深さが直接的に伝わってくるような史跡です。
ただ、周辺は最近になってやや整備が進んできてはいますが、
資料館などもそれほどの奥行きはない、
やや残念な資料蓄積と感じられました。
しかし、白河の関と並ぶ、関東・奥羽の境の関所。
訪れることができて、うれしかったです。

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2007年12月28日

平泉・茅葺きの能舞台

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ことしも今日が仕事納め。
とは言っても、来年に向けて打合せや計画づくりなど、
作業は休み中も結局、継続しそうではあります。
しかし、まぁ、閑話休題。

ことしも休まず、書き続けてこられたので、
また、がんばっていこうと思いますが、
年末年始の時期には、すこし歴史系のテーマを増やして、
日頃の「うっぷん」を晴らしたい(笑)、と考えています。
仕事が関係なければ、やっぱり歴史にどっぷり身を浸していたいのが
わたしの本性なのではないか、というのがブログを書き続けてみての実感。
そういう意味では、ブログって、自分自身を知る鏡でもありますね。
仕事の関係で、日本中、とは言っても北日本中心ですが、
歩き回るなか、ちょっとした時間を見つけてはいろいろな土地の
歴史遺産のようなものに触れたくなるのです。
北海道のみならず、東北各地を巡るようになって、
幹線的に東北自動車道を使うので、必然的に平泉は定番になっています。
平泉・奥州藤原氏については、敗者の側の歴史ということで、
比較的につまびらかではない部分もあり、
大きくそそられるものがあります。

開祖である、藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建とされます。
というのが通説ですが、それ以前に天台宗の実質的創業者
第3代天台座主である円仁(慈覚大師)が嘉祥3年(850年)、
関山弘台寿院を開創したのがはじまりともいわれます。
円仁については米国大使であったライシャワー氏が注目し、研究されたことでも有名。
かれは日本最初のリアリズムに満ちた旅行記を著したことでも知られます。

こういう茅葺きの能舞台まで残されている中尊寺。
能は、どのような機能を果たしていたのか、
民衆のための舞台と言うよりは、もうすこし権威的なものではあったと思いますが、
きらびやかな衣装をまとってた役者たちが
この地で舞い演じたさまを想起すると、さまざまな想念が沸き上がります。
多くの肉親を戦乱の中に失ったり、殺し合ったりした
藤原清衡が、鎮魂の志も込めて、この地にこの寺を建てた思いも
そうしたなかで、見えてくるような気もします。
昔の人たちが、いったいどのような思いを持ってこうした建築を遺し続けてきたのか、
そんな興味は、尽きることがやっぱりありませんね。

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2007年12月15日

鑁阿寺(ばんなじ)多宝塔

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ことし観てきた歴史建築の中でもいちばんきれいだったのがこれ。
鑁阿寺(ばんなじ)多宝塔、なんですが、読めない字ですよね。
足利市にある、足利家の居館跡に築かれた寺が鑁阿寺。
そのなかに、大変優美な外観を見せている建物なんですね。
取材の途中に立ち寄ったのでしたが、目の保養になりました。
で、いろいろ由来とか調べてみようと思っていてそのまんま。
足利氏は源氏であり、先祖を同じくする新田氏からの
系図を主張していた徳川氏が、類縁と言うことから
江戸期に保護を加えた結果、このような立派な建物を完成させたようなんですね。
足利学校・鑁阿寺とも、その当時、衰微していたのを再興させるべく、
ときの権力者、というか、関東入部したての徳川家康に接近して、
かれの運が回るごとにこちらの羽振りも良くなっていったそうです。

多宝塔、というのはどういう存在なのか、
括弧付きで「塔婆」とあります。
Wikkipediaで調べると、
インドの「ストゥーパ」が起源の仏教建築物である。ストゥーパはサンスクリット語で、日本では「卒塔婆(そとば)」と音写され、「塔婆(とうば)」や「塔(とう)」と略される。ストゥーパは饅頭のような形に盛り上げられたインドの墓のことで、漢の時代に中国に伝わり木造建築の影響を受けた。ストゥーパに塔の字が使われるようになったのもこの頃である。その後、日本に伝播した。日本では五重塔・三重塔・多宝塔など、木材(ヒノキなど)を使って建てられることが多い。形は大きく変わったものの、本来のストゥーパのもつ意味は変わっていない。多くは信者の寄進によって立てられる。

ということだそうで、まぁ一種のお墓なんでしょうか。
この多宝塔、外観がとてもプロポーションが美しい。
徳川家の女性が援助して建立されたと言うことですが、
そうした経緯を表すように、優美な曲面を取り入れて調和が取れている。
盛んにカメラで狙っている人がおりましたが、
(って、わたしもですが(笑)・・・)
ある意味女性的な印象を抱かせる美しさだなぁと感心した次第。
それと、関東というのは江戸に徳川氏が入る前から、
このような文化圏を形成していた歴史があったのか、という
遅ればせながらの感慨も抱かせられました。

ということですが、
本日は全くの歴史的散歩篇、というテーマでした。ではでは。

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2007年11月30日

国宝建築 白水阿弥陀堂

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国宝と指定されるような建築って
東北でもあまりないと思われるのですが、
大崎八幡とか、瑞巌寺、中尊寺などが知られています。
そういうなかに興味を持っていたのが、この白水阿弥陀堂。
平泉の「花の御所」と呼ばれる奥州藤原氏の居館は
想像図が示されているくらいで、実際に見ることはできない。
で、この白水阿弥陀堂は藤原清衡の娘が、いわきの地に嫁いで
そこに末法思想からの救済を夢見て造営したとされるものなのです。
それは、すでに現存しない、まさに実家の「花の御所」に似せて建てられたものではないか、
と推定されているものなのですね。

場所は、福島県いわき市内郷白水町。
行ってみると、かなりの山の中に忽然と出現する極楽浄土、という印象。
末法思想を下敷きにした浄土観念が具現化されている。
中世的な庭園、というか池のなかに阿弥陀堂があって、
そこに至るには架け橋を架け、
渡っていく、というような演出になっています。
純粋な建築というよりも、その周囲の庭園との関係も含めた
体験型の建築空間というような意味合いではないかと思います。
周囲は池をぐるっと回るような木立がデザインされていて、
たぶん、一定の回遊時間を行を果たしながら池を回り、
そのあと、橋を渡って阿弥陀堂に参詣したのではないかと想像できます。
こういう宗教体験を目指した建物を理解するのは
中世世界の「末法思想」を理解しないと見えにくいもの。
この時代にはさかんに仏教経典を地中に埋めて「経塚」とするなどという
行為が行われていたそうです。
人間世界は救済の言葉も失うことになるので、
遙かな後世のために、救済の箴言である仏教経典を埋めたのだそうです。
まぁ、そういう時代背景のなかの建築として
数少ない現存形態なので、国宝指定されているのでしょうね。

歴史的には、この娘さんが、藤原家から、
この地の豪族・岩城氏に政略結婚で嫁いできた、ということに興味も覚えます。
平泉を本拠と定めた藤原氏は、白河から外ヶ浜という青森県の辺境まで
自らの国土として「塚」を建て並べたということだそうですが、
その時代に連合的な勢力として、この地の豪族を懐柔したのだと思われます。
この地の豪族にしてみれば、自らの安全を図ったのでしょう。
日本の支配勢力って、
古代の連合的国家から、天皇による中央集権律令体制国家、
さらにその破綻から始まって、守護・地頭の時代、
戦国〜江戸期まで、結局は地域ごとに地方王権が存在していたと言えると思います。
結局、それを国造〜くにのみやっこ〜と呼んだり、
守護と呼んだり、大名と呼んだりはするけれど、
ようするに地方権力というのがけっこう存続してきたのだ、
というようにも見ることができるように思われます。
この点はちょっと、長くなりそうなので、またの機会に。

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2007年11月25日

奥六郡の興亡

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いまは日本史って、学校なんかではどのように教えているのか
とくに地域の特殊な歴史について、
どんな記述がされているのか、気になることがあります。
というのは、これまで北海道に住んでいて、
あまり、東北の歴史って、知る機会がなかったのです。
っていうか、東北の人でも地域の歴史に興味を持つ方は少ない。
そんななかで、北海道とは決定的に違うのが、
探そうとすれば、地域の歴史というのが発掘可能なかたちで残っているということ。
ほかの関東の歴史とも全然違うし、
そもそも日本全域の権力を中心にした歴史という観点ではなく、
地域ごとの発展経緯というような歴史記述って、
なかなか目にすることが少ない。
関東には関東の独自な歴史があると思うし、
その地域同士の関わり合いの歴史というのもある。
新潟から北陸にかけての地域なども、
やはり独自的歴史が流れていると感じられる。
そのそれぞれの地域で、たとえば地域の歴史って、
小学校低学年くらいで、どのように教えているのか、知りたいと思います。

そんな思いに駆られるようになったのは、
写真で見る東北中北部地域の歴史を徐々に理解するようになってから。
この地域が日本史に登場するようになるのは、
多賀城を中心とする王朝国家の奈良期くらいから。
鎮護国家の象徴として聖武天皇が
大仏造営を発願したあたりに、この地域で黄金が発見された。
このことは相当の衝撃的事態だったのだろうと思います。
大仏に金箔が貼られたり、都の建造物に金箔が使われたりした、
その現実的な基盤はこの地域の資源が日本史に影響したのだと思います。
前九年・後三年戦争とは、
そのような金の利権を狙った武家貴族・源一族の野望が発端。
その野望が現地の政治的経済的盟主であった氏族と
緊張関係を生み出し、同時にその結果に対して
王朝国家も政治的駆け引きに大いに関与したりして、
複雑な経緯をたどりながら、奥州藤原氏の覇権が成立して
一定期間の安定がもたらされる。
そして最終的に、関東武士団の非合法武力権力を政府機能にまで高めた
頼朝による、この利権と全域の掌握によって、
この東北地域の独自性は蹂躙されたのだろうと思います。

日本史の中で、頼朝の奥州制圧と、秀吉の九州制圧・関東制圧
というのが、いちばん武力鎮圧、という示威を感じさせることがら。
どうしても歴史は、権力の争奪というような政治的表現に
中心的興味がいく場合が多いと思いますが、
もうすこし、経済的な必然性にスポットを当てて見てみたいなと思う次第。
いま訪れても、この地図の中心の「奥六郡」地域は
たいへん気候も安定して、地味も豊かな地域柄。
そういうベースの上に、しかも金が算出した
そういう経済はどのようになっていたのか、
「金売り吉次」っていう存在とは、なんだったのか?
こういうあたりをもう少し掘り下げたような歴史研究、知りたいと思っております。
本日は再び、歴史大好き篇ということで。

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2007年11月20日

秋田・久保田城

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秋田には、秋田城はない、って変なんですけれど、
秋田城っていうのは王朝国家、古代律令制国家が
蝦夷との侵略戦争の拠点として造営したもので、
陸奥の国の「多賀城」と並んで語られるべきものなんですね。
位置も、いわゆる秋田市の中心ではなく、むしろやや北方の土崎港の近く。
こちらは近年研究が進んで、発掘や築地塀、門などの再建がなされています。
今回、見に行ってみたかったのですが、
大量の取材原稿整理の山が襲ってきて、
ホテルで、それに取り組まざるを得ず、断念。
写真は、やむなく散歩で行けた「久保田城」なのです。
といっても、この建造物は隅櫓と呼ばれる建物です。
久保田城というのは、戦国が終結して
関ヶ原で日和見な立場を取っていて、徳川家とも緊張関係だった
常陸の「佐竹家」が、左遷されるかたちで入ってきて築いた城。
なので、徳川家に対してひたすら恭順の姿勢を表現せざるを得ず、
また経済的にも厳しかったため、
本丸建築や、石垣造営をしなかった城なんですね。
家が攻め滅ぼされずに領地を得ただけで
良しとせねばならない政治的立場だったのですね。
常陸から出羽・秋田ですから、温暖な地から寒冷な地域へ、
佐竹氏としては苦難の歴史ということになるのでしょう。
それ以前の領主は安東氏。
ちょうど入れ替わるように、常陸に国替えになっている。
まぁ、そういうような経緯での江戸期のスタートになったわけです。
なので、秋田ではイマイチ、城の話題がピンと来ない。
ただし、現在の秋田市はかれら佐竹氏が街割り設計をやって築いた街。
街の中心を流れる「旭川」は、北海道から持ってきた、ワケではなく(笑)、
低湿地だったのを土地改良するために掘り割って作った川なんですね。

こんなような政治的失敗から、
佐竹氏は外交に力を入れて、江戸や京都の情勢把握に努める藩風を作ってきた。
その結果、明治の動乱では早くから官軍側に付いた。
奥羽越列藩同盟には参画せず、薩長側に付いていたんですね。
明治の初年には維新政府は、東北の首府を秋田にしようかと検討していたのだそうです。

まことに東北各地の地域的違いは
こういう歴史的な経緯が色濃く反映しているのですね。
本日は歴史雑感ということで・・・。

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2007年11月14日

足利菩提寺・屋根上のシーサー

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長期出張が続きます。
きのうは群馬県太田市から栃木県と茨城県の県境まで移動して、取材。
で、若干の時間があったので、足利に寄り道。
歴史大好き男ではありますが、なかなか足利までは・・・でしたので、
今回念願が叶った次第。
とはいっても、同行したスタッフは「足利ってなんですか?」
という反応。「だから、足利将軍家の発祥の土地で・・・」
と説明しなければ、まったく知られていないことが判明しましたね。
まぁ、日本の歴史教育ってそんなものですね。
八幡太郎義家がこの地に家系を残したのが足利の由来。
隣地に分家したのが新田氏。
頼朝の一統が滅亡した後、「源氏嫡流」にもっとも近い、という理由で
関東武士団からの声望が高かったのが、足利だったのですね。
一貫して、得宗北条家と友好的な関係を築き、
反乱を起こす際にも、幕府の一番大きな軍団指揮権を任されるほどだった。
そのような北条家との関係は足利の地が
豊かな織物生産地だったことが大きいという説があります。
司馬さんの文章などに出てくるのですが、
ようするに日本の権力者同士での贈答・賄賂のいちばんのものは
一貫して織物などの布製品だった、という説なんですね。

まぁ、そういうことはまた別の機会にするとして、
なんと、高名な「足利学校」は火曜日定休で、見学不可。
え、おい、だったわけです。しょがないですね、なんで火曜定休なのか、
ふつうは月曜定休が一般的ですよねぇ・・・。
で、やむなく、足利の一族の旧邸宅地に建てられた菩提寺・鑁阿寺一帯を見学。
で寺の屋根の端を見ると、写真のように、どうみてもこれは、そう、シーサーがおりました。
って、????。
寺にも狛犬替わりのものがあるというのは、まぁよくありそうですが、
瓦屋根の上に可愛いポージングのシーサーとは、意外や意外。
どうなんでしょうか。シーサーは狛犬の変形でしょうから、
ありうるとは思うのですが、ここは関東北部。
さて、作り手の交流がここまで及んでいたのか、
謎が頭のなかで、猛烈な勢いで逆巻いてきましたね。
まるで、スフィンクスの謎かけのようで、でも
こんなかわいいシーサーの謎かけなので、なんか、こっちもニコニコ。
さてさて、どんな中世史ロマンが、この事実から見えてくるのでしょうか?
ちょっと、歴史探究のテーマになりそうで、楽しいですね。
読者のみなさんで、なにかこの件で情報をお持ちの方は
ぜひ教えていただけませんでしょうか? 楽しみにお待ちしております(笑)。ではでは。

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2007年10月21日

出羽国府

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きのうから酒田に来ています。
本日日曜日に今回出張の最後の取材があるので、
前日から入っているのですが、ものすごい天気が悪い。
さて、どうなのか、と思っていたら今朝はやや青空も見え始めています。

なぜ、早めに酒田に来たのかって、歴史好きの血が騒ぎまして、
「出羽国府」をこの目で見てみたい、というのがあるんですね。
東北はご存知のように、陸奥の国と、出羽の国という2地域があり、
それらを合わせて「奥羽」となります。
古代律令制国家は、蝦夷の地であったこの両地域を治めるために
政治と軍事の中心を定めているのですが、
一方の陸奥では、多賀城がそれに相当。しかし、
出羽の方では、諸説があって、「国府」所在地が確定していないのです。
ようやく近年になって、この酒田市東北方の遺跡・城輪柵が
どうも、出羽国府として確からしいと確定し始めているのです。
多賀城については有名な碑文が発見されたり、
その後背地としての松島や、「宮城野」が王朝文学に謳われたりして
資料の豊富なものになっていますが、
出羽国府は、そのようではない。
まぁ、一種、なぞのような存在なのですね。

行って参りましたが、周囲はひろやかな田園と住宅地が広がる場所。
まだ、遺跡としての整備もそれほど進んではいません。
酒田市の係の方に位置の確認で電話しても、その方も
上手に説明できないくらいなんです(笑)。
当然現地には管理するような施設なども置かれてはいないというのが現状。
「せっかく、出羽国府有力地なんだから、もっと整備されたらいいですよ」
などとお節介の言葉も出してしまった次第です。もったいない。
東側の門と、南大門、その周囲の築地塀が復元されている、というところ。
ただし、発掘作業の結果、
「一辺約720mの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115mの築地等で囲まれた政庁部分によって構成される総面積52万uの遺跡である。 外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式となっている。」〜以上、Wikkipediaより。
ということで、いわゆる律令制国家の政庁の基本様式をぴったり押さえた遺構。
越後、いわゆる「越の国」から、出羽の国への律令国家の進出の
経路として、この酒田・庄内地方というのは、
陸奥の国における宮城県に相当する位置だったと言えますね。
陸奥の国については関東からの陸路、というのも相当比重が高かったと推定されるのに、
出羽の国では、基本的に日本海の海の道が基本ルートのようですね。

ということで、酒田・庄内地方というのは、
律令制国家経済の基本、田んぼによる米作が大変豊かな地域だった。
きわめて古くから経済的に重要な位置を占めている地域なのです。
その後も北前船交易の重要な湊になり、
江戸期には12藩への大名貸しまで手を広げた大商家・本間家を生んだりしている。
現在は「山形県酒田市」ということになるのですが、
どうも、そういう意味では京文化や上方経済圏との結びつきの方が、
同じ山形県内内陸部よりも強い地域だと感じますね。

さて、読売さん、寝たまんまCSシリーズ終わってしまいました。(笑)
どうも、短期決戦の戦い方、全然用意できないで、経験不足がもろに出た感じ。
なんとも情けないような戦いだったですね。
パリーグの手に汗握る熱投に続いて、期待してみたのですが、
あまりの淡泊さに、拍子抜けするようでした。
プロなんだから、もうちょっと「気迫」みたいなものは見せられないの?
というところでしょうか。やはり、日本シリーズを昨年経験した中日には
「短期決戦的闘争心」という部分は感じられました。
今回はそういう差だった気がします。
しかし、準備の期間もあったわけで、なすすべがない、みたいな敗北は
ちょっと、やはりいただけません。少なくとも来年まではCS続くのですから、
読売さん、がんばって欲しいものだと思います。

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2007年10月07日

前九年・後三年の時代

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前九年・後三年戦争の時代って、
ここのところ、いろいろな書物を見て想像力を膨らませております。
で、読めば読むほど、平将門とか、その後の頼朝を盟主に据え、
やがて鎌倉幕府にいたる、関東の独立運動と比肩されるものだった印象が深まっています。
律令の体制が基本的には崩壊していくなかで、
大寺社や藤原氏などの私権勢力が全国に私有領地を拡大し、
地方では、土地争いなど剥き出しの利権争奪が常態化していたのですね。
そういうなかで、源氏の一統は「陸奥守」の官位を利用して、
なんとか奥州に利権構造を築きたい、という魂胆丸見えの動きをする。
いやはや、すさまじいものだと感じます。
この戦争の発端となった事件は、当時の東北地方北部を清原氏と2分して
実効支配していた安倍氏に対して、
剥き出しの私利私欲の戦争を仕掛けていったものといえます。
朝廷の側ではその時々の政治情勢に即して「正史」が書かれるので、
いちおう、大義名分に沿っての歴史記述になっていますが、
実態は、源氏の一統がなんとかして奥州の利権を我がものにしたいという
すさまじい権力闘争。
しかし、源氏という武家貴族は、結局現地の勢力によって利用されただけですね。
こうした戦争の結果、白河以北に藤原氏の独立政権が成立する。

このことが、関東の武士団に与えた影響は大きかったのだと思います。
「ああやればいいのか」というわけですね。
それ以降の展開は、日本史の本格的な開始、とも言える展開になるのですが、
東北日本の実効支配を確立した藤原政権って、
その後、ふたたび関東(鎌倉幕府軍)によって滅ぼされて植民地化されるまで、
100年間くらい、日本にあって日本ではないような、
独立政権として存在したのだろうと思うのです。

やはり、金の産出というのが、キーワードだったのだろうと思います。
戦争が起こるというのは、そこに人を狂わせるような利権が存在した証拠。
この金は、どのように生産され、その分量はどれほどだったのか、
そしてそれはどのような勢力が資金を出して発掘作業を行ったのか、
さらにそれはどのように流通していったのか?
租庸調というような公権力の収奪に、この金生産は対象になっていたのかどうか?
やがて、「金売り吉次」という存在が日本史に出現するけれど、
かれは藤原政権と、どのような関係であったのか、
謎は深い。

って、素人歴史好きの想像力は、制御不能な?マークで埋め尽くされております。
日本の仏像生産において、金・金箔の重要性はいうまでもなく、
その争奪は、権力者にとっての基本関心事であることは火を見るよりも明らか。
さてさて、いったい真実はどういうようなものだったのでしょうかね?


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2007年09月23日

交易による政治経済活動痕跡

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次兄から、膨大な資料を借り受けました。
かれは、ライフワークのようにしてわが家の家系の調査をしています。
北海道に渡ってきた人々にとって、そのルーツ探しっていうのは、
失われたなにか、を求めようとする心理の発露であって、
深く共感させられるものがあります。

そんななかで、わが家の家系探し資料の文書類を見ていて、
古代から中世にかけての、瀬戸内海を中心とする交易活動のありように
強い印象を受けてきています。
日本の歴史のなかで、基本的に2つの流れがあったと思います。
ひとつは農業生産力の向上をひたすらに追求する方向。
基本的には、土地所有にこだわり続ける「一所懸命」の方向。
そしてもうひとつは、平家の隆盛を支え、足利義満の経済的成功をもたらした、
「交易立国」としての方向性。
東西で分ければ、日本は常にこの2つの方向性のなかで、
揺り動きながら歴史を紡いできたと言えるでしょう。

どうも、ご先祖さんたちの様子の記録の背景に、
日本人の、この「交易活動」へのただならない執着を感じてなりません。
こうした交易活動は明瞭なかたちで残されたものは少なかったようですが、
近年、水没して幻の街といわれてきた
古代から中世にかけて存在した広島県福山市近郊の、
「草戸千軒」の遺跡発掘などで、
その経済活動のありようが、くっきりと明瞭になってきたといわれています。

<以下、http://www.mars.dti.ne.jp/〜suzuki-y/intro.htmlより>
「草戸千軒」の町は、海上交通・河川交通・陸上交通の交わる芦田川の河口近くにありました。そのため、芦田川下流域から福山湾岸にかけての地域経済の拠点として、さまざまな物資がこの町に持ち込まれ、取り引きされていました。また、漆塗りや鍛冶などの手工業生産に従事する職人も、この町を活動拠点にしていました。こうして、多くの物や人が集まる町には、お金も集まってきます。お金を貸して利子を取る、金融業に携わる人もいました。
 このように、草戸千軒の町は商工業の盛んな、にぎやかで活気あふれる町だったのです。

ひたすらにコメと土地を血みどろに争った側面ばかりではない、
こうした、広くアジア世界と繋がった交易による富の追求活動も
もっと、スポットを当てて行かなければならないのだと思います。
こうした経済活動が、政治的表現として、
日本の歴史で、平家の隆盛などを生んだ背景にあったのだろうと考えます。
どうも、わが家の家系はそういう世界で生きてきた感じが濃厚なんですね。
しかし、資料はけっこうな分量になるもので、
とりあえずは目を通してみたのですが、
詳細に見て行くには、相当の期間がかかりそうです。
でもまぁ、興味は尽きることなく広がっていきそうで、
ちょっと、コワいなぁ、とも思いますけれど・・・。

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2007年09月19日

家系調査ー2

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先日書いた、家系調査の資料が古本屋さんのネットから届きました。
このシステムも便利で、Wikipediaか、なにか、忘れましたが、
歴史的な言葉やフレーズで検索したページからの
張られたリンクが、この全国の古本屋さんのデータベースサーバーに繋がっているので、
居ながらにして、京都の古本屋さんに在庫されている文献にアクセス。
その場で申し込んで、郵送で送られてきたのです。
代金支払いも郵便振替でOKなので、たいへん気軽に利用できる。
こういうシステム、ほんの10年前くらいまでは、想像だにできなかった世界。

ということで、送られてきたのが写真の書籍。
兵庫県の県指定文化財になっているという
わが家の縁戚とおぼしき住宅の記録です。
まぁ、縁戚とはいっても、かなり時代的には隔たっているようで、
たぶん、秀吉による播州英賀城の落城時に、
そのまま播州に残った流れの家の記録。
わが家の直接の家系は、その時点で毛利圏の福山市近郊の今津という
ところまで逃れて、そこに居着いたという一統。
ですから、同じ一族ではあるのは確かですが、
お互いに認識があったかどうかも不明です。
わが家の直接の家系も、江戸期には庄屋だったそうなので、
大庄屋として、藩の行政組織の一翼を担っていたというこの縁戚とは
よく似たような家ではあったようなのです。

しかし、この家の詳細な調査は、まさに活写されるがごとき、です。
江戸期の「庄屋」というのは、いったいどのような存在であったのか
まざまざと伝わってくるような記録の迫力が圧倒的。
日本の民俗学の祖であった柳田国男氏が、
この家系の当主と昵懇の間柄で、この住宅の蔵書を読みふけったことが、
柳田さんの仕事のベースになった、ということ。
そういう意味では、誇らしく感じられるものもあります。

しかし、戦国から江戸にかけての経済のありようが、
実に明瞭な想像力をともなって実感できる記述に巡りあった思いがします。
この書籍から感じられたこと、
これから、徐々に、ご紹介していきたいと思います。

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2007年09月16日

家系調査のおもしろさ

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いやぁ、インターネットって、面白い使い方が出来ますね。
札幌はきのうは、あさから強い雨が終日降り続く一日でしたので、
出かけることなく、前から手がかりが増えてきていた
わが家の家系調査を試みてみました。
本当は、家計調査が必要かなぁ(笑)、
などと反省しながらも、いろいろと手がかりになっているフレーズで
検索をかけてみた次第です。

先日も、室蘭工大の鎌田教授から聞いたのですが、
最近の学生は、インターネットで公開されている情報を
適当に切ったり貼ったりしたものを
「論文」らしく提出する手合いが多いということでしたが、
そういう誘惑に駆られるのも、よくわかります。
とにかく、これだけ情報がインターネットに蓄積されてくると、
自分で独創的に考える、ということの意味があいまいになってくる。
いろいろなひとのもたらす情報が、誰でも活用できるようになる。
まぁ、もちろん、卒論で他人の考えを切ったり貼ったり、は論外ですが、
こういう自分の家系調査などには、まさにうってつけと思います。
真贋入り乱れている、というあたり、難しさもありますが、
昔だったら、とても知ることが出来ないような広さで、簡単に情報入手できる。
おおまかな流れとか、先人の事跡などは知り得ますね。

というようなことで、何となくたどりついたのが写真の城郭地図。
いまは、跡形もなくなっているお城なのだそうですが、
播州の交易「都市」を拠点にしていたのが、わが家の先祖の姿だったのかも知れない、
というようなロマンが見えて参りました。(笑)
まぁ、秀吉に鎧袖一触っていう感じでコテンパンに滅ぼされたそうなんですけど(笑)
その敗戦から、たぶん各地に散らばったというのが家系の事実に近そう。
というような情報に至った次第ですが、
さて、検証作業、当面は雲を掴むような話。
でもまぁ、ロマンが見えてくると、やる気も出てくる。
何冊か、文献資料のたぐいも情報が発掘できたので、
そのあたりから、着手してみようかな、と思っています。
こういう楽しみって、趣味として考えれば、結構面白い。
ちょっと、ハマリ過ぎないように注意しながら(笑)
がんばってみようかなと思っております。はてさて、どうなりますか?

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2007年08月31日

JR車内誌 トランヴェール

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わたしの密かな楽しみのひとつに
JR東北新幹線に乗って見ることができる車内誌 トランヴェールの講読があります。
このフリーペーパーは通巻で234号にもなる月刊誌。
で、表紙のようなものなんですが、
ごらんいただけるように、東北ゆかりの歴史物特集が組まれています。
今回はなんと、歴史好きにはたまらない、
東北の謎に満ちた豪族・安倍氏、清原氏の興亡を描いたもの。
これまでも東北に由来する歴的事跡を紹介する特集が頻繁に組まれています。
従来型の販売型メディアでは、歴史マガジンなどでも
どうしても日本全域を対象にすると、全体バランスに配慮して、
あるいは「買ってくれる」読者の興味におもねってしまって、
中央政府周辺の事跡をなぞるような特集テーマになってしまうことが多い。
歴史マガジンの宿命というか、
たぶん、販売から営業、などの状況を全体として会議などすれば、
どうしても無難な特集テーマを選んでしまうのは理解できる。
結果として、ほぼ毎回のように、戦国ものや、
義経を中心とする時代、幕末、というような
たくさん歴史上のスターが登場するテーマと時期が多くなってしまう。
だから、わたしのような読者からすると、
パラパラと立ち読みしても、「あぁ、またこんなことでお茶を濁している」と
思ってしまう。極端に言うと、これまでの号から手を変えて
焼き直したのではないかと、疑われるような内容が展開している。
だいたいが、どこかで読んだような内容が羅列されているケースが多いので、
そのうち、立ち読みもしなくなってくる。

そういう歴史雑誌の現状のなかで、
このフリーペーパーの特集の内容の厚みにはいつも感嘆しています。
なにより、地域に密着してテーマを選定し、
考証や監修なども、たとえば東北歴史資料館の館長さんとか、
東北域内の大学の先生など、地元の歴史発掘家のみなさんが
深い造詣を語ったり、アドバイスを送ってくれている。
どうも、歴史関係でも、全国一律の画一性、ということには
未来展望が見えなくなってきているのではないでしょうか。
その分、販売と言うことを考えれば狭い範囲になるわけですが、
このフリーペーパー「JR車内誌 トランヴェール」というようなメディアであれば、
いま、挙げたような状況を突破する可能性が広がってくる。
中央の知的欲求とは全然違う欲求に対して、
特集を打つ必然性もあり、それがやれる条件がほとんど揃っている。
読者の側は、きっとそういう諸条件などもきっと見越していると思う。
メディアに携わるものとして、留意しなければならないポイントだなぁと思っています。

で、昨日忙しいのと、疲れ切っているために
まだ、読みかけなので、じっくり読んでみようと持ち帰ってきた次第なんです。
あ、ちゃんと、「ご自由にお持ち帰りください」と銘打たれているので、
決して、ネコババ行為ではありません(笑)。誤解のないように(笑)。

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2007年08月20日

東大寺・金剛力士立像

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木造金剛力士立像(国宝)-高さ8.4メートルの巨大な木像。
門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。
これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。
1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、
像内からは多数の納入品や墨書が発見された。
それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、
吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。
これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする
従来の通説とは若干異なっているが、いずれにしても、
運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ないであろう。
<以上、Wikipediaより>

大仏のすごさは、実際に行ってみればわかりやすいけれど、
同時に南大門で出迎えてくれる金剛力士像にも圧倒される。
奈良の時代って、なぜ、こういう「巨大さ」にこだわっていたのだろうか?
「阿吽」の形相で、8mを超す巨大さでひとを圧倒するリアリズム木像は
時代精神を表現していたのだろう。
ローマ時代の彫刻のように真に迫った姿はひとを圧倒する。
全国に配置された「国分寺」の総元締めとして、
宗教権威によって国を統一していこうという、日本国家権力の意志を
明確に表しているものでもありますね。
こうした時期の仏教は、今日の葬式仏教とは全然違う、
絶対の法典として、国家を律する戒律という側面が非常に強い。
それだけ、要するに権力というものを民衆に理解させる必要があったとも言える。
なぜ、国家のいうことを聞かねばならないか、
強制力の源泉をわかりやすく民衆に見せるという、必要があったということなのでしょうね。

同時代に中国に成立した随や、唐といった
スーパーパワー「中華」国家に対して、「小華」としての日本国家を
この国の支配層は、強迫観念のように願ったのだと思う。
もし、こういうように「国家」を成立させなければ、
「中華」世界に飲み込まれる恐怖感も、相当に強かったのではないか。
古代世界の政治的・軍事的パワーの緊張感を、感じる由縁です。
そういう意味で、げに恐ろしき、という印象を抱かせられる
リアリズムそのものの力強さを感じる2体の像だと思います。

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2007年08月19日

御旅所について

6977.jpg


昨日書いた記事について、すこし調べまして、
御旅所(おたびしょ)という施設について、以下の記述を発見いたしました。
Wikipediaからの転載です。

御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)において
神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、
或いは巡幸の目的地をさす。
巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。
御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。
元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、
元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。

という施設なのですね。
不勉強で、こういうことを知らなかったものですから、
というか、北海道ではほとんどこういう祭りに対する伝統とかが希薄なことから
自分自身も知らずにいた次第です。
その点、記述におかしな点があったと思います。申し訳ありませんでした。
ただ、北海道神宮の場合、こういう施設のことを「屯宮」と呼んでいると記憶しています。
で、これも調べてみましたが、こんな記述を発見しました。
http://www16.plala.or.jp/gallery-tsugita/sub9.html より
屯宮というのは「とんぐう」と読み、仮のお宮のことで、札幌に旧くから鎮座する札幌神社、昭和39年に明治天皇を増祀して北海道神宮となった神社の仮の宮のことで本宮からは、二キロ以上も東に鎮座する小さな神社です。

ところ変われば名前も変わると言うことなのでしょうね。
基本的には同じような機能の施設と言うことは出来るのでしょう。
そういう施設なので、簡易な賽銭箱なども常置され、
機能としては、日常は賽銭回収用の施設として活用されているのでしょうね。
って、どうしてもこの点はこだわってしまいます(笑)。

となると、あとは安置されていた木座像の正体が気になります。
これはやはり、神社に聞くくらいしか、ないでしょうね。ふむふむ、困った。
でも、こういう疑問って、なにやら楽しいです。
日本の宗教施設の成り立ちや、存続の経緯などを知ることにもなります。
ということなのですが、
どうも考えてみると、写真に撮った木座像の社自体が、どこの神社の御旅所なのかも不明なんですね。
まず、そのへんから再度調査・取材が必要のようです。
なんか、今回の京都旅行、
結局は、謎かけの旅になってしまったかも知れません(笑)。
明日からは、夏休みモードも終わりです、さて、がんばるぞ、ということで。

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2007年08月16日

清水寺・アテルイ墓碑

6970.jpg


清水寺は京都の観光スポットでもナンバーワンの人気とか。
やはり、日本語の定型句にまでなった「清水の舞台」という
空間体験の印象深さの強烈さを表現していると思います。
京都市街から息も絶え絶えになるような坂道を登り切って、
その末に、カタルシスのように得られる眺望。
「視線の高さ」というものが、人工的なかたちで造り上げられる
1000年以上前の木造最高水準の技術で達成されたものなのですね。
自然環境を活かし、同時に技術を活かしきって、
こういう空間体験を提供した古の人々の想像力に敬服します。

この清水寺は平安時代初期、武人として位を極めた
坂上田村麻呂の創建と伝えられています。
桓武という帝は、たいへん武断的・専制的な君主たらんとした天皇だそうで、
即位儀礼では中国皇帝と同じように生け贄を斬ったそうですね。
かれの治下において、坂上田村麻呂による「蝦夷征伐」があったのです。
日本の王権は、最初、連合的な成り立ちから始まって、
徐々に天皇家による中央集権化が図られてきたのだと思いますが、
そういう古代的中央集権がきわまったような武権が桓武帝だったのだと思います。

そして、その「膨張的武権」の発露の対象として、
「まつろわぬ民」蝦夷が攻撃対象とされたのだと思います。
その最高司令官になった田村麻呂に降伏したのが、東北の首魁・アテルイ。
たぶん、お互いに戦い合ったもの同士が通じ合う信頼関係で
かれ、アテルイは京都にまでやってきたのだと思います。
しかし、京都の政治権力は、自ら降伏したアテルイを
処刑するという暴挙を行った。
そのことを深くこころに恥じたに違いない田村麻呂は、
自らの建立になる清水寺の一角に、菩提の碑を建てたのだろうと言われているのが、
写真の石碑なんですね。
清水寺は何度か、訪れていましたが、こういう歴史的事実を踏まえて
この石碑を初めて発見したワケ。
本日はちょうど、お盆のさなか。
まつろわぬ蝦夷の首魁にたいして、仏教的弔いは似合わないかも知れないけれど、
写真を見て、こんな思いをふと抱いた次第です。

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2007年08月11日

親子旅、目的達成

6967.jpg


さてさて、寄り道ばっかりの夏休み親子旅、
「奈良の大仏を見に行く」という単純な目的をついに達成です。(笑)
高校の修学旅行以来ですから、もう40年ぶりの再訪と言うことですが、
でかい、のひとことですね。
この仏像は全国の国分寺の親元として国家安寧を祈願して作られたモノ。
日本を「鎮護国家」とする目的を持って作られたモノですから、全くの初期に属するもの。
それなのに、いきなり超巨大化させるという発想に至ったのですね。
なぜなんでしょうね。
そうした思惑とは別に、この建立には多大な国費の浪費が必要であり、
潤い、栄えたのは貴族と寺院勢力という状況をもたらしたのです。
発願者、聖武天皇の死去後、乱を起こした橘奈良麻呂の反乱理由が
「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」
と自白したと言うこと。
昔から、公共事業というのは、始める理念目的はいいけれど、
途中からは、それ自体が利権そのものになっただろうことは
どうも容易に想像できます。
また、写真では大仏の後光に金箔が施されていますが、
この金は当時盛んに産出が開始された奥州のものだったものと推定できます。
この時期と、期を同じくして奥州北部地方への日本国家による侵略戦争が
活発化していくのですが、
いわばそういう利権争奪、というような事情も想像ができます。

というような雑念が沸き起こってくるワケですが、
まぁ、単純に、なんとまぁ巨大であることか。
このあとの日本歴史は、戦国期まで建築の巨大化方向には行かない、
ということになります。
よっぽど、反省すべきようなことが多く発生したのではないかと思いますね。


きのうのブログに、「ひこぼー」さんから
いろいろコメントをいただきました。
「けもの落とし」というのは初耳の表現。竹虎落=たけもがり、ではないか、
というような投稿だったのですが、
竹垣の一種のデザイン手法ではあるのでしょうが、
あまり他の地方では見られないのではないかと思います。
目的も、壁下部の汚れ防止ではないか、とのご意見。
わたしも調べておりまして、まだ明確にはなっていません。
引き続き、調査活動を続けたいと思います。
こういうの、楽しいものですね。(笑)


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2007年07月19日

クマの毛皮

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さて、小樽の番屋、青山家漁家の主家スペースです。
青山さんというのは、山形県の旧本家もこのブログで紹介したわけですが、
この漁家がいわば本拠地だったのですね。
そしてさらに、青山さんは小樽の水族館の近くに「別邸」も建築として残しています。
都合、3軒の宏壮な建物を残してきたのですね。
すごい巨万の財をなしたということがわかります。
なかでも、可愛い娘さんのために立てたと言われる「別邸」などは、
建築当時、東京都心に建てられた百貨店の工事金額と
同じだけの金額を投じたという、贅を尽くしたモノでした。
客室の天井には、なんと、屋久杉を使っているという、
まぁ、こだわりというか、すごい建築です。
運んでくるだけでもたいへんな労力が掛かっています。
一度解体しての再建当時、見に行って、
なにげにショップに立ち寄ったら、創建当時の瓦を販売していました。
富山県で焼かれた立派な瓦で、全部に製造者の刻印がありました。
それが1枚、500円程度で売られていたので、つい購入。
カミさんから「いったいなんに使うのさ」とヒンシュクを買ってしまったものです(笑)。

で、まぁ、すごい大成功ぶりだったのですね。
山形の「青山家本家」に、青山さんの写真があって、
その写真では、真っ黒い外套を着込んでいる姿が映っていました。
ナンカ、ものすごい大成功者、という雰囲気を漂わせていました。
そのときは気づかなかったのですが、
この漁家でごらんのようなクマの毛皮2品を発見。
その写真で着込んでいたのは、クマの毛皮だったのです。
いまでこそ、動物愛護の観点から毛皮って流行らなくなってきていますが、
実用で考えたら、こういう毛皮が一番、確かに暖かそうですね。
それと、こういう敷物は、ほぅ、さすがは北海の漁業王、と
うならせるような豪放さを感じさせてくれます。
ちょっとクマさん、かわいそう。


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2007年07月16日

立って半畳、寝て1畳

6929.jpg

さて、きのうの番屋の続編です。
写真は出稼ぎ労働者のヤン衆の寝床と食卓。
わたし、結構、このヤン衆のための空間が好きです。
見学に来られる方たちは、よく「タコ部屋みたい」という感想を述べられるのですが、
右側写真の「寝所」だけをみればそうかもしれません。
しかし、この畳分だけ、人数がびっしりそろえば確かにすし詰めですが、
いつもそうとは限らなかっただろうし、
第一、この究極的な寸法感覚がいいと思うのです。
日本の建築の規格である、畳の広さというのが、
たいへん合理的な寸法であるということを、教えてくれる気がするのです。
ヤン衆のひとたちは、行李(竹や柳で網かご状に組んだ物入れ)ひとつに
身の回り品を入れて担いでこの番屋に来て、
写真右の窓下側にある収納部分に行李を入れて、
支給された布団や寝具に身を横たえて休んだ。
「頭寒足熱」的な建築的な配置になっているので、健康にもよさげです。
朝になったら、外にある厠で用を済ませたあと、洗面し、
寝所スペースと、通路土間の反対側の大きな板敷きの囲炉裏付きの広間で、
ごらんのような据え膳で、腹一杯、米の飯と食事を楽しんだ。
動物性の栄養は目の前で取れた新鮮なさかなを、
串焼きなどで遠赤外線的にあぶって、おいしく食べられた。
食事の給仕は、飯炊き女たちがこまめに用足ししてくれた。
大人数の食事を大量に料理するわけで、一般的にはおいしく料理できます。
東横インの朝食よりは(笑)、はるかに豊かな食卓風景。
そういう日常的なことに想像力を働かせてみると、
農家の2男、3男にとって、こういう暮らしは、働いても自分の身になるわけでもない、
やがては家を出て行くことを宿命づけられていただろう、自家での労働の日々よりは、
かなり魅力的だったのではないか?
なにより、現金の収入も得られたのも大きいと思う。
場合によっては、飯炊きの娘とのロマンスのようなことだって、
夢見ることが出来たかも知れない(笑)。

さて、寝所スペースですが、
本当に「立って半畳、寝て1畳」とは、良く表現したものと思います。
布団を敷いて、ぴったり1畳で、用が足りるギリギリが
「個人用スペース」なんですね。
しかし、この番屋での暮らしの場合は、そのほかに
生存のためのくつろぎの食事スペースも開放的に用意されていたのです。
そういう意味で、確かにプライバシーは究極的にないわけですが、
案外、居心地という意味では、いい環境とも言えるのです。
みなさん、どう感じられますか?

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2007年07月12日

旧開拓使札幌本庁舎

6925.jpg

「北海道開拓の村」建築探訪シリーズです。

最近の発掘研究によると、札幌という場所は、
縄文の時代からひとびとにとって住みやすい環境だったそうですね。
開拓と開発が優先してきたので、
建築の時に基礎部分を掘って、たとえ、考古学的な遺物が発見できても、
そのまま埋め戻していろいろな建物を建ててきたのが常だったのだとか。
実際には、先人たちの豊かな生活痕跡が発掘される地域なんです。
縄文の頃には、いまよりも平均気温が高く、
いまの8度程度が、12度くらいだったということ。
現在の平均気温で言えば、仙台くらいの場所に相当します。
そのうえ、水利の便がよく、農耕痕跡も発見されるほど、
定住性も高かったそうですね。
水利は、遠く北方アジア世界、本州以南地域との交流にも繋がっていた。
このあたり、もっと調べてみたい欲求が募ってきます。

そんな「文字を持たない豊かな生活文化」の地域に、
明治政府の強い意志としての北海道開拓は行われたのですね。
なぜ、札幌の場所を明治の首府に選定したのか、
やはり、さまざまな条件が一番似合ったのでしょうが、
先人たちの経験値、ということが大きい部分を占めていたことに相違ないと思います。
現在残されている、明治期の歴史は
いきなり、明治がスタートの記述になっていますが、
土地の古老の言葉を取材するとかのかたちで、
こういうものが、判断の基礎部分を構成しただろうと容易に推測できます。

そういう開拓の意志を明確に示したのが、この建物。
アメリカ北東部の建築スタイルを持ち込んできたデザイン。
それまでの日本の城郭建築的な「政庁」とはまったく違う。
最上部のドームのような部分は、実に特徴的。
国会議事堂とか、権力の中心、的な印象を持つデザインですね。
開口部周りも、入念にデザインされています。
坂の上の雲を追うように、欧米をキャッチアップしようとした、
明治以来の日本の国家意志そのものを具体的に見せてくれています。

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2007年06月29日

平安初期の土木工事

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よく「築地塀」という呼び名で残ってきている建築の部分がありますね。
あれって、どのように造作するのか、と疑問に思っておりました。
で、以前に「胆沢城」の発掘現場に建設された歴史資料館で、
ごらんのような模型に出くわした次第。
とはいっても、寸法は半分ですから、縮小版なんですが、
人物の身長など、バランスは考えられているので、
非常にわかりやすい。
築地というのは、そのものズバリで、土を築き固めて作る土壁。
この模型は志波城跡に残された痕跡から工事手法を復元したのだそうです。
京都の御所とか、多賀城など、律令制国家の政庁機能には
この築地塀が欠かせなかったようです。
ほぼまっすぐに規格的に内と外を遮断するこういう壁は、
わかりやすく「律と令」に基づく国家規範を表していたのかも知れませんね。
まつろわぬひとびとにとっては、抗いがたい権力意志を感じたことでしょう。
建築の発展は、こういう権力の意志明示というのが
大きな動機になるでしょう。

築地の下幅は240cm。想定される高さは390cm。
工夫〜こうふ〜の身長は150cmを想定していると言うこと。
建築の材料や工法が未成熟な時代、
こういう建築物がいかに巨大さを示威するものか、迫ってくる。
胆沢城の場合、築地の総土量は41,067立米、
延べ16,000人以上の人手が必要だったとされている。
東北北部地域に対する征服戦争に、いかに注力してきたのか、
ひしひしと身に迫ってくる感じがいたしました次第です。

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2007年06月11日

歴史好き_2

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歴史って、どうして好きになるのか?
そんなこと誰に聞いても、ひとそれぞれ、違うんじゃないかと思っていましたが、
どうなんでしょうかね?
またまた、息子からの質問です。
「とーちゃん、歴史の中でいちばん好きな人って、だれ?」
っていうヤツが、飛んでまいりました。
そんなこと考えたのは、ずっと昔なんで、しばし、沈黙。
とっさには、出てきませんね。ただ、
「・・・好きな人物かぁ? そういえば、はじめの頃、そんな気持ちあったよなぁ・・・」
という、感慨を抱きました。
歴史を好きになるのに、こういう感情って、けっこう大きな部分かな、と。
「そういわれてみれば、とーちゃんは、家康かな・・」
「へ〜え、なんでさ?」
「うん、そうだなぁ、さっそうとはしていないんだけれど・・・」
という前振りで、三方原の戦い前後のことを話しました。
歴史って、勝ったものの立場で書かれているものですが、
三方原って、どう考えても完膚無きまでの大惨敗。
でも家康は、この失敗を教訓にして、その後の道を切り開いたというポイント。
失敗から成功を掴んでいったという成長の部分が好きなんですね。
とくに、この惨敗確実な戦争に、覚悟を決めて出かけていった
その将としての姿勢を見た多くの武田の将兵が、その後の武田崩壊後、
頼るべき主君として家康を選んだ、というポイントが面白い。
その後の関東経営の成功は、
信玄によって涵養された、この武田遺臣団の力が大きかったと思うのです。

歴史の教科書的には、
こういうような部分は、あまり触れる機会はないでしょうが、
単なる事実を丸暗記するような姿勢では、歴史好きにはならないと思います。
「どうしてこうなったんだろう」
というような探求心・好奇心が、好きになるツボなのではないか?
「いちばん好きな人物」っていうのは、
「このひと、一体どういう人だったんだろう?」という好奇心が出発。
その意味で、坊主の素朴な質問って、
なかなか、こちらに考えさせてくれる、ツボを刺激します。

というようなうれしい会話シリーズ、続きそうです(笑)。
写真は、あるパンフレットに掲載されていた
古代ヤマト政権の蝦夷攻撃最前線・胆沢城での
懐柔した蝦夷への供応準備のときの、厨(台所)の様子。
もちろん、想像ですが、料理人、調理スペース、かまどの多さ、
さらに、給仕する女性たちの様子など、
実に想像力豊かに伝わってくるイラストでした。

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2007年06月03日

礎石の技術

6882.jpg

写真は先日来触れている南北朝期に建てられた奥の正法寺の
外部石階段と門の礎石部分をクローズアップしたもの。
今回の修復工事で、この部分も手が加えられたのかどうか、未明です。
しかし、基本的なやりかたとか、
残されてきた技術については基本的にそれを活かしていると思われます。
いつもこうした建物を見るとき、
土台として据えられる横架材を支える石積みの部分に興味を持ちます。
日本では大型の公共的性格を持った遺構建築も木造が多い。
海外の例はつまびらかには知りませんが、
概ね、組石造の建築が多いと思います。
なによりも長い時間の風化に耐える素材として、石が利用された。
それに対して、日本ではむしろ、石の建築ってごくわずか。
しかし、そういう伝統の中でも、縁の下で、
炭素年代を耐え抜く石積みの技術が残ってきたのだと思います。
城郭建築に残っている石垣の石の組み合わせ技術など
読んでみていると、興味深いものがあります。

ただ、わたしの場合はそういう技術のことよりも、
こういう作業を地道に支えていた丹念な仕事ぶりに感嘆してしまいます。
左側の写真では、太い柱の礎石と礎石を結ぶように、
上面が平滑になるように作業された石が連続されています。
長い年月の風雪に耐えるには、こういう部分も凸凹があってはならないのでしょう。
土台から上の重量物の大型門建築を支えるために、
丹念な手仕事があったと思われます。
右手写真の階段も、敷地地盤面の状況を良く把握して、
長期的な使用と、地盤面条件の変化などを見込んだ基礎構造が
検討されていると感じられます。
こういう古の、技術と、それを成し遂げる職人仕事に、
深い感慨を抱くものです。

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2007年06月02日

歴史好き

6880.jpg

最近、学校で日本史をやっているせいなのか
坊主がいろいろと質問してきます。
「ねぇ、とうちゃん、清盛と頼朝はどっちが味方の人、多かったの?」
「・・・?」
というような会話から始まって、
わたしの話を興味深そうに聞きまくります。
「おれ、信長って、いちばん格好いいな、って思うんだけど・・・」
「そうだよな、とうちゃんもそうだったなぁ・・・」
「江戸時代って、いちばん平和な時代だったんでしょ?」
「やっぱり戦国時代がいちばん面白いよね」
などなど、尽きることのない話題で親子で盛り上がっています。

父親として、いろいろな質問に答えるのは
とても楽しいのだけれど、さて、
教科書ではどういうように書かれていて、
テストではどのように答えたら正解にしてくれるのか、みたいな
欲得がらみの、邪な思い(笑)もつい沸き起こってきてしまいます。
「教科書では、どういうように書いているか、わからないけれど・・・」
という枕詞を置きながら、
自分が思っていることをそのまま、しゃべっています。
「父ちゃんの考えだから、テストではどう書いたらいいかは別だぞ」
「うん、わかっているよ」
っていうことだそうで、最近のガキはなかなか、したたか。
わたしは、歴史についてはどうも適当にお茶を濁す話はできないのですね。
でも、やっぱり血は争えないのでしょうか、
ずいぶんと興味津々に話を聞くだけでなく、
質問をどんどんとぶつけてきます。
「へぇ〜、こいつ、歴史好きだね、こりゃぁ・・・」と感じます。
なんか、うれしい思いがわき上がりますね。
子どもと、自分がいちばん好きなことで話が出来るって、
考えてみたら、こんな幸せなことは、そうないかも知れません。
というようなことで、小さな幸せに浸っている昨今です。

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2007年06月01日

ぎょっとする川の名前

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先日の水沢講演の折りに歴史の同好の士、
阿部様から教えていただいた、「人首川」に行ってみた時の写真です。
「人首」と書いて、「ひとかべ」と読むのだそうです。
現在の奥州市江刺区の中央を流れている川、ということ。
この案内板は、川の畔に置かれていたものです。
文中の、「阿弖流爲」とあるのは、以前に触れたことがある
坂上田村麻呂と戦った、蝦夷の首長、アテルイのことです。
この案内板には、アテルイに弟があり、その子ども「人首丸」が抵抗を続けたあと、
この地で討たれた、と記述されています。
日本の歴史はヤマト朝廷による侵略戦争に彩られた部分があると思うのですが、
そのなかでも、もっとも無慈悲に殺されたのが、
東北古代の蝦夷・アテルイとその勢力だったのだと思います。
そして、ちょうど中国で自分たちだけが「中華」であって、
それ以外の民族や勢力は、すべてとんでもない
差別に満ちた漢字を当てる呼び名で蔑称したのと同様に
アテルイとその勢力に対して、こういう当て字を当てて蔑んだのですね。

律令の体制整備が行われる段階になり、国家機関の文書などに導入されて、
初めて「漢字」が、ヤマト朝廷権力でも一般的に使用されるようになった時期。
そうであるのに、漢字文化を持たない人々に対して、
こういう差別蔑称を与えてきたのが、事実なのです。
しかし、それにしてもすごい名前を与え、しかも川の名前としても
残ったものですね。
このあたり、この地に生きた人々が実は「人首丸」とされた人物に対して、
それだけ、尊崇の念を持っていたと言うことを表しているのかも知れません。
他の「まつろわぬ」人々に対して自らの権力の正統性を
暴力的に押しつけ続けてきた輸入中華文明思想・ヤマト政権から
とんでもない蔑称を受けながらも
あえて感受して河川名として遺し続けてきたのでしょうか?

まぁ、そういった歴史ロマンを一陣の風のように
感じさせてくれた河川名だと思った次第です。

さて、昨日のブログで触れた「仙台市荒井市営住宅」について、
読者の岡田さんから情報を寄せていただきました。
それによると、設計者は阿部仁史さんということでした。
阿部仁史さんは東北大学の建築の教授として活躍され、
現在はアメリカUCLAで、建築を教えられているということ。
知らずにブログで取り上げた次第ですが、そうだったのか、と覚醒の思いです。
情報をお寄せいただいた岡田さんに感謝します。

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2007年05月29日

山門の石段

6876.jpg

こういうタイプの美しさというのはなんと表現すべきなんでしょうか?

ご覧いただいた写真は、先日の正法寺の「惣門」の様子です。
禅寺の結界入り口を建築的に表現しているわけです。
踏み石の高さはけっこうありまして、
登るのに子どもなどでは足の跨ぎ高さを超えるのではないか、というほど。
かなりきつい勾配もあって、まさに俗世との隔絶を意識させます。
というか、ここに至るまでの道のりも、
いまでこそ、自動車の道路がありましたから、街から15分くらいなのですが、
途中はなだらかながら、登り勾配の山道が続きます。
昔であれば、相当の歩き時間が掛かっただろうと推測できます。
その道中を抜けてきて、この門にたどりつくのですね。

このお寺の本堂のすばらしい茅葺き屋根の美しさは、
ここからはまだ、はっきりとは見ることはできません。
木立越しに見え隠れする、というような次第に期待が高まるという場面。
この山門を通り抜けて初めて、
視界一杯に、カタルシスのように素晴らしい本堂建築が人々を迎えるのです。
そういう意味では、ここではあえて視線を遮るように高低差が
建築的に仕掛けられている、とも言えると思います。
そのような意味合いを持っている山門の建築装置なのですが、
この独特の、石段と門が織りなす視覚的ハーモニーも格別。
自然石の荒々しさが、ここから始まる精神世界を暗示させるのでしょうね。

歴史的に言えば、古代の律令制国家が破綻して、
自主独立的な開拓農場主の立場に基盤をもつ関東武家政権が成立し、
そういう武家が好んで信仰を寄せたのが、禅宗。
こういう山門のデザインも、そういう時代精神を表現しているのでしょう。
なにごとかに、正面から立ち向かい、自力での乗りこえを目指すような
そういう精神性を感じさせてくれると思います。
はるかに時間を超えて、遺された建築が、
見るものに伝えてくれるものなのだと思います。
やはり建築の力というのは、ある、と思える瞬間ですね。

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2007年05月25日

奥の正法寺

6871.jpg

昨日は奥州市水沢で東北電力さん主催の講演会。
約2時間の長い時間でしたが、ちょっと用意した写真データなど
多すぎたかなぁ、という大急ぎの顛末でした。
で、終了後、ねぎらいのご配慮なのか、
水沢営業所・阿部所長さまから、
「茅葺き屋根日本一のお寺があるので、見に行きませんか?」
という何ともありがたいお誘い。
たいへん歴史へのご興味に満ちたお話を楽しく車中、伺いながら、
市街地から約15分ほど、山道をドライブして
到着したのが、ごらんのような偉容の大伽藍寺院。
正法寺、というのは永平寺、総持寺と並ぶ曹洞宗の本山寺院ということ。
創建は南北朝期で、奥羽2州の武家の尊崇を集めた大寺院です。
ことし、屋根の葺き替え工事が完成して、
一般に公開が始められています。

いやぁ、さすがに「日本一の茅葺き屋根」といわれるだけあって、
ものすごい迫力です。
本堂伽藍自体、たいへんな広大さの面積、高さを誇っていますが、
その大建築を覆い尽くす圧倒的な茅葺きの重量感が迫ってくる。
市街地から遠く離れた山中に、忽然とこの大屋根が現れる様は、圧巻。
周囲は深い緑に抱かれていて、
武家の尊崇を集めるにふさわしいたたずまいを見せておりました。

たいへんな目の保養をさせていただいてありがたく、
ふと見ると、茅葺き屋根補修への浄財賽銭箱を発見。
わずかな感謝の気持ちを差し上げましたが、
なんと、そのお礼と言うことで、
立派な木札がいただけました。
この木札も、工事中に出た杉の古木から作られたものと言うことで、
これも香しい、ありがたいものでした。
けっして、この木札が欲しくてお布施したのではありません(笑)。
ですが、なんともありがたい気持ちに満たされた次第です。
きちんとわが家で大切にしたいと思います。

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2007年05月14日

戦争の記述

6853.jpg

戦争の記述って、あんまり興味はなかったのですが、
東アジアの近代の歴史を俯瞰するうちに、
日清日露の戦争の記録をあちこちとネットで検索してしまいました。
近代の歴史って、あんまりロマンを感じない、
むしろ、今のナマな権力に繋がってくるニオイがプンプンして、
ちょっと辟易してしまう部分があるんですよね、本当は。
主に、Wikipediaで見ていたのですが、
やはりネットがこれからは情報収集の基本になるでしょうね。
非常に手軽に、いろいろな情報に接することが出来る。
さまざまな事実が豊富にかいま見えるので、こういうのは確かに便利です。

明白な国家間の剥き出しの利権争奪が、これらの時代の基調トーンですね。
司馬遼太郎さんが書いた、坂の上の雲を追った時代。
明白な欧米キャッチアップのために、
北東アジアで、帝国主義戦争の渦中に飲み込まれていく時代。
日本海海戦などで、奇跡のような快勝を納めてしまったことが、
かえって、日本を後戻りできない窮地に至らせてしまう歴史のパラドックス。
読み進むうちに、書かれていることの主観の位置などで、
はたしてこれはWikipediaに、ふさわしい内容なのか、疑問が膨らみました。
インターネットの世界で書かれていることは、
バイアスが掛かっていないように思われていますが、
こういう記載は、やはり相当に愛国的というか、
戦争翼賛のトーンに満ちていると思います。
戦争の事実関係が、書き連ねられているけれど、
基本的には、「わが国」の立場を肯定的に描いている部分が強いと思います。

印刷物や、リアルメディアについては
著者の責任とか、出版元の姿勢などが明記されていると思いますが、
こういうWikipediaなどの場合、そういうジャーナリズム精神は感じない。
でも、こういう無料の百科辞典的なものはそのままに受け入れる場合も多い。
どうもいろいろ考えさせられる内容が大手を振っているな、というのが実感。
情緒的「嫌中」なども散見される傾向の中に、
こういうインターネットの現状ってのも、相当に預かっていると感じます。
みなさん、どう考えられるでしょうかね。
<写真は本文と無関係>

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2007年05月12日

昔の社会のニュースを考える

6799.jpg

写真は鎌倉期に成立したと言われる
「男衾三郎絵詞」(東京博物館所蔵)に描かれた一場面。
日本史について、独特の史観で知られる網野善彦さんの著作でも触れられているもの。
この絵詞、という形式は巻物の長大な横長スペースを
ストーリー展開に合わせて、絵や文章でわかりやすく伝えています。

で、これは、鎌倉期に関東の武士の一団が、
京都御所警護の大番役を命じられて、上京する途中、
遠江、というから、静岡から愛知県のあたりで、
山賊に出会ったときの様子をニュースとして記録したくだり。
山賊の中に、金髪・異形の人物がいた、という部分なのです。
テレビもラジオも新聞もない時代、
もっといえば、情報社会という今日の基本条件のない時代、
こういうニュースは、たぶん、街道を往来したり、湊湊で宿泊する人々の会話、
というような「うわさ話」として、まず伝播したのだと思います。
その後、そうした人々の感じ入る部分などをある程度、誇張させて、
面白おかしく、あるいは感動的に、説話譚になっていくか、したのでしょう。
江戸期、元禄の世を揺るがせた赤穂浪士の討ち入りなどは、
こういうネットワークで盛り上がり、
その後、時代背景を室町に置き換えて舞台芸術という手段で
わかりやすいストーリー展開に仕上げて、
多くの民衆に、ニュースとも芸能とも未分明な表現として
提供されていったものと思われます。

で、この写真の部分からは、
いくつかの情景や興味が浮かび上がってきます。
なぜ、鎌倉の時代のこの地に、金髪異形の人物が存在したのか。
彼はどのような運命で、山賊の一味に加わったのか?
彼を雇っていた(?)組織とは、どのようなものだったのか?
こういう人物を雇用するに足るだけの経済力はなにに源泉するのか?
京都御所警護の大番役というのは、それほど
金目のものを大量に保持していたから、狙われたのか?
逆に、そういう金目の一団の通過は、どのように情報キャッチしたのか?
こういう事件は、そもそも日常茶飯であったのか?
絵詞として成立して、このようにわかりやすいイラスト表現が
こんにちに遺されているのだけれど、
こういう絵師や文士は、誰が雇い、出版までにこぎ着けたのか?
そして、そうしてつくられた作品は、どのように流通していたのか、いなかったのか?

などなど、仕事上、コミュニケーションに関係しているので、
そういう部分も含めて、興味は限りなく広がっていきます。
前段にも書きましたが、今日の社会は
大衆消費社会で情報も大量に消費される社会ですが、
じつはこういう社会は、ほんのごく近い歴史時間のなかで
急速に広がってきていることなんですよね。
歴史を考えるときに、情報というものが、いかに閉ざされていたんだろうと、
心底から思い至る気がするのですが、
しかし、この絵師のように表現活写力というようなもの、
その迫力のようなものは、まさに強烈に胸に迫ってくるものがあります。
情報の量は、圧倒的に違うけれど、
その説得力のようなものは、圧倒的に迫ってきますね。
結局、歴史の中でも、その主体として
人間が、人間くさく生き抜いてきたことが、歴史として遺されているのだ、
という当たり前のことに、大きく気づかされるのです。

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2007年04月06日

多賀城碑文

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多賀城 京を去ること一千五百里
     蝦夷国の界を去ること一百二十里
     常陸国の界を去ること四百十二里
     下野国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨国の界を去ること三千里
此の城は神亀元年(七二四年)歳は甲子に次る、
按察使兼鎮守将軍・従四位上・勲四等・
大野朝臣東人の置く所也。
天平寶字六年(七六二年)歳は壬寅に次る、
参議東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・
兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝、修造する也。
     天平寶字六年十二月一日

さて、本日は歴史探訪編です。
東北を歩くと、いろんなところでこの碑文と巡りあいます。
拓本が飾られているケースが多い。
奈良期にこの「日本国家」の最前線国家施設として多賀城が築かれたことがわかる。
当初はこの碑文、偽作説もあったけれど、
いまは正規の歴史資料として公認されています。
で、このなかに先日のブログでも触れた北方アジア沿海州の
「渤海国」について触れられている。
表記としては、靺鞨〜まっかつ〜国という民族名として記載されています。
当時の1里は約535mとされていたので、
この国までは、1600kmほど。沿海州のたとえばウラジオストックまでの距離と考えれば
おおむね符合する。
当時の国際感覚として、こういう国の正規機関の記録に
明記すべき国家として、認識していたということ。
それだけ、活発な交流が行われてきたということを証し立てていますね。
日本の歴史記述の中によく登場する奥州の名馬、
というものは、どうも、奥州で生まれた馬ではなく、
この渤海国から、輸入されてきた大型馬のことのようだという説がある。
沿海州ーサハリンー北海道ー十三湊もしくは秋田、というルートを
常に陸地を左手に見ながら、安心させながら馬を運んできたと想定されるのです。
かれら民族からすると、もっとも安全なルートを通って
もっとも繁栄した経済圏の最短の地域が、東北北部西岸だったのでしょう。
そこで、もっとも珍重された交易品が馬だったのではないか。
その馬を、東北北部のひとびとは
近畿を中心とする日本国家との交易の最有力商品として使った。
織田信長なんかも、大喜びしている記述がある。

なんていう、雄大な古代世界の交流の様子が、
古代人たちのこうした記述記録から、伺えます。
北方アジアと、列島北東部との社会の交流の様子、
もっと、深く知りたいものと念願しているところ。
朝鮮、中国との国際関係だけではない、
もっと多角的な視点というものをもたらしてくれるのでは、と思う次第です。
みなさん、いかがでしょうか。

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2007年04月02日

平泉の風景

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写真は平泉中尊寺の山道から北上川のほとり、
昔、奥州藤原氏の居館があったとされる場所を見下ろしたところ。
右手の山は、このあいだ触れた束稲山です。
こうやってみてみると、北上川の水利によって
京都や関東などの諸地域との物資のルートが保たれていた様子がわかります。
奈良期に大仏に金箔を施すのにたぶん、奥州の金箔が使われ、
このルートが重要なルートになり、
義経の時代にも、「金売り吉次」が活躍したように、
東北は、なによりもこの金の産出によって特徴づけられたのだと思います。
現在でも、金の字のつく地名が多く残っていますね。
こうした東北に対して、関東の武装開拓勢力、源氏の武士団が
権力争いに介入していったのが、前九年・後三年戦争だったのでしょう。
たぶん、そこに大きな利権のニオイをかいで
あわよくば勢力を拡大しようというのが源氏の連中の狙いだったのでしょう。
で、この合戦の結果、平泉を首都とする奥州藤原独立政権が誕生する。
この武権の成立によって、奥州は他地域からの介入から免れます。

東北はまた、一方で「北の海道」によって
沿海州の民族とのつながりが密接だったようです。
西南日本は、中国との貿易立国型の国づくりを志向する傾向が強いのに対して
「渤海国」とのアジア北方の交流は、相当のものだったのではないかと推測できます。
鎌倉時代に描かれた時事絵詞に、北方の「金髪・異形」の人物が
遠江で、山賊の一味として描かれたイラストがありましたが、
秋田や十三湊などの東北北西岸から、北海道、サハリン、という
比較的安全な海路による交流は相当に根深かったと思われるのです。
そうした富も、この平泉の藤原氏によって統括され、
きわめて独立性の高い国家が出現したのではないかと思うのです。

日本の歴史の中で、敗者側としてはたぶん一番近い歴史時間である
この東北地域の権力のありよう、経済のありようなどに
強く引かれている、昨今であります。
負けた側の歴史もまた、掘り起こせば起こすほど興味が強くなってきます。

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2007年03月20日

束稲山

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束稲山と書いて、「たばしねやま」と読むらしい。
仙台方向から東北道を北上して、盛岡方面に向かうとき、
必ずこの山が右手にあらわれます。
何度も見ているうちに、その山体のなだらかさ、姿形に強く惹かれるようになった。
というか、不思議とランドマークとしての力強さ、
のようなものを感じるようになってきたんですね。
それで、ちょっと調べてみたら、
古歌にも謳われているサクラの名所であり、
平泉藤原氏にとって、ゆかりの深い山々であったことがわかってきた。
ちょうどこの山々は、その裾野を北上川が流れ、
対岸側に平泉の都市機能が広がっていたのですね。
藤原氏の居館は水利としての北上川に面して建てられていて、
その奥州の都から、仰ぎ見る南方の山として、この束稲山は存在していたようです。
居館の北方側には中尊寺の伽藍が高台に築かれている、
というような地理関係になっています。
たぶん、北上川を上ってくる平泉訪問者の船は、
この束稲山を目印に見ながら奥州の都に入る準備を船上でしたことでしょうね。

義経の時代にこの地を訪れていたという、西行の歌。
陸奥の国に平泉に向かひて、たはしねと申す山の侍(はべる)に
異木は少き様に桜の限り見えて、花の咲きたりけるを見て詠める
きゝもせず たはしね山の桜花     
   吉野の外に かゝるべしとは
という名句があります。
京都の吉野と並び称されるほどのサクラの名所として
同時代人に強く印象されていた様子が、このように書き残されているのです。
頼朝の大軍が藤原氏を滅ぼした古戦場・衣川もほど近い。

独立国家、平泉藤原氏の都という歴史背景にとって
この束稲山って、すごく存在感があったに違いないのです。
山岳というのは、自然信仰の対象であったのですが、
立地的にこの山は、まさにそういう雰囲気を漂わせています。
いろいろと東北の歴史を知れば知るほど、
こういう山河からも、その時代人の感じ方とか、伝わってくる部分があって、
底の深い楽しみを感じております。
自然だけではなく、ひとが生きた様が、まざまざと感じられるなんて、
実に楽しい気持ち。
束稲山、見るたびに深まってくる印象があります。
っていうことで、本日は歴史雑感編でした。ではでは。

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2007年03月04日

宮廷人の食事

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こういう種類の興味って、なんなんでしょうね(笑)。
歴史が好きって言うのは、たくさんの人がそうだと思うんですが、
わたしの場合、なんとかして生活ぶりの再現、というような欲求が抑えられません。
結局、人間は多くの食品を食べて生きてきたし、
生きていることを実感できるのも、食事の楽しみがあればこそだろうと思うのです。
権力に近づきたい、という欲求の根源に
人も羨むような食事を思いっきり楽しみたい、って、
こういう単純なリビドーが存在しているのも明らかだと思うんです。
まぁ、単純に、何食ってやがったんだ、貴族とか高級官僚って連中は、っていうことですね(笑)。
現代でも、最高学府をめでたく卒業され、
最高の官職を得て、そのうち勲章も勲1等、とか勲2等とか、
ただ、選んだ職業が官僚と言うことだけで、一般人よりも
はるかに優遇されるような人生を歩むのが当然と心得ているような人は
残念ながら、たっくさん存在していますね。
まぁ、権力の甘い蜜、っていうことなのでしょうか。
たぶん、先祖をさかのぼっても、そういうこととは縁がなかったに違いない
凡下の家系のものとしては、
うらみやっかみで、人生を過ごしていくしかないのでしょう。
って、どうも、食べ物のことになると、恨みは深くなる(笑)。

写真は、奈良朝の頃の貴人の食事を再現したものだそうです。
先般紹介した、胆沢の博物館で発見したものです。
酒はにごり酒ですね、右上の容器から右下の容器に入れて飲む。
手前側には左側から順に、おこわごはん、玄米酢、塩などが並んでいます。
魚は鮎の塩焼きだそうです。その右にあるのは
牛乳を煮詰めたチーズ状のものなんだとか。
心太と書いてあるのが、左端真ん中の料理で、海草を溶かして
固めたという手の込んだ料理。醤酢で食べる、となっている。
左上にあるのは、果物のデザートのようで、
胡桃、ナッツ、生クリ、カヤの実。
右下には、あわびのウニ和え、なんていう珍味もある。
まぁ、きっと毎日こんな豪華メニューと言うことはないでしょうけれど、
租・庸・調、っていう民衆からの搾取で、こういう食が成り立っていたそうです。
わたしのブログではB級グルメが精一杯ですが、
なんとも、山海の珍味のてんこ盛り状態ですな。

あぁ、やっぱりくやしいなぁ(笑)。
いっぺん、こんな料理食べてみたい衝動には駆られますね。
あ、朝ご飯、そろそろ作らなきゃ、ゆったりした休日の朝食、さてなんにしようかな、っと。

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2007年02月14日

アテルイってご存知ですか?

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この人なんですけど・・・って、まぁ冗談みたいな標本ですね(笑)。
このアテルイって、坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされた東北人の族長です。
東北を歩き回るうちに、知ることが出来てきた人物。
先日、胆沢城というヤマト政権による東北侵略の拠点になった
城塞の発掘跡の博物館に立ち寄ったときに見た標本ってわけです。
しかし、乏しい書物の記録や、考古的に得られた資料を活用して、
一般のみなさんにもわかりやすくアテルイのことを伝えようとする努力には敬服します。
それにしても、かなりの想像力が動員された結果が偲ばれます(笑)。
基本的には文字としては、日本国家側の記録しか残っていないのですが、
坂上田村麻呂以前には、このアテルイによって、
ヤマト政権側は、実に手ひどい敗戦を経験しているようです。
北上川を挟んでの戦闘の様子が、資料に即して映像によって再構成され、
ヤマト政権軍を挑発し、十分におびき寄せてから、
半分以下の人数で、大軍を包囲して潰走させ、
多くの兵を北上川で溺死させたという、戦争の様子を活写していました。

この戦争のあと、坂上田村麻呂が最初は副将として、
それから以降は主将としてアテルイと対峙し、
ヤマト政権側の記録としては、勝ち続けたことになっていますが、
最終的にアテルイが降伏するまでに、10年ほどの時間がかかっています。
たぶん、膠着した状態があったのだと思いますが、
遠征軍側からすれば、自分たちに都合の悪い報告は
それほどは本営に送らなかったのではないかと推測できます。
ちょうど時代は桓武天皇による京都遷都と軌を一にした時期であり、
新体制国家の武威の象徴のように、このヤマト政権の勝利は利用されたようです。
降伏して、都に護送されたアテルイは、
征夷大将軍になった坂上田村麻呂の上奏にかかわらず、
刑死させられることになります。
東北人に対する占領政策において、強硬路線を突っ走ったのですね。
たぶん、こうした戦後処理が東北人に
より強いヤマト政権への敵意を残した部分が大きかったのではないでしょうか?

歴史のなかに、敗者の記述としてこの刑死は、淡々と記されているのみですが、
いったん、敗者の側からこの事実を再構成してみれば、
ヤマト政権とは、なんという強権的な権力であることか、と思い至ることと思います。
その後も前九年、後三年戦争まで、ひき起こっていく
東北の治安の不安定さは、このアテルイの虐殺が大きいのではないかと思えます。
しかし、こういうことがらも考古的な検証など、
時間とともにいろいろとわかってきているのですね。
わたしたちが学んだ歴史では、ほんの数行しか触れられていなかった経緯が
各地の博物館などの整備によって、予算が付いて、
解明されてきているのだなと、楽しい気分になってきます。
この写真のアテルイさんの標本も、たとえば衣装などは
いろいろな調査結果を反映してもいるようですし、
髪型や目鼻立ちという部分も、東北人の特徴などに取材もしているようです。
もちろん想像力の産物ですが、そこには知の蓄積も映し出されているわけですね。
というようなことで、歴史研究、連日のテーマでした。(笑)

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2007年02月13日

平泉という夢のあと

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東北版のリプランを発行しはじめてから
当然ですが、東北各地を取材で訪れるようになり、
いきおい、東北の歴史に関心が向かっていきます。
北海道では最近、考古的な年代でのいろいろな発見がありますが、
やはり文字による記録が残された、手がかりのある歴史的事実の集積は乏しいので、
なかなか実感を伴って歴史を再構築しにくい。
そうした意味では、歴史的事実が明確な東北の歴史は
わかりやすく、実に興味深いものがあります。
簡単に言えば、東北って、ヤマト国家との緊張関係の歴史であって、
それも敗者の側の歴史ということが、わかりにくくしてきたということのようですね。
しかし、わかりにくいというだけであって
富の集積であるとか、そういう部分ではヤマト国家と
それほどの乖離のある存在ではなかったと思えるのです。
この写真は、平泉の中尊寺一帯の宗教施設群のなかにある 
能楽堂の全景写真ですが、権力の正統性の担保としての宗教施設に
これだけの建築を遺してきた経済力は、すごい。
ヤマト国家と東北の関係は、
比較的早くからその国家権力のなかに組み入れられていた宮城県以南の地域と、
平泉を中心とするような「奥六郡」以北地域との間で、
実に複雑な推移が展開してきたようです。
わかりにくさというのは、ヤマト政権の側からだけ見た歴史観では、
よく見えにくい事態の推移が主要にあった、ということを表しています。
平泉・奥州藤原氏の時代になると、
明確にヤマト朝廷国家とは一線を画したひとつの王権として成立していたといえます。
この平泉が滅ぼされたのは、関東に新制度国家を設立した関東武士団によってです。
この時期というのは、後の戦国時代以上に、権力争闘が熾烈であり、
本当であれば、日本にはいくつもの国家が存在しても不思議ではなかった
というような様相を見せていた時代だと思います。

奥州藤原氏というのも、自ら「俘囚の長」であると宣言していた、
ということですが、どうも感覚として独立国家を運営していたと自覚していたと思われます。
<俘囚>っていうことばは、ヤマト国家の側から東北北部に暮らす人々を
蔑んで呼んだ言い方なわけで、それをあえてこうして表現するというのは
そこに強い意志の存在を感じます。
ヤマト国家の側からは、律令制度での官位を与えたりして懐柔しています。
しかし、それに対して別に上京して臣下の礼を取った、というようでもないようです。
平家による宋との交易による、いわば貿易立国的な志向性、
一方で形骸化していたとはいえ、一応国家としての統治機構としての
律令体制を維持していたヤマト朝廷国家。
さらには、ヤマト国家の土地経済政策の破綻の結果、自立を志向した関東新国家、
頼朝を盟主と仰いだ関東武士団による独立の動き。
そしてこの平泉を根拠地とした奥州藤原氏の覇権成立地域。
ちょうど、関東新国家が武権として、全国制覇していく過程で、
こういうような政治状況が生まれていたようですね。
後の戦国期のような、覇権争奪という側面はそう大きくはない、
むしろ、それぞれが自立的な方向を志向していた時代のようです。

こういう時代は、普通に考えればそれぞれの独立国家による
外交関係と捉えた方が、よりわかりやすいし、当人たちも、
「日本」という統一国家意識というのは、特段強くなかったのではないかと思います。
藤原氏の「俘囚の長」という発言を、
歴史のなかでとらえたとき、そういう雰囲気を感じ取ることが出来ると思います。
っていうような、夢想を抱かせる平泉の建築群です。
久しぶりに、歴史のテーマでした。

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2007年02月03日

飢饉の時の食

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八戸という地域からは、江戸期に安藤昌益という
思想家が出ています。いつも便利なインターネットの百科事典、
Wikipediaで調べてみると、
安藤昌益(あんどう しょうえき、元禄16年(1703年)−宝暦12年10月14日(1762年11月29日))は、
江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身。
陸奥国八戸で開業医となるが、宝暦の頃、出羽国大館に帰郷。
身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張した。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。
後に在日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。

ということなのですが、なぜ、こうした人が出て、
こうした思想を持つに至ったか、その背景と言うことに
これまで、考えが至りませんでしたが、
ここのところ書いている、江戸期の八戸の苦難に満ちたありさまを見て、
深く理解できたように思いました。
写真は、破綻した農業経済のさなかで、命をつないでいった民衆が
生き残ってきた、そのもとになった食を展示していたもの。
結局、経済社会が破綻すれば、自然の元に還って、野山に分け入り、
およそ、食せるものすべてを食いつないでいくしかありません。
ワラビや葛、トコロの根を掘り、トチ、ナラ、クヌギの実を拾い集め、
ヤマゴボウやうるい(ギボウシ)などの草の葉をかき集める暮らしだったようです。
飢饉の時には、味噌はとくに重要な食品になったという。
青い葉物を食べるときには、下痢による脱水症状や全身が腫れ上がって
死亡するのを防ぐため、かならず味噌で煮るように、という口伝があった。
味噌の塩分が、カリウムを中和するのだそうです。
(・・・って、そこまで決心して食べるんですね)

基本的な自然条件で言えば、稲作を基本とする
ヤマト政権の農業経済構造に似合わなかった北東北地域は、
それゆえに、長く「まつろわぬ」人々の地であったのだと思います。
東北の歴史は、長い日本国家との緊張関係の歴史でもあった。
そもそも気候条件が違う地域に対して、それを克服するための努力をせず、
その結果が、こうした飢饉を引き起こしてきた側面が大きいのです。
その意味では、こういう問題はいまでもあると言えるかも知れませんね。
深く考えさせられます。・・・

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2007年02月02日

八戸藩での自然環境破壊

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きのうも書いた八戸、南部の江戸期の辛酸について。
冷涼な気候というものが、
人々の暮らしを苦しめてきたというのが、単純な歴史の真実です。
こんにちでは、わたしたちは多くの研究努力によって
あたたかい住環境を獲得し、農業やその他の産業分野でも
冷涼な気候というものは克服できてきたのですが、
それはこうした惨禍の上に立って、その教訓に立って、
出来上がってきた歴史なのだという思いがしてきます。

しかし、単純に冷涼な気候だけではなく、
どう考えても、惨禍は社会的に生み出される、
という側面が大きいのだ、とも思わざるを得ません。
きのうの天明の大飢饉に先行して、
八戸地域では、当時の新ビジネスであった
関東・野田のしょうゆ産業の原材料供給地として大豆栽培を藩が
総力を挙げて取り組んでいました。
そのために農民の主食であった、ヒエなどの生産耕地を焼き畑して、大豆畑に変えたのです。
そのことは藩の産業振興として理解できるし、
こんにちの、たとえば夕張などの観光産業振興などとも類推できる。
しかし、写真のイラストは、そういうプロセスの破綻の様子を描いていますが、
1 野山を焼き払って大豆畑にする。
2 畑は、2,3年で次の畑に移動していく。
3 残された、もと畑に残った根茎を掘り起こして食べて餌にしてイノシシが大発生した。
4 数が増えたイノシシは、こんどは作物が実った畑を根こそぎ、食い荒らして
農民たちに大被害をもたらした・・・。

というような非常に明確な、自然生態系の破壊が
人為的に作り出されていったようなのです。
こういう社会経済的な矛盾が、冷涼な気候によって、より増幅されて
日常的に飢饉が発生するシステムが形作られていたのです。
しかし、コメに依存できない八戸藩の農業生産は
その1/4が大豆の収益になっていた、ということで、藩の権力は
農民たちに、それでも強制的に大豆生産をやらせていたのだそうです。
逆に言えば、こういう災禍のうえに野田のしょうゆという新産業は成立していた、といえます。

ひるがえって今日でも、さきほど触れたような夕張の例などもあり
冷涼な気候とか、乏しい経済力の地方が、
生き残っていくということの厳しさを、あらためて認識させられます。
発展する都市と、荒廃する地方、というような社会システムの縮図のような
事例だったのだと、思われますね。
なんとも、胸がふさがれるような思いがしてきます。
そうならないように、地方は元気を出していきたいですね。
ケースはすこし違うけれど、がんばれ、「そのまんま東」知事さん!
っていうような気持ちが、地方住民としては強く起こってきます。

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2007年02月01日

天明の大飢饉

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若干の取材空き時間があったので、八戸の博物館を先日、訪れた。
そこで、目を奪われてしまったのが
「天明の大飢饉」の惨状を伝える絵や展示。
東北北部を悩ませる寒冷な気候のもたらす惨禍をリアルに伝える、すぐれたドキュメントでした。
写真は展示中の、江戸期の出版物「卯辰飢饉物語」からの挿絵です。
以下、展示からの紹介文。(一部要約しました)

「餓死万霊等供養塔裏側に刻まれた碑文の内容」
1778年の頃から、ここ数年の間、耕作は良くなかった。1783年、天明3年の大飢饉のようすは
4月11日の朝に雷が強く鳴って、ヤマセ(北東の寒冷な季節風)が吹き、
大雨が降ってから、8月晦日の暮れまで雨が降り、9月1日、しばらくぶりで晴れた。
夏の間、ずっと「綿入れ」を重ねて着なければならないほど寒かった。
このため、田や畑の作物が実らず、青立ちのままだった。
人々は毎日、山へ登り、わらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、
イネなどのさまざまな茎を粉にして食べたりした。
翌年になると、領内すべてで収穫がなく、はやり病が流行し、多くの人が餓死し、
死人が山のようであった。
城下や村々では、毎日のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。
しかし、新井田村(この碑の所在地)では出火はなかった。
領内の総人数65000人あまりのうち、30000人あまりが死んだ。
家は272軒のうち、136軒がつぶれた。
これまでにないことである。これからはコメや穀物などを貯えておきなさい。

という記述。
それにつけられた挿絵が写真のものなのだけれど、
餓死した馬を食らっていたり、倒れた人をむさぼっている野犬のようすなど
目を覆うような悲惨な光景が描き出されている。
言葉に出来ないようなようすが想像できるシーンも描かれている。
人口の半分が餓死する、というまことに過酷そのもの。
つい200年ちょっと前まで、こういうことが現実であったのですね。
こういう気候不順にともなう冷害が、北東北地域ではひんぱんだった。
しかし、展示で初めて知りましたが、こうした飢饉の遠因には
江戸中期以降、勃興した関東地域の野田の醤油産業に対して
それまでこの地方の農民の主食であった冷害に強いヒエ畑を変えて、
原料となる大豆の生産を農民たちに強制した、南部藩の経済政策があったそうです。
というような記述を読めば、
まさに生きた経済と、その社会システムがまざまざと実感できてきます・・・。
願わくば、先人たちの経験と知恵をわれわれはよく知って、
よりよい社会を構築していかなければならないと、思いますね。 
まずは、惨禍に死んだ先人に、合掌。

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2006年10月31日

円空を伝える江戸期の表現

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東京国立博物館でみた仏像展で展示されていた円空についての
江戸期の出版物「近世畸人伝」の部分の模写です。
これは出版物から、この部分だけスキャンしたもの。
出版から300年ほど経っていて、著作権は消滅しているはずなので、取り上げさせてもらいます。
という説明はまだるっこしいのですが、一応念のため。

仏像展で、円空の事跡を紹介するコーナーに展示されていた、この画をはじめて見たときに、
その素晴らしいわかりやすさ、明晰さに深く打たれた次第。
円空という人を伝えるのに、これほどわかりやすいイラスト表現はありませんね。
写真表現というものがない江戸期の時代に、
時事問題などを扱う出版の世界で、こうしたイラスト表現が多用されていたのです。
博物館には、常設展示コーナーで、こういう出版物についての展示があり、
江戸期の出版物がいろいろに見ることができます。
ちょうど、旅行をテーマとした展示がありましたが、
江戸期の「旅行カタログ」出版の数々のわかりやすさ、面白さは素晴らしい。
写真を超える、その直接的なわかりやすさは、日本文化の誇りとも言えるもの。
その後、近代から始まった、いや、手塚治虫以降といわれてきた
日本マンガ文化の原点に、こういう表現力が力強く息づいているのだ、と実感されます。

しかし、展示されているほかにも、
ここ東京国立博物館に保存されているものって、すごいんですよね、そのおびただしさ。
展示されているものを丹念に見るだけでも
たぶん、一週間程度は優にかかりそうです。時間を見つけては、行くしかありませんね。
たまたま、今回2度行きましたが、ようやく、本館と東洋館をざっとみただけ。
多くは撮影も出来ますから、まさに日本民族の事跡をここでたどることも出来る。
上野の一角に集められた日本民族の宝物の数々には圧倒されます。
その多くは、数限りないみなさんからの「寄贈」によるものなのですね。
本館には、その寄贈者の名簿が展示されています。
まぁ、東京に住んでいるわけではないので、難しさはありますが、
時間をなるべく作っては、ぜひ数多く訪れてみたいものだと思います。

で、円空のイラストですね(笑)
すっかり、話題が飛びまくりです。
円空さんって、身分的には正規の僧ではなく、たぶん遊行僧だったのでしょう。
漂白しながら、その土地土地で、ひとびとから頼まれて像を刻んでいたのですね。
イラストでうしろで手を合わせて拝んでいる人がいますが、
きっとこういう庶民の信仰への願いを、民衆の代表として造形したのでしょうか。
その土地で神木として伝えられるような自然木があり、
それをそのままに像を刻んで信仰に魂を吹き込むようです。
かれが造作した仏像の直截さ、がほんとうに手に取るように伝わってくる迫力です。
今回の「仏像展」のなかでもひときわ強く惹かれた小展示でした。

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2006年10月23日

涅槃の演出

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日本に仏教が導入されたのは、聖徳太子の時代という。
当時は、中国に随という強大な中央集権的な国家が成立して、
周辺国家への影響が大きかった時代だったようです。
現実に隣接した朝鮮半島北方地域の高句麗を侵略している。
そういう緊張する内外情勢の中で、日本国家の求心性を高め、権力の強化が
求められた、あるいは権力者の側で中央集権化が念願された。
それまでの豪族たちの分権的な権力分散的な体制から、
天皇権力を、より強化するために、
仏教という宗教による体制強化が図られたのですね、
「篤く、三宝を敬え」という太子の言葉が憲法に語られたのです。
今日の感覚からすれば、なぜ宗教がそういう役割になるのか、見えないことがあります。
しかし、仏教や経典というものは同時にセットで、
法律や制度、権力のシステム、文明そのものが導入されたのでしょう。
ちょうど、明治の日本がその当時の欧米的国家という概念を導入して、
それと同時に、さまざまな社会システム、規範というものすべてを
日本の国家に導入したと同等か、それ以上の大変化だったのでしょう。
仏教はそういう役割を持って、この国に入れられたものなのだと思います。
だから、奈良の都は国家による公共事業として大寺院作りが行われた。
それが、代々の権力に規範となって、根付いていったものでしょう。

写真は、清水寺。
そういうなかで、寺院建築もまた、
さまざまに意匠と、建築技術の粋を尽くした建築が建てられます。
いろいろなデザインが、宗教体験の擬似的体験をテーマとして建てられたのでしょう。
この清水寺は、延々と続く上り坂を上がり、最後に見上げるような本堂に上がり、
そこから、一気に清水の舞台から、京の街並みが眺望できる、
絶景、というカタルシスを演出していると言われます。
断崖にせり出している舞台は、骨太い木組みによって支えられています。

宗教体験というのは、こういうカタルシスなんですよ、
ということを一般民衆にわかりやすく開示し、明示することを
寺院建築の大変大きなテーマにしたのです。
この眺望がはじめて創建された当時の社会のなかでの驚きなどを
追体験することは不可能ですが、しかし、
たぶんこういう眺望を得られる建築というものがこの国で初めてであり、
いかに驚異であったのかは、
「清水の舞台から飛び降りる」という
一般言語が今日まで残っているところから、十分に察せられますね。
国家権力という、抽象的な概念を認識させるという作業と、
こういう宗教体験を持たせると言うことが、日本国家権力の常態になったのでしょう。
しかし、そのように導入されながら、やはり日本人というのは
独特にそういう外来文化を咀嚼する能力が世界一あるのでしょう。
さまざまに土着的なものが育っていきますね。
っていうように、ちょっと、宗教的なものと日本人、というテーマ、
いろいろに考えることが多くなってきています。
これからも、随時、断片的に書き留めてみたいと思います。
よろしければ、お付き合いください。

さて、きのうはいい勝ち方ができたわがファイターズ。
いよいよ、札幌ドームに日本シリーズがやってきます。
日本の野球の神様が、札幌にもやってくるんですね。
厳粛にお迎えし、明るく楽しい全力プレーと応援で歓迎したいと思います。
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!

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2006年10月22日

日本人と宗教-01

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きょうから、最近強く感じている表題のテーマについて
折に触れて、書き留めてみたいと思っています。
日本各地の住宅や建築を見て歩く機会が多いのですが、
残され続けてきた建築はその多くが宗教に関わるものが多く、
また、住宅などでも先祖への思いや祈りの空間、というものが
わたしたち日本人の精神生活のなかできわめて大きいことに気づきます。
ブログなんで、こういうテーマ、と決めて、
あとは日々、自由に書いていって、
あとで鳥瞰的に全体を見晴らして、なにごとかが見えてくればいい、
という感じで気楽にいきたいなぁ、と。
新しく、こういうカテゴリー作って溜めていきますのでヨロシク。

写真は日光東照宮の門の上の装飾の様子。
東照宮というのは、権力者であり、しかも死後、自らを
神としてあがめさせようと考えた、究極的な支配者・徳川家康のもの。
この考えは、織田信長が着想し、実際にCGなどで復元される安土城に
その基本的なものがかいま見えていると言われます。
戦国以前にも、たとえば藤原氏の平等院鳳凰堂であるとか、
清盛の厳島神社、などなど、権力者というものは必ずと言っていいくらい
宗教的な施設建築を、自らの権力の随伴的なものとして作ってきた。
そうした歴史に踏まえて、なのか、
自然的なひらめきであるのか、信長は、「みずから神になる」
考えを実践したようなのです。
戦国終息期の3代の権力は、この考えを保ち続け、この東照宮を持って
完結を見たということのようなのですね。

そのために当代の建築技術が総動員されて作られてきたのですね。
あたかも、戦争が武器を中心とした物づくりの歴史を支えてきたように、
建築は、常に公共的な大建築がその技術革新を支えてきたものでしょう。
日光は行ってみると、市街地からえらく長い参道が続く深い森の中にあります。
そういう深い森の中に忽然と、大型建築群が展開しています。
江戸の鬼門の方位にあたり、たぶん古く、縄文期から続く
霊場、自然信仰の対象であった地に建てられたもののようです。
見るように唐破風の門構えの下側に、まさにおびただしい装飾が施されています。
まさに「装飾としての」建築というのが実感。
目的自体も、そのときの権力者の示威が中心だったことから、
そういう目的はただしく伝わってきますね。
あらゆる権力を自分のまわりに集中させた権力者として、
最後に、こういうように宗教的にも尊崇されたい、というのがすごい。
まぁ、家康個人としてというより、法人としての
徳川権力全体としての意志、ということなのですが。

しかし、歴史の星霜を経た、いまとなっては
そういう権力としての荘厳さの演出という部分は急速に色あせ、
装飾も飽き飽きさせられる印象を持たざるを得ませんね。
特定の個人がなまに感じられる権力装置というのでは、
自然な感情をわれわれ、後世のものは持ちようがありませんね。
どうもあんまり、いい印象を持てない建築なんですけど・・・。

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2006年10月17日

国立博物館

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きのうは、すっかりいじけたようなブログの書き方になって、
反省いたしております。
写真は、昨日も触れました、上野の国立博物館常設展示の土偶です。
まじまじと見ることができた上に、写真撮影してもよい、ということでした。
ということで、謹んで撮影いたしました。
にしても、凄い迫力です。
こういう生命力そのものの造形を、縄文の日本人は生み出していたのですね。
これがいったい何をあらわし、なにを訴えたかったものであるのか、
それは不明であり、なぞのままなのでしょうが、
そういうことはあまり関係がありませんね。
縄文の日本というのは、世界でも有数の豊かな環境であった、
という説が最近、たいへん有力になってきています。
あまりにもその暮らしぶりが心地よいものだったので、
ながく、その最適地、関東から東北・北海道は、
西日本地域とは別の社会を形成してきたのだ、という説です。
もっといえば、この列島にはいくつかの社会が形成され、
その後、日本国家を形成した弥生の日本と、
縄文的な価値観をふかく残してきた関東圏、
さらに、北方で蝦夷としてながく同化を拒んできた地域と、
南方で、荒々しく剽悍な生活文化様式を持っていた九州南部の社会というように
別れた価値観が併存してきたのが、ベーシックな歴史だという考えもあります。

基本的に東西の社会は明確に別れて発展してきたのは間違いがありません。
たまたま、ヤマト朝廷のスタイルが東アジア世界のなかでの
この列島の生存手段として、選択されてきたというのが実体に近いのではないか。
きのうもふれたように、仏教がヤマト政権によって、アジア世界から導入され、
しかしそれが東国的な価値観と巡り会って、
さまざまな日本独自のかたちに変化していった、
というプロセスが明確に見える気がいたします。
なぜ、ヤマト政権が仏教を導入したのか、というのが
大変面白いのだけれど、やはり外圧というものが基本因子だったのではないかと。
中国にどんどんと強大な軍事力を持つ国家が形成され、
漢字を中心とする文明が進化していくことが、
地域的にその強い影響を受けざるを得ないこの列島社会に
自然に外圧として働いてきた結果なのでしょうか。

たとえば戦後日本が導入した「民主主義社会」というものと
この仏教の日本導入という現象は比肩しうるようなことであったのかも知れません。
そのときの権力、ちょうど自民党保守権力と、
聖徳太子を中心としたヤマト政権とは似たような政策を行ったのかも知れません。
って、ちょっと類推飛躍が行き過ぎかなぁ(笑)。
でも、わかりやすく解釈すれば、そんなところなのかも知れません。

あ、土偶の写真なんですけれど、
ついつい、そういった悠久な思念を思わず思い起こさせるような、
そういう強いインパクトが、対面することで感じられた次第。
調べてみたら、国立博物館って、
およそ、日本と列島社会にとっての基本的な遺産が、
それこそ、すべてといっていいくらい集中して保存されているのですね。
こりゃぁ、何ヶ月も滞在しても、見尽くすことが不可能なくらい、
いろいろな歴史の証拠物件を発見できるでしょう。
死ぬまでに、どれくらい目にし、
さまざまな古人の思いを追体験できるか、わくわくしてきました。
これからも、浸り尽くす時間を味わいたいと思いました。

にしても、東京にいる人たちはいいよなぁ・・・はぁ。

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2006年10月16日

「仏像展」見学記

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ときどき東京に行くと、うらやましくって、悶えてしまうようなことがあります。
上野の国立博物館に行くと、その思いが強く感じられますね。
今回も時間を縫って、いま開催中の「仏像展」を見て参りました。
というか、あんまり予備知識はなかったのですが、
だいたい、ここでの展示に外れはあり得ないので、楽しんで参りました。

いやぁ、こんな展示会を企画したり、調査したりする仕事って、
いいよなぁ、と心の底から、羨望の思いを強く持ちましたね。
さすが、「国立博物館」なので、予算もしっかりあるのだろうし、
展示に協力を依頼する場合も、たぶん、ノープロブレムでオッケーしてもらえるだろうし、
などなど、企画屋の部分で、興奮するようなイベントの仕掛けです。
日本の仏像というテーマに絞って、歴史的に意味の高い作品を
ほぼ網羅してしまえるんですね。
そういうことで、観に行く人たちにとっては満足感の高い展示を構成できる。
日本の仏像って、仏教以前の自然信仰、霊力を感じるような一本の樹木から
「一木彫」というかたちで造形されるのが圧倒的だと言うことです。
他の国のように、石を使ったりすることは少ないのだそうですね。
さまざまな歴史的経緯をたどるような展示になっていて、
日本人と宗教体験、というわたしのいまの大きな興味分野について
たいへん強い、示唆性を与えてくれたような気がしました。
国家の権力維持や、民衆圧伏のための精神的な道具として
大陸先進文化から輸入されてきた流れ。
さらにそれがこの列島社会のなかで、
古来からの自然崇拝と習合しながら、独自の発展を遂げていく様子。
さらには、江戸期の民衆のなかに飛び込んでいった円空と木喰の
味わい深い、民間信仰の世界の展示など、
ふかく心が打ちのめされるような、印象を持ちました。

日本畸人伝、という江戸期に出版された冊子に挿絵入りで
紹介されている円空のイラストなんて、小品ながら、
まさにいまそこに、円空そのひとの実在を感じさせるようなリアリティを
こちら側に伝えてくれます。
柔和にほほえみかけてくる、木喰上人の仏像作品の数々からのメッセージを
受け止めていると、時間をまったく超越して、
ものをつくっていく情熱や、人間が生き抜こうとする力としての信仰の世界を
まじまじと感じてしまいました。

いいですよね、東京の人は。
こんな展示に、毎日でも触れることが出来るんですよね。
そんな思いをしていて、なにげに常設の展示の方を見ていたら、
なんと、縄文日本の最高傑作芸術・遮光土偶が目に飛び込んできました!
こんな日本民族の宝物が、まじまじと現物展示されているんですよ!
はぁ、と、深く思い至りました。
やっぱ、東京は恵まれすぎている・・・、かないません、と。
みなさん、こういう文化の不公平感って、感じる方がおかしいのでしょうかね。

写真は、撮影可能だった一木彫りの製作工程展示です。
きちんと撮影の確認を撮ってからデジカメで撮ってきたものです。

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2006年10月06日

華奢な建築

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写真は前にも紹介した徳川家連枝時代の会津大名庭園の茶亭。
あまりにも華奢な印象だったのですが、
写真を眺めていて、その基礎の作られようを再確認して、
「よくもまぁ、これで・・・」とため息が出ました。
この建物は、藩主の接待用だったそうなのですが、
新築されてから、何回か、修理されてきている記録が残っているそうです。
この写真を見れば、さもありなんと、理解できます。
左側の写真を見ると、大きく開口させている様子がわかります。
池に向かって眺望を開いているので、当然。
壁はほとんど見あたらず、全部開放させた作りですね。
それに対して、屋根は重厚な茅葺き。冬期には積雪も多い。
そういう加重をすべて受け止める基礎が、
束石で、点で、受け止めているだけ。
このあたり、たぶん、日本的な情緒建築文化性のみを優先させていますね。
冬場に、この建物を使うためには、そうとうの準備が必要だったろうと思います。
というか、よく考えればそれは無理だったのでしょう。
危険を考えれば、屋根雪はまず、人力で落としておかなければならなかっただろうし、
ガラスの建具もない時代であれば、障子と板戸だけの建具で
室内環境を、温度を確保するためには、
さて、いったい、どうやったのでしょうか?
こういう建築が、会津に遺されていたというのが、やはり不思議。

考え方としては、別荘的な考えで、
夏場のみの使用と、割り切っていたものなのでしょうね。
冬場に寒々しい池の山水を眺めても、風流ではないし、というところか。
確かに、北海道でも、そういう考えがちょっと前、
ほんの20年くらいさかのぼれば、そうだったとも言える。
高温多湿の夏の訪れを心待ちする北国人の意識のなかで
こういう建築の意味合いも、そういうものだったのでしょうね。
日本の建築文化に、寒冷地仕様という概念を
きちんと植え込んでいくというのは、なかなか大変な作業ですね。
つくづく、実感させられます。
北海道から始まった建築の防寒技術の進展のなかで、
こういうふうな建築の持つ開放的なコンセプトを
暖かい冬場の室内環境を実現させながら、追求しているのが、
現在時点だ、ということなのだと思います。
冬場でも、猛吹雪の中でも、それすら楽しめるレベルの性能を
いまでは、庶民レベルの住宅で実現できつつある、ということですね。

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2006年09月29日

家老の屋敷

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会津シリーズ、続編です。
会津若松には観光用の武家屋敷が建てられていました。
なんでも、著名な城代家老・西郷頼母〜たのも〜の邸宅を再現したものだそうです。
どうでもいいんですが、この頼母〜たのも〜って、
いわゆる、「たのもしい」を連想させて、面白い名前だなぁと思います(脱線)。
って、ようするに城代家老という職種から、殿様には
まさにそのように思われる存在であったはずですからね。
写真は、その屋敷の正面玄関と間取り図なんですが、
間取り図を見て、ほえ〜っ、とたまげてしまいました。
部屋の数だけでも数えてみたら、なんと30近くあるんですよね。
江戸期の実質的な権力のありかをあらわしているのでしょうか?
司馬さんの文章で、明治になって藩が廃止され、
それまでの大名たちが、「華族」となり、領地所有を取り上げられる代わりに
高額の国家からの給付だけを受け取ることになったとき、
家臣たちの扶養義務から解放されたことの方を、かれらは大いに喜んだ
という一節がありましたが、大名自身は案外そういう存在だったのでしょうね。
実質的に藩を経営していたとはいえ、
こういう家老たちなどの、この邸宅の贅沢さを見ると
人件費負担というのは、筆舌に尽くしがたいものがあっただろうと
推測されます。で、こういう家老職も、基本的には世襲制だったわけで、
能力と、給与額とが、きちんとバランスしていたのかどうか、
江戸期の社会システム矛盾を、はっきりと見せられた気がいたします。
ただ、戦国から江戸期への安定平和志向社会としては
身分と格式固定化、が最大のキーポイントではあったのでしょう。
でもまぁ、すごい大邸宅で、さすが大国・会津にふさわしいとはいえますね。

さて本日の、日ハム関連の動きです(笑)。
昨日、予約していたプレーオフチケット、無事ゲット。
ローソンのチケット端末からしか買えないシステムです。
高齢者のみなさんとか、けっこう大変なんじゃないか、と思いました。
ファンクラブ会員先行予約ということで、
すばやくやったけれども、それでも、席順はだいたい真ん中くらいでした。
相当売れている感じがいたします。
なんか、移転当時からは考えられないくらいのファン拡大ぶりのよう。
プラチナペーパー化するのも、いやなんですけども、複雑ですね。 うむむ。

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2006年09月26日

茶室・麟閣(りんかく)

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茶室というと、もうすこし軽快な建物が多いのではないかと思いますが
この麟閣(りんかく)というのは、草庵風ということで、
屋根が茅葺きになっていたり、茶室本体に隣接して
広間があったりして、大きめの建物です。
入母屋の本体建物に突き刺すようにこちらも入母屋の茶室が付いている形です。
って、ようするに全景が写真では撮りにくいんですよ。(汗)
まわりの露地、庭木が密生していて、まぁそれが建物本体との
ハーモニーで非常に重要な建築要素なので、
いわゆる外観的に建物だけをクローズアップするようには見えないのですね。
たぶん、待合いという小屋からは、敷石が連なっていますので、
写真右側のようなにじり口から茶室本体に入る仕掛けになっているのでしょう。
広間の側は、茶が終わって寛ぐための、あるいは茶を用意するための
そういう用途のスペースだったのでしょうね。
茶室内部は、写真撮影できなくなっているのですが
本を見ると三畳台目手前座というスタイルとのこと。
茶の様式とか、あまり興味はありませんが、
この建物は、京都・藪内家に残る古田織部の茶室燕庵とよく似ているのだそうです。

この建物を造ったのは、千家の利休の長子・少庵というひとで
会津から、許されて京に戻り千家を再興していったのですね。
茶道にとっては、たいへんゆかりの深い建築と言うことになります。
建築と、その設計者の名前が残っていくというのは
近代個人主義の成立以降になることだと思いますが
例外的に、こうした芸術建築では個人名がしるされています。
こんにちでは、著作権というものがたいへん重んじられる社会になって
ちょっと行き過ぎじゃないか、と思われるきらいもありますね。
正直、茶はまったく理解していないのですが、
切り取られ、管理された植栽による演出効果と、体技など様式化を強制しながら
喫茶の時空間を芸術にした、という面白いものだとは思います。
西洋では、マナーというようなものは広がったけれど、
こんな、ひとつの儀式化・様式化までにはならなかった。
そういう意味では、きわめて日本的なものなのでしょうが、
茶器などは、広範囲な交易の産物としてのものを珍重しているのだとか、
やはり奥行きを感じさせる文化といえますね。

さて、本日からパリーグ、日ハムは最終の対ソフトバンク2連戦です。
まだ、プレーオフはありますが、
波瀾万丈の展開が続いてきたここのところ。
しっかり、一致団結して戦っていけるのか、心配ではありますが・・・
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!

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2006年09月25日

寄り付き

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会津城の敷地内の茶室シリーズです。
門を入ると、いくつかの建物が植栽のなかに点在しています。
あんまり茶室って、興味がなかったのですが、こうしてみてみると面白い。
建物としては、この写真の「寄り付き」から始まって、
「中門」、「腰掛け待合い」というものがあって、
そのあとに、本来の茶の場である庵が続いているのですね。
それらが小道で繋がっていて、
その間を、計算された植栽が彩っています。
もちろん、喫茶と社交が主な機能である装置ですが、
建築で考えると、まさに芸術的な、感性的な表現そのものという建て物。
この「寄り付き」という建物、鮮やかな外壁の彩色が印象的。
下部はより濃い色合いで、ツートンカラーが施されてもいます。
先日見たような壁の作り方で、最後の土を塗り重ねていくプロセスで、
こういう色彩に彩色した土を使って仕上げた物でしょうね。
屋根の頂部には竹を使っています。
素材を強調させるかのように、やや建物から出っ張っています。
屋根は正目板なのか、塀の屋根素材と同様な木の皮なのか
判然とはしませんが、いずれにせよ、軽快感のある薄さが目立つ屋根。
壁には、大きなアクセントの円窓。
いやぁ、洒落ている。
現在遺されている建物はいろいろに劣化している部分があるのでしょうから
創建時の雰囲気を考えたら、まさにキッチュともいえる、
斬新なモダニズムそのものであったに違いない感じがいたします。
非日常的な、空間演出が意図されているのは疑いありませんね。

日本って、権力と、宗教や文化の関係性が面白いですね。
なぜ、権力の側は、城郭敷地内にこういう文化を必要としたのか?
逆にこういう宗教や文化は、きまって権力に利用されようとする、というか
パトロン的利用しながら、存在し続けてきた。
利休と秀吉の関係がいちばん、象徴的なのかも知れませんが、
発生の段階から深く権力と結びついてきた、という感じが強い。
後白河は、今様という、こんにちでいえば、流行歌のさきがけのようなものを
文化として育成してきた、というのを読んだこともあります。むむむ。
茶室シリーズ、もうすこし続けて参ります。

さて、きのうは日ハムも、上位3球団も全部、負けましたね。
下位チームは気楽に野球そのものに打ち込んでいる、
上位チームは、とにかく勝たねば、ということでプレッシャーガチガチ。
まぁ、これも面白い人間性そのものがあらわれてくる局面ですね。
でもまぁ、日ハムに思わぬ金村君問題、勃発。
事の真相も不明で、謝罪もするのかどうか、きょう明日の動きに注目せざるをえません。
ただし、チームの士気がこの一件でどうなるのか、
われわれファンとしては、心配でたまらないものがあります。
人間がやっていることなので、当然考え方の違いから衝突もあるのが自然。
しかし、一方で勝負事もかかっているので、
起こったことに、さてどう立ち向かい、対処していくのか、もきわめて大切です。
ファンとしては、チームがふたたび一丸となって
勝利への姿勢を高めてくれるように、念願してやみません。
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!

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2006年09月24日

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現代の住宅で、あまり重視されなくなった代表格に門がありますね。
写真は、先日から紹介している会津若松城に隣接する茶室のもの。
塀の屋根材でご紹介したのですが、木の皮や竹が使われていますね。
塀はその屋根で保護した白壁と下見板と押縁という構成。
壁の下部は雨の跳ね返りを浴びてグラデーションがかかったようになっている。
きっとこういう劣化変化も意匠としては意図しているものなのでしょうね。
で、門です。
こっちは屋根は茅葺きで立派な感じがします。
よく見ると、屋根自体、なだらかな曲線で意匠されています。
優美さを意識させたものなのか、どうか?

江戸期って、なんでも身分制による「格式表現」が強制された社会で、
門というのも、身分によっていろいろなしきたりがあったのだそうです。
詳しくはありませんが、こういう門はかなりの身分に相当したのでしょうね。
いまとなっては、そういう社会的な決まり事は不明になっているので、
よくわかりませんし、伝わってくる直接性に欠けてもいると思います。
門に屋根まで架けるというのは、
結界の表現とは言えるでしょうね。
塀によって、外界とは違う世界を内部に作り上げ
その内部と、外部との接点表現として、
心理的区切りとして、こうした門を意匠したと言うことなのでしょう。
屋根まで架けられていれば、雨の日などは
その下で、身繕いも出来ますよね、
身だしなみを整えて、お入りくださいね、
という「亭主」側のサイン表現になっているものなのでしょうか。

というような「門外漢」の雑念がいろいろにふくらんで、
想像力が掻き立てられます。
でも、建築って、とりあえずはあるがままの機能表現が
その本質的な役割と意味合いを直接にあらわしているものでしょうから、
あたらずとも遠からずではあるのでしょう。
でも、塀の屋根と門の接合部には、飾りの木型が嵌められていたり、
いろいろのディテールでデザインが凝らされています。

さて、現代住宅ではこういう門、ほとんど作らなくなっていますね。
社会的ななにごとかをあらわす様式的表現が忘れ去られたこと、
そして機能性としても、ほとんどの「用」が
意味をなさなくなってきた、という部分が大きいのでしょうね。
そういう意味で、門というのは、
身分制社会の大きな文化遺産として、歴史のなかに消えていくものなのか?
どんなものなのか、よくわかりませんね。ふむふむ。

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2006年09月21日

流鏑馬、難しそう

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先日、国宝ということで有名な仙台市内の大崎八幡神宮に
ちょっと時間があったので、商売繁盛のお札を買い求めに行ったら、
なんと縁起良くも、流鏑馬の神事を執り行ってくれておりました。
テレビでくらいしか、見たことがなかったのでありがたく見学いたしました。
けっこう黒山のような人だかりになっておりまして、
お馬さんも緊張するし、人間さんのほうも緊張気味。
まずは写真右のように、輪乗りをして落ち着かせていましたが
紹介のアナウンスによると、射手のひとたちは、普段は
ごく普通の生活をしている一般人。
まぁ、神社の氏子であることはそうなのでしょうが、
どうみても普段から乗馬の練習をしているようには見えません。
そういうひとが、たいそうに名前を挙げられていくので、
傍目に見ても、ちょっと気の毒なくらいの緊張ぶり。
神宮の参道脇を、お馬さんを走らせながら、
3回の射的機会で、的を狙っていくのですね。
セレモニーやら、練習のようなことを何回か繰り返して、
いよいよ本番。
しかし、馬に乗って、手綱を持たずに下半身だけで馬を御しながら、
弓を構え、短い時間に矢を射る、って、そりゃ不可能。
3回の射的機会に2回矢を放てれば、まずは上出来。
確か、3人の方が挑戦されていましたが、
2回射的出来たのは、ひとりだけでしたね。
まぁ、素人の方にちょっとの練習で、というのは難しいようです。
でも、なんとか矢を放つと、沿道の観衆からは大歓声。
あの緊張感のなかで、よくぞ矢を放つものだと、みんな一緒になって応援していたのですね。

何も知らずにふらっと行って
たいへんめずらしい儀式を見学することが出来ました。
ありがたく、楽しむことが出来ました。
終わってほっとしているでしょうね。みなさん、たいへんお疲れさまでした。

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2006年09月17日

城郭の基礎、石垣

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鉄筋コンクリートというものの発明というのは、
近代の建築最大の発明で、その結果、それまでの素材に依存せざるを得ない
デザインから、より自由な造形表現が可能になったと言われます。
固まるまでは液体状で、鉄筋という芯材と組み合わさって
構造的安定性も得られるというすばらしい建築的自由をもたらしたのですね。
住宅建築でも、基礎がこうして作られることで、
飛躍的に建物の構造安定性が向上したのだろうと思います。

さて、そうした近代技術の恩恵のない時代、
自然石を組み合わせて作る石垣は、洋の東西を問わず、
炭素年代的な耐久性を持つ、ベーシックな建築素材だったろうと思います。
戦争への防御の用を満たす素材として、石垣は変わらぬ、基本材料でした。
写真は石垣の構造的な断面図。
構造を見ると、盛り土に対して、より細かい石の層があって
その表皮として、目にする大きな石を使った石垣があるのだそうです。
これは、石垣全体として圧力を分散させる働きがあり、さらに、排水性を高め、
そうすることで盛り土の水分上昇に伴う崩壊を防いでいたのですね。
また、勾配の曲線は上に乗っかる建物の加重を上手に支える構造。
こうした構造配列に踏まえながら、
自然石をそのままに積んでいったり(野面積み)、
角を槌で叩いて組み合わせやすくしたりして、
いろいろに工夫をしながら、石を組み上げていったようです。
大きな石を切り出したり、運んだり、自然の起伏を利用して土木作業していった結果が
こうした石垣になっていったのですね。
昔の公共事業といえば、こうした技術がベースだったのです。
技術はやはり、戦争が最大の動機で発展するものなのですね。むむむ。

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2006年09月16日

重厚な壁の作り

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城郭の壁って、白い壁としか印象を持たないものですが、
その作りようが会津城内に展示されていまして、コンクリートのない時代に
鉄砲への防御性能をどう高めるべきか、の工夫というか、努力の跡がわかりました。
この城壁、維新戦争時には、新政府軍の大砲の砲弾を無数に浴びて
穴だらけにされたのだそうです。
そのうえで、勝者の新政府軍はこの城を棄却したのですね。
しかし、地域の人たちの城への愛着が
こうした復元工事となり、今日に城郭は遺されているわけ。
こんにちであれば、一般的な住宅であれば、石膏ボードを張って
そのうえからクロスを貼るなり、珪藻土などを塗るなりして仕上げます。
非常に簡便に出来るわけですが、
そういう便利なもののない時代、ひたすら人力で手仕事を架けていきます。

この写真のように、竹で格子状に柱間に下地を作ります。
それをワラ縄でしっかり固定させる。
竹小舞下地というのだそうです。
それに対して、土を何回も何回も塗っていく、という作業。
最終仕上げの漆喰塗りまで、
なんと、この会津城では復元時、十数回の左官作業を繰り返したのだそうです。
全体では1年半、工期がかかったとか。
逆に言うと、こんにちではこういう作業が簡略化されて
左官仕事が減っていき、手仕事の良さの部分が失われていっているのですね。
まぁ、今日の工法の結果、壁の中にグラスウールが充填されて
断熱されていくわけですが、こういう伝統的な工法を生かしながら
現代の断熱工法を行っている事例などもあります。
今日の壁の作られようとはあまりにも違いがある、
まさに手間を掛けた、人間の手業の残る、作られようですね。

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2006年09月15日

料理に残る歴史

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なにげなく会津の城で展示を見ていたときに見た「郷土料理」。
北海道で捕れるニシンの保存食、身欠きニシンを醤油と酢で味付けして
山椒の葉とともに重しをして漬け込む「ニシンの山椒漬け」。
なんでこんな料理が、と思ってみていまして、
その後、ちょっと調べて見た次第。

会津藩は江戸期で有数の国学がさかんな藩でした。
そうしたことから、幕末の列強による開国要求に対して
積極的に攘夷を主張した藩。
なので、蝦夷地の警護を自ら志願して行ったと言うことなのですね。
1808年に会津藩士1600名が樺太や蝦夷地で106日間、警備したそうです。
そのときにこの料理が会津にもたらされたのだそうです。
警備は厳しい自然条件との格闘だったのです。
司馬遼太郎さんの歴史ルポルタージュ(と、しか思えない調査力)によれば
この江戸期の蝦夷地警備の悲惨な実態はまさに目を覆うばかりで、
会津藩の場合はこの間での死者は50名と言うことで、
死亡率は3%程度ですが、他の藩の記録では
越冬しての任務の場合、死亡率がうなぎ登りで
場合によっては半数近くが死んだという過酷さだったそうです。
こんにちの自衛隊イラク派遣では幸いにも死者が出なかったのですが、
特段の戦争行為もないのに、この異常な死者の数。
これは蝦夷地の気候条件と食糧の問題で、
寒さの厳しい冬場に新鮮な野菜を食べることが出来なかったことによる
栄養失調が原因だったと、司馬さんは書き残しています。
会津藩がどの時期に警備していたか、までは不明でしたが、
いかに北海道の気候が彼らの生活を苦しいものにしたか、
想像するにあまりある死者の数です。
南方型の生活様式、装備の軍が、一発の銃弾も発することなく
その3%が、病死に追いやられる気候条件。
日本は寒さに対して、いかに無防備な文化であるか、
こんなことからもまざまざと実感することが出来ますね。
そんな思いで、見てみれば、なんとも胸に迫ってくるものがある料理です。

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2006年09月14日

会津鶴ヶ城

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城って、いったいどういうものだったのか?
現代の感覚で言えば、各地の、
たとえば北海道庁と、北海道警察が近接して建っているのですが
そういうようなものである側面が第1.
こんにちではそこにいる実体は、選挙で選ばれた人間と、
国家権力機構の末端権力維持暴力装置としての官僚がいる。
それに対して、城にはナマな権力者としての殿様がいて、
通常は代行者としての「国家老」が最高権力執行者として存在している。
ナマではあっても、通常は法人的な概念で運営されていた。
だから、一般的には薩摩藩だとか、会津藩などのように
地方の名前で呼称されるケースが多かった。
いずれにせよ、城って、政治と軍事の機能が第1だったのでしょうね。

全国に残っている城のなかで、ナマな戦争道具として
最後の攻防戦が戦われたのが、この城だったのですね。
会津鶴ヶ城は明治政府軍の無数の砲弾をあびて
敗北したこともあり、戦後、棄却され廃城となった歴史があります。
その後、市民の総意で再建され、さらに更新されながら
現在に至っていると言うことでした。
前時代の機能性を失いながらも、建築として、再生されてきています。
いまの時代に、それでも愛着を持って市民に愛されているからこそ、
そのように利用されているのでしょうね。
というか、観光資源であったり、地域の統合シンボルとして
現代では利用価値がついて存続してきているものなのでしょう。
札幌など、北海道にはこういう城がないもので、
代替として、北海道庁赤煉瓦庁舎が遺されているのですが・・・。
この会津鶴ヶ城は再建されたものとしては、実によく整備されています。
近接して建てられている左手前側の棟には
再建時の様子が写真で記録されてもいて、
建築の様式も、よくわかりやすく展示されていましたね。
また、広い敷地内には茶室建築も遺されていて、
これもまた、素晴らしい建築として保存されていました。
あしたはちょっと、この茶室を見てみたいと思います。

きのうの日ハム。西武の松坂君、すごいですね。
まぁ、まったく手も足も出ませんでした。
完敗です、まいりました。ハイ。
でも、まだ諦めませんよ。何が起こるか、目は離せません、パリーグ。

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2006年09月09日

楽寿亭

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さて、すっかり会津紀行になって参りましたね。
それも、どちらかというと、反権力的に反発混じりな書き方になっています。
遺された建築から見ると、維新のころの悲劇のイメージとは
むしろかけ離れた、泰平の世を楽しむ将軍家一族の
優雅な享楽ぶりの方が明確に伝わってきます。
確かに日新館などの教育への関心の高さなど
瞠目させられる部分もありますが、
会津は、維新の政治混乱をうまく渡り終えられれば、
まったく違った印象で今日に至っただろう古都なのですね。

優雅でおおらかな武家貴族としての
生活享楽ぶりが、なまなましく伝わってくる感じがします。
というか、わたしはどちらかといえば、明治維新から始まる近代日本の
側から歴史を見るクセがあるもので、
どうも、江戸期の勝者の側の遺物に接すると反発心が起こるものなのでしょうか?
どうもみずみずしい感覚的な躍動感よりも
泰平的な享楽感しか、建築からは感じることが出来ません。
どうも、江戸初期に大活躍したという小堀遠州という
ひととその一派の感覚が、体制翼賛的であったのではないか、
などと八つ当たり的に感じてしまうのでしょうか。

御薬園に建てられた、この「楽寿亭」と名付けられた建築も
まことに「結構」で、申し分なく現世享楽的であると思います。
池に向かって、狭い敷地にその内部からの眺望を何より優先させた
建物らしく、傾斜敷地に対して大変華奢な基礎構造が
露出していて、軽快感を表しています。
盆地で、暑い夏を持つ会津での納涼のための建物と感じます。
左側写真のように、建物内部からは池に建物が浮かんでいるかのように
設計意図されていたのでしょう。
この地域独特の、という指向性ではなく、
より南方日本の、本流的建築様式文化を、そのまま、
この寒暖の激しい気候を持つ会津に持ち込んだもの。
なので、この建築と園自体、もっと南方日本にあったほうが
似合うのではないか、ここに存在するアイデンティティがどうも弱く感じる。
という次第です。

どうも、冬の寒冷積雪の時期にはじめて会津を通りかかったので、
ほぼ北海道と変わらない、その印象が先に来てしまって
こうして訪れた建築に対する印象が、
素朴に受け止めていない部分があるかも知れません。
ただ、どうもこの権力者が遺した建築からは
「会津らしさ」というものをあまり感じなかったということですね。
単純に伝統的建築として、その日本的感受性の表現としてみれば、
どれもすぐれた文化遺産であることは、
もちろん論を待たないとは、思います。


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2006年09月08日

ありがたく押しつけられた、開放的日本建築文化

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昨日の続き。会津松平氏の庭園、御薬園の眺望。
園には、藩主が家来に賜り物などするときに使用されたという茶屋があります。
現在はそこで茶など振る舞っていただけ、庶民が楽しむことが出来ます。
やはり松平家ということで、かなりのゆとりが感じられます。
同じ地方権力者、封建貴族とは言っても、
外様の大名などは、ここまで贅沢なしつらいはしていないのではないでしょうか。
中央権力に対しての遠慮という感じはありません。
むしろ、奥羽や北越の外様諸藩に対しての抑えの配置であった
会津藩の勢威を誇示するかのような贅の尽くしよう。

現在は庭に面してガラスの引き戸が全面に入れられています。
昔は、緋毛氈の敷かれた外側は板敷きの縁で、
もちろん建具は入れられていなかったそうです。
この建物は創建当時から、冬場の対策は一切顧慮されていなかったようで
雪や寒さによる劣化の進行が著しく、
また、数寄屋建築としての構造造作材の繊細さなどから
早くも創建から80年ほどで、主体構造に対して大規模な改修が加えられた
という記録があるのだそうです。
これほど南方型の開放型建築であるので、もちろん
室内での冬期の環境などはいっさい無視された上、
構造の柱など、きわめて繊細で、冬期の会津の積雪には
とても耐えられなかったのでしょうね。
日本建築の特徴、数寄屋の精神性のみをありがたがって、
その建てられる地域の気候風土に対する配慮、というものが見られなかった。
なにやら、現在まで続く建物文化の素形があらわれています。
こういう殿様は、たしかに建物が壊れていっても
また修復するのに、民百姓から巻き上げれば良かったのでしょうから
そういう部分に気を使ったりしないのが
基本的なスタイルだったのでしょう。
日本は文化としては中央志向が大変強い国民性ですから
長く、こういう建築文化が存続してきたのでしょうね。

アジアのなかで、きわめて国際的にも高水準な封建システムを完成させながら
それが地生えの豊かな特色を生み出す方向には働かず、
民百姓に対して、おれらはこういう
ありがたい中央の文化を楽しむ特権階級なんだ、
という差別意識の誇示のために建築が作られてきたのでしょうか。
たとえば、会津の冬期の厳しい気候風土のなかで自分たちの贅沢のための予算を、
その気候生を克服して、あたたかい生活文化を生み出すための
研究開発費用として提供していくというような考えには
当然行かなかったし、そういう実学的な実用的な考えを持つ
よき君主も現れたりはしなかったのですね。
こういう厳しい寒さの会津で、なぜ東アジア一般の「暖房システム」
朝鮮のオンドルのようなものに技術開発が向かわなかったのか、
お金の使い方が、なんとも無駄だなぁ、と思いました。

ここは会津だろうが、冬に凍結した雪景色の池を
素寒貧なかっこうで眺めさせられていたのですか?
と、突っ込みを入れたくなります。
ありがたい中央の日本文化そのものを直輸入して
ふるえながら、少しの間だけ楽しめました、という眺望です。

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2006年09月07日

江戸期の大名ガーデニング

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先日、会津に行って参りました。
以前から東北のなかで会津だけなかなか行けなかったので、気になっておりました。
会津は要衝の地であり、本来であれば、「福島」県ではなく
「会津県」で良かった文化伝統にも満ちた地域。
維新戦争の結果、政治的にもっとも損な役回りを、
それこそ、「会津っぽ」らしく引き受けた誇らしく悲劇的な歴史を持っています。
当時の政治情勢の中で、権謀術策うずまいていた京都政界で
政治家としてはあまりにも稚拙で純粋すぎた当主をいだいていたのでしょう。
ただし、わたしたちの維新史のなかで、会津が果たした役割という意味は
決して小さくはないと思います。
筋を訴え、天下の軍を引き受けても節義を重んじて殉じた
その姿勢が、日本近代に一本の筋を通したと考えるのです。
いわば政治的にはまったく敗北したけれど、
精神文化としては、ひとつの典型を啓示したといえるでしょうね。
かくいうわたしも、そういう部分に惹かれるものがあって
どうしても一度、会津の地に触れてみたい思いがあった次第。
ということで、とりあえず駆け足で歩いてみました。

写真は会津松平氏の作庭による「御薬園」。
江戸期初期、大名たちによる庭造りがブームを迎え、
兼六園などが著名ですが、各地にいろいろな庭園が造作されました。
そういう時期に広く活躍していたのが小堀遠州というひと。
「遠州流」という体系化された作庭術の開祖とされた人物。
ま、いってみれば広い意味では、特殊な建築家ともいえますね。
この庭は、小堀遠州さんの死後、その流れをくむ目黒浄定というひとの作とされます。
このように、造られた庭に対しての近代的自我としての作者名が遺されている、
そのこと自体、たいへん建築的であると思います。
写真は、「この位置から見る眺めがいちばん」とされた位置からの眺望。
どうもこういうの、決めつけられるのは好きではないですが・・・。

一見での訪問者ですので、まずはオーソドックスに従って。
こういう山水を、素になる地形を生かしながら作っていくのですね。
そのなかで当然ですが、茶室・茶亭が重要な点景。
ロケーション造園としては、たいへんわかりやすいと思います。
確かにいろいろな絵画的要素が寄り集まって
オーケストラのような景観を形作っていますね。美麗なガーデニングです。
建築の方では、会津はかなりの寒冷地ですが、まずそういう配慮は
皆目見あたりません。
むしろ、文化先進地の京都などの建築スタイル文化を「そのまま」
それぞれの地域で「も」、存在させることが
日本の封建地域権力者の権威誇示の伝統的基本スタイルだったのかも知れません。

まぁしかし、この庭の工費を考えてみましたが、
すごいものですよね。
そうは生産力が大きくない時代に、こういうものに文化的浪費を
楽しんでいたのですね。すげーなぁ、と。
ということで、会津探訪、またときどき触れたいと思います。


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2006年09月01日

国際都市・京都

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京都って、なんかイメージとしては
「日本的」とかいう感じの方が強いのだけれど、
行けば行くほど、世界でも有数の洗練された国際都市だった、
という部分に目を奪われます。
写真は日本のいろいろな「伝統芸能」を、ほんのさわり的につないでいく
いわば、日本紹介的なオムニバス舞台。
ちょうど左手は一番最初に出てきた宮廷舞踊としての舞楽。
ほぼ日本の芸能の発生年代的に並べられていきます。
そういう意味では、わかりやすいし、興味も強まる。
終わり頃には、右側の写真の舞妓さんも登場。
いちばんの売れっ子の舞妓さんだそうで、
こういうひとを呼ぶところで呼ぶと、
すごい金額になるのでしょう、きっと。
たいへんあでやかな、日本女性の仕草の美しさを
結晶のように散りばめた、ひと差しの舞いでした。

この舞台はほぼ毎日開演しているようで
会場は、それこそインターナショナルな観客ばかり。
会話は日本語がほとんど聞かれません。
伝統芸能って、解説とかを聞きながら見た方が
始めて見るときにはわかりやすいのですが、
親切にそういう心遣いもあって、わたし間違えて、しばらく
英語の解説を聞いてばかりいまして、
でも、非常にわかりやすい単語を心がけている解説で
日本人でもかえって、新鮮にわかりやすかった記憶があります。
たしか入場料金も、映画程度の金額だったと思います。
外国から来たひとの方が、こういう伝統芸能についての知識が
豊かになるだろうなぁ、と感じ入りました。
京都は、ながく日本の首都だったので、
こういった、エトランゼへの配慮がたいへんきめ細かい文化を持っています。
外国人とはこうやっておつきあいをすべきだ、という
わかりやすい規範をしっかり、文化伝統として持っている。

というよりも、そもそも計画都市として作られたのが京都。
その前身の奈良などの古都の経験も踏まえて
広く世界に開かれた日本の姿を体現させた、
いわば、日本の伝統的な外交姿勢を明確にしている気がします。
広いアジア交流の結果が、こんにちの日本の根幹部分であると
京都散策すると、きわめて自然に理解できます。
先人たちの知恵を深く感じる部分ですね。
いろいろなところで目にする蓮池まで、
あれは自生的なものではなく、アジアからの輸入品を博覧会場的に
展示装置として、計画的に作ったものなのだそうですね。

いろいろ問題の多い最近のアジアとの付き合い方。
いっそ、外務省は京都に戻して
その精神で日本の外交姿勢を再構築した方がいいのではないでしょうかね。

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2006年08月19日

金閣

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写真を整理していて発見したのがこの金閣の写真。
いかにも、という観光写真の極めつけ、という感じですね。
以前、Microsoftのビルゲイツが全世界の写真の権利を買い漁っていて
このアングルからの金閣の写真の権利登録をしている、
という話を聞いたことがあります。
権利の限定性がかなり難しいだろうに、また権利侵害をどう調べるのか
そのニュースを聞いたとき、よく理解できなかった記憶があります。
にしても、Windowsって、儲かり過ぎですよね。
いまや、ほとんど税金と代わりありません。
ソフトウェアの値段って、もう少し激しい競争が起きてくれないと
ユーザー利益になりません。
現代の著作権関係の法律と、技術の社会発展でみたら
いまの現状は、けっして社会の全体から考えて、いいとは思えません。
単にOSのアップグレードという比較もおかしいけれど、
かろうじて存在する競争企業、Appleの最近の進化と比較して
確かにマネはしているけれど、あまりにも想像力がない。
そのうえ、技術的にはほとんど進展していない、停滞している。
結局、金だけ集めて巨大化したけれど、いまはその金を使って
市場に追随しながら、めぼしい技術を金で買いあさるのがビジネスになっている。
今度、大掛かりに取り組むのがiPodの二番煎じのZuneというヤツだそうですね。
そんな考えをするよりも、きちんとVistaとかいうバージョンを
言った通りの機能をしっかりつけて、約束通りの期限に出荷することに
専念すべきだと考えるのは、Macユーザーの気楽さが言わせるのでしょうか、ね。

さて、テーマが大きくずれていますね。
金閣、です。あまりにもポピュラーな建物なのですが
世界的にみて、どうなんでしょうか、木造で金箔を張りまくって、
こういう金ぴかの建物で、長く存続してきた建築って
どうなんだろうか。とは思うのですが、
こういう建築の感性を生んだのも、わたしたちの歴史なんですよね。
よく解説されるのは、戦国時代に至るこの時代の「バサラ」精神の発露、というもの。
絶えざる「下克上」が日常化して、非常に流動性や対流性の高い社会になって
そのことが、こういう表現を生み出す感性を育んだ、というもの。
まぁ、よくわかりませんね。
でも、こういうキッチュな衣装をまとっていますが、
プロポーションとかは、専門書を見るとかなり完成度が高い、ということ。
ほぼ日本人なら、だれでも見たことがある、代表選手のような建築ですね。
きっと、意識下の世界でも、この建物に影響を受けている部分があると思います。
日本人にわかりやすくひとつの典型的なるもの、を提示した、という意味で
やはりすごい建築だったといえるのでしょうね。

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2006年08月15日

京都のおいしい水

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浄土・・・のテーマでブログを書いて
写真を探していて、そのときに京都旅行の時の写真が発見できて以来
どうも、写真からブログのテーマに、
という安直路線になってしまっております。(冷や汗)
なんですが、どんどん思い出してきておりまして(笑)
本日も、暑い盛りと言うこともあり、
京都のおいしい水のお話。
京都と言うところは、ちょっと井戸を掘るといい水がわき出す土地柄。
伏見という酒処がありますが、あれはこの水の豊かさを
産業として生かしたものなんだそうです。
江戸期までの日本では、酒造りというのは、
もっとも究極的な食品産業だったそうで、そういう面でも
京都という存在は、産業品質の面でも日本を引っ張ってきた首都だった。
よく「くだらない」という言葉を使いますが、
あれの語源は、江戸の人たちが京都からのうまい酒を極上品とあがめ、
京都から下ってきた「くだりの酒」と表現し、
それ以外の酒を一段見下ろして表現するときに
「くだらない」として使ったのが始まりとか。

まぁ、写真は町家建築の見学で訪れた造り酒屋さんの中庭の井戸なんです。
自由に飲んでください、ということで炎天の暑さのなか、
いただいた一杯の水は、たしかに澄んだ清冽なみずみずしさ。
周辺の北方の山地からの伏流水なんでしょうが、
強烈な暑さと対照的に、きれのある味わいです。
御所のなかにもわき水が出ていると言うことだそうで、
京都は、豊かな地下水の上にある都なのですね。
だから、千年間、日本の都になれてきたのかも知れません。
って、よく「千年の都」という言葉がありますが、
京都は本当に千年間、都だったのですよね。
風水的にまさに理想郷的な配置にある、とは言われてきましたが、
この豊かな水が、どうもいちばんのポイントなのかも知れません。

で、この酒蔵で、重々しい扉を開けて、
昼間から、利き酒させていただけまして、
身も心もすっかり清められ、元気はつらつとなった次第です。
ホント、銘酒はいい水とともにあり、をたっぷり体感いたしましたです、・・・ハイ。

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2006年08月13日

浄土への思い_2

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さて、きょうは朝から墓参り。
年々、朝のお参りラッシュの混雑が激しくなってきているなぁと感じます。
ことしはきょうがピークなんでしょうかね。
わが家は同じ墓地に、わたしの家の父母が眠る墓と、
カミさんの実家の墓、さらにカミさんの母の実家の墓と3つの墓が
一カ所にまとまっていて、墓参は便利なんですが、
さすがに行きも帰りも、まだ7時頃なのに、チョー混雑しておりました。
でもまぁ、無事終わって、なんとかこころに安堵感が広がります。
お盆に墓参りって、アジア人共通のような習慣でしょうが
先祖との同一性を感じる機縁ですね。
やっぱ、捨てがたい精神性をもったイベントです。

写真はきのうも触れた龍安寺の石庭です。
禅、という世界を視覚的に表現した傑作の庭園です。
毎日、この石庭は丹念に掃除したり、管理し続けてきたのだろうな、
その年月の積み重ねだけでも、畏敬の念を起こさせてくれます。
訪れるたびに、石庭に向かって座り込むのですが、
雑念と妄想のみわき上がる罰当たりな自分の存在を思い知らされる庭です(冷や汗)。
この石庭は、開園以来、さまざまな俗説を生んできたようですね。
いわく、海に浮かぶ島々だとか、いや宇宙を表しているとか、
こじつけに終始してきていますよね。

しかし、石だけで、なにごとかを表現しようとしたことは間違いがなく
その超表現主義とも言える意志の力には
ひとを圧倒するようなパワーを感じます。
そうしてこの庭を訪れる人たちと、この庭は長い年月、
対峙してきたのですね。
まったく、表現をひとつのなりわいとしているものには
揺り動かしがたい、大きな山のような存在だと、深く思い知らされます。
この庭が表現しようとしたのは、やはりなにごとかの
宗教的な思い、涅槃浄土への切なる思いであっただろうと思い至るとき、
自分自身も、こういう文化世界のなかに存在することに
深くわき上がってくるものがあります。
いつ訪れても、結局、「これはなんなのだろう」という問いを
内語として発し続けながら、なにひとつ悟りうるものがなく、
ただただ、煩悩と迷いの世界から抜け出せないのが、凡人なのだろうと思います。

お盆に、ふと書いてしまいました。
わけわかんないブログで恐縮です。
みなさん、よい夏休みをお過ごしください。
って、ブログはエンドレスで毎日更新しますので、またごらんください。

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2006年08月12日

浄土への思いと建築

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日本の建築のなかで、きわめて大きな部分を占めている寺社建築。
これらは、その時々の権力が、
まつりごと、として取り組んできた勢威を表すとともに
建築としてみたときには、一貫して宗教的なイメージの実現がテーマ。
古代律令制としてはじめて成立した時期の奈良の都の大寺院からはじまって
そのことは連綿と続いてきている気がします。
なぜか、日本では「篤く三方を敬え」という聖徳太子の言葉が
日本的権力の伝統的なかたちになってきた。
一種の公共事業的な性格ももっているのだけれど、
たとえば奈良の大仏は、当時の天皇が発願して、
全国からお金を集めるべく「勧進元」が指名され、
苦難の末に金を集めたうえで、税金の一変形としての労働奉仕によって
人員が動員されて、できあがったという経緯になっている。
それらのプロセスで、交わされるコミュニケーションのなかで
多くの人に一貫するのは、宗教への畏敬の念ともいえるべきもの。

なぜ、こうまで宗教的な要素が人々の心を打ちつづけてきたのか?
そもそも宗教とは、なんだったのか?
キリスト教、仏教、イスラムなど、
世界中で、ほぼ同時期に宗教というものはスタートして
深く社会や政治に関与してきているのが現実なんですが、
そもそも、まつりごと、という言葉に、政、という字が当てられている
その意味というのが、まだしっかりとは追体験できていない。
やはり、倫理としても自分は支配するに足る存在なのだ、という
メッセージを込めて、いわば権力の正統性を証し立てるものとして
こういう宗教的権威を使ってきた、ということではあるのでしょう。
そういう意味では、権力の内面性を表したものなのか?

写真は、京都・龍安寺の様子です。
石庭が有名なお寺ですが、反対側の庭園と建物のアングル。
柱・梁・軒、縁といった建築要素と
対照をなす庭園の様子、周辺の自然との境界の塀といった
視覚要素が動員されて、
ひとつの宗教的示唆を表現しようと考えたのでしょう。
美しい調和の世界。いわば理想郷としての涅槃・浄土が
この地上に、このように表現されたと言えるのですね。
日本で独特に進化したと言える禅の考え方が
込められているということなのでしょう。
そういう意味では、博覧会的な、一種の展示装置であったのでしょうか。

まだまだ、こういう部分は、リアリティは完全には持てておりません。
しかし、建築がこういう示威や誇示の最良の道具・手段だった
ということは理解できますね。
たしかにこういう空間に出会えば、ひとは宗教的体験をしたと認識するでしょう。
そういう意味では、芸術に近い「体験性」を持ってもいますね。
このテーマ、まだまだ奥が深いですよね。むむむ・・・。

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2006年08月11日

能面のいろいろ

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きのうの続きなんですが、演目は鬼に関連するもの。
安倍晴明が出てきて、ある鬼の内面に入っていく、というようなお話。
情念の演劇らしく、鬼になった女性の内面世界を
なぜ鬼になったのか、その情念のこりかたまりを
演劇的に表現するというのですね。
案の定、夫の不実に怒って、その嫉妬の念が段階を追って描かれていました。
写真は、演目の鬼に合わせて、能面を展示していたもの。
鬼って、みんな同じかと思っていたら、
それぞれ恨みの情念の深さに合わせて、違いがあるそうです。
右の3つがそうなのですが、鬼の表情が変化していく様子が表されています。
生成(なまなり)→般若
という順番なのだそうです。
般若になると完全に角が飛び出していますが、
生成という段階が面白くて、少し角がでているけれど、おかしみもある。
名前が、なまなり、なんて、笑えます。
般若にも、顔の色の変化があって、違いがあるようです。

どんな時代にも、こういう嫉妬などの人間感情はわかりやすく存在するし、
能という形式が、動きを極限まで制約しながら
たどりついた表現世界は、こうした情念の世界だったのですね。
とくにこういう鬼の表情の表現力って、
すごくリアリティがあり、ストレートに迫ってくる感じがありますね。
やっぱり、恐怖心とか、恨みとか、嫉妬とか
そういう情念って、人間の想像力を大きく膨らませます。
男性は、こころしてしっかり見ておかなければなりませんね。(笑)

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2006年08月10日

能舞台〜伝統芸能

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写真は6年ほど前に旅行で行った大阪での能舞台です。
娘に伝統芸能の素晴らしさを感じさせたいと
いっしょに観に行ったのですが、それ以上に自分でも
感動してしまった舞台でした。
能鑑賞って、伝統的に貴族的な趣味とも言えて、
一部エスプリのものというイメージがあり、縁遠く感じるものですね。
宮沢元首相の趣味の欄に「能鑑賞」とあって、
そういうものか、と思った部分があったものです。
ただ、日本の芸能の歴史を見れば、
それぞれの芸能が、折り重なるように積み上がってきているのがよくわかります。
たとえば、猿楽から、能・狂言への進化、
それをよりデフォルメしたような、歌舞伎の登場という流れ。
ごく現代的に言えば、映画とテレビの重なりよう、もアナロジー出来ます。
テレビが登場して、映画がなくなる、という俗言も出たけれど、
そうではなかった。結局、その本質を活かして存続している。
より大衆化して新しい芸能の「スタイル」は生まれるけれど、
以前のものも、存続してきていますね。

能について言えば、テーマが日本的感受性だな、といつも感じますし、
狂言は、日本的農耕を踏まえた日本人の体の使い方、を再認識させてくれます。
人形浄瑠璃なんか、人形を使う分、その要素がもっと極められているかも知れません。
一度、人形浄瑠璃を見ていて、田んぼで低い体勢をとり続けているうちに
がに股で、短足という、一種の畸形化ともいえる動きを見せられて
驚くとともに、現代人にこうした要素が消えている強い実感を持ったものです。
そういうものを伝えていくという意味でも、こういう伝統芸能は
一見する価値があると思います。
わたしたちには祖先があり、それは日本人なんです。
祖先が感じた感受性や、義理人情の生きにくいしがらみ、家族の関係性
「家」というものが持っていた重み、などなど、
知りうることは、まるで宝箱のように詰め込まれていると感じます。

能舞台、という装置の意味はあまりわからなかったのですが、
この時に、演技者のみなさんが床を強く踏みならすことで、
この能舞台自体が大きな打楽器として考えられている、という側面を
発見できて、びっくりした記憶があります。
舞台の奥に笛や太鼓の伴奏者が座って演奏しますが、
クライマックスで、演技者の床の踏み叩く音と、伴奏の音が
渾然一体となって、大団円を演出していて、感動した次第。
単純に「すごい!」と打ちのめされましたです。
伝統芸能のパワーを、思い知らされたような瞬間でしたね。

能舞台って、金持ちになると自宅に作る、っていう趣味が存在するそうです。
ホエー、ってとこですが、
最近、北海道内で、「将来は、家の敷地に能舞台を・・・」という施主さんを取材して
びっくりしたものです。
建物だけではなく、こういう能の一座を呼ぶ必要もあるのですから
すごい趣味だなぁ、と恐れ入った次第。
でも、なんかワクワクした気持ちでした。

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2006年08月08日

日本人と土地_4

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ひきつづき、吉野ヶ里の写真から。
これは城郭側から周辺の倉庫群を見たところ。
倉庫の外側にも逆茂木が張り巡らされ、全体が防御されています。
こういうかたちで基本の食料が管理され、
それを恒常的な武力で守り、また隙あらば、他国を侵略しようと
虎視眈々と狙い続けていたのですね。

魏志倭人伝の「倭国大乱」というのは、こういう恒常的戦争準備から見て
むしろ平和でのどかな「弥生」なんてなかった事実を伝えてくれます。
わたしたちの受けた教育では、どちらかといえば
栽培型で穏和な生産システムが弥生的稲作農業で、
狩猟採集型の縄文システムは野蛮でおどろおどろしいイメージで
語られていたのではないかと思います。
でも、こういう丹念な復元努力や調査研究が指し示してくるのは
大がかりになった人間同士の殺し合いの進化。
鉄も青銅も、こうした集団に付属した形で抱えられていて
とくに鉄は農業生産を高める切り札ではあったのでしょうが、
秀吉の刀狩りを見るまでもなく、
どこまで農業用で、どこからが人殺し用だったのか、
境目はわかりにくいと思います。
こういうの、現代の核を巡る技術と似ていて、
原子力発電の技術蓄積が十分な日本は、潜在的核保有国ともいえるようなもの。
(たぶん、世論意志が定まれば、数日で日本は核を持つでしょうね)
しかしこういう部分を、現代の私たちのモラルから考えるのはナンセンスであり
逆に今の時代の表面的な平和の方が不思議な光景であるのかも知れません。

いずれにせよ、歴史のなかで土地の果たしてきた役割をすこし考えてみただけですが、
日本人の土地信仰はこういう歴史を背負ってのものであり、
草の根的な根がらみな、根源的なものなのですね。
どうも、欧米のような狩猟採集と、農業の組み合わせのような歴史とは
意識の上で、だいぶ違いがあるのだろうと推察できます。

ちょっとしばらく、歴史ネタにこだわってきましたが
あしたからはまた少し趣向を変えたいと思います。
っていうか、きょう札幌は沖縄以上の暑さで、スタッフから
「ビアガーデンとバーベキューやりましょ!」
という声が出ておりまして、その準備にもかからなければなりません。
花火も用意すっかなぁ(ルンルン)・・・
ということで、ではでは。

●番外の番外
最近、ブログ満1年を明日に控えて、サーバーの調子が悪くなって、アップ作業に手間取っております。
きょうもアップが大変遅れました。
なかなか原因特定が出来なくて困っていますが、なんとか「毎日更新」は継続しますので
ご愛読をよろしくお願いします。

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2006年08月07日

日本人と土地_3

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きょうもコメと土地のことについて。
写真は去年末に行った、吉野ヶ里遺跡公園の様子。
右側写真は城郭になっている外周の土塁と堀、逆茂木のようす。
逆茂木〜さかもぎ〜って、ちょっと怖いですよね。
で、塀が回された内部には、高い物見櫓が建てられ、周囲を監視しています。

この国に弥生型の生産スタイル、コメ生産システムが導入された年代は
今、研究がどんどん進められているところですが、
揚子江流域で10,000年前頃から始められた栽培型イネ生産は
そう、ほどもなく日本列島に技術がもたらされたようですね。
しかし、本格化したのは、やはり吉野ヶ里の時代なのでしょう。
たぶん、朝鮮半島地域などから、種籾を持って稲作集団が根付いたものと思われます。
コメは生産の各段階で、はじめから労働集約型としてできあがった生産様式。
田んぼ作りから、田植え、収穫の稲刈りに至るまで、
多くの労働力を集中的に動員する必要があります。
とくに田んぼ作りでは、適地の選定、奪取が不可欠だったのでしょう。
なので、初期段階から、明確に支配・被支配の階級分化があったと思います。
そして、ごく初期の頃から、写真で見るような
戦争への準備が不可欠だったのですね。
敵はたぶん、ごく近くの同様な「クニ」だったのでしょう。
日本人の基本的な性行としての、隣のムラ社会への尋常ならざる敵愾心って、
きっとこうした時代から、守りを固めなければ土地を略奪される
という恐怖心が、DNA的に植え付けられている結果じゃないでしょうかね。
逆茂木を実際に見ていると、この敵愾心の強さに愕然とします。
魏志倭人伝に、国が大いに乱れた、と書かれているのは
実は日本という国の、常態的な状況だったのでしょう。
常に、田の権利を巡って、となりの集落と相争うのが一般的だった。
水利、ということを考えても、日本社会のなかでは
こういう対立は、きわめて自然に存在したのでしょう。

世界的にももっとも狩猟採集生活大国だった、といわれる
縄文の牧歌的世界は、この殺伐とした、
しかし、大量の人口を養うに足る生産システムによって、
駆逐されていったものなのでしょう。
日本人の土地への執着の強さは、こういう血みどろの歴史が
いろいろに語りかけてくれます。
恐ろしいが、まさにバイタリティそのものの活力ある社会、とは言えますね。


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2006年08月06日

日本人と土地_2

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昨日の続きです。っていうか、お盆も近づいてきたので
歴史系のお話にしばらくこだわってみようかなと。

写真は、松本城資料館で撮影した「検地」の絵柄です。
記録性を重視した、一種の報道写真のような、迫ってくる迫力を感じます。
秀吉という中央権力段階になって、はじめて取り組めた検地。
それまでの権力も、具体的に全国でどれくらいの田んぼがあるか
調査したいと、念願しただろうと思うのです。なんといっても、
日本人にとって、コメ生産はそのまま経済行為そのものだったのですから。
保存可能で、逆に言えば「略奪」可能な
基本的な流通資産はコメであり、それを生み出すのは
田んぼしかあり得ないわけですから、強くこだわっただろうと思います。
しかしそれを完遂できるだけの、強い武力行使を伴った権力基盤がなかった。
信長や秀吉という、大量殺戮戦を経た中央権力の恫喝によって
はじめて、地方権力の側も渋々、協力したのでしょう。
この検地の結果で、はじめて具体的な領土の升目が定まったのですね。
どこが何万石、とかという土地の価値が定められたわけ。
そういう意味では、いまに至る「土地本位制」の基本がこうしたかたちで
スタートしたとも言えるのでしょう。
でも、検地が終わったあと、各地方権力は必死で
「新田開発」に没頭したことでしょうね。
江戸初期の検地と、末期の実高で、長州などは3倍も開きがあったと
司馬遼太郎さんの文章にも記述がありました。
経済基盤の拡充に、とくに外様の諸藩は必死だっただろうと思います。
中央権力に捕捉されない経済力を持ちたい、というわけです。
なにやら、税金逃れや隠し資産のようで、現代と同じかなぁ。(笑)

現代でも、財務省はいろいろに理由を設けては
増税を計りたいものだし、搾り取られる側は、必死で盲点を探る(笑)
結局、人間の営みには、大きな変わりはなくて
ただ、かたちがそれぞれの時代で変化すると言うことなのでしょうね。
そんな妄想がムクムクとわき上がってくる、検地の絵でした。
究極的には、やっぱ消費税は、すごいですよね。
税率のアップは既定路線なんだろうなぁ・・・やれやれ。

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2006年08月05日

日本人と土地

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きょうは久しぶりに歴史ネタで、行きたいと思います。
写真は先般訪れた信州松本歴史資料館で見かけた「検地」の絵と記録。

最近、鎌倉時代に凝っていまして
日本の歴史のターニングポイントだったんだと深く思い入れています。
弥生以来、日本の農地開発は一貫して、吉野ヶ里のような
力のあるものによる集団動員の結果、開墾されてきた。
それに対して、一時期の古代国家創成期に
土地の国家管理が法としては強制された。
たぶんその当時は、そのことに必然性がなかったわけではないのでしょうね。
しかし、こうした国有の形態は強制力の裏付けが乏しいなか
結局、大寺社や高級貴族たちによる資本投下での「荘園」が広がり
「私有地」という、権力分散が行われてきた。
公有田ではやっていけない、もしくはうまみが全くない
ということから、多くの人たちが「逃散」して、国家の経済基盤が
安定的に確保できなかったというのが実態だったのでしょう。
導入された私有荘園の元請けとして
藤原氏や大寺社の所有農地が拡大していった、と同時に
そういう階層に、実質的権力が移行していった。
鎌倉になると、そうしたシステムが究極化して
「寄進地形荘園」という形態で、関東地域の開墾地主が
藤原氏や、平氏に開墾した農地の所有権を差し出す代わりに
法的な「所領の安堵」が行われていたのでしょう。
ただ、このシステムだと、結局土地所有権が安定しなかったし、
そのときどきの権力によって、土地の裁判の結果が左右された。
実際には、土地の開墾から実質支配まで、その現地の連中がやっているのに
理不尽な権力機構の裁量で不安定だった。
そういった状況に対して、革命を起こしたのが
頼朝を盟主として、蜂起した関東「武士」団だったのですね。
鎌倉権力の基本は、自分たちが開墾した土地を
自分たちの持ち物として、認めさせるためのシステムだった。
そのために、それまでの権力にはなかった
「恒常的武力強制集団」としての「幕府」が誕生した。
アジアのなかで、きわめて特殊な発展をした日本の歴史の
最大のポイントはここだったと思うのです。

この革命の結果、土地の私有概念が完全に根付き、
権力の分散化、というか、封建のシステムが準備されたということなのでしょう。
そのあとにくる欧米的近代社会システムをスムーズに受容できた
いちばん大きなポイントだったと思う次第。
土地へのこだわりが、日本の歴史を動かす最大のパワーだったのです。
この検地の記録や絵からは、こういう歴史が実に生き生きと感じられます。
封建システムの完成として、こういう検地は行われた。
日本人と土地。
権力というのは、ここだけにこだわってきた歴史なのですね。
土地の上に建つ住宅、って、こういう日本人的な歴史要素も
いっぱい込められてきているものだなぁと、最近強く思っているところです・・・。

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2006年07月29日

水車小屋って、知ってますか?

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わたしの家って、広島県の福山市近郊の、今津というところから
大正のはじめ頃に北海道に渡ってきたという家系です。
北海道の人間って、たぶん多くの人がそれぞれの故地から「故あって」
この地にやってきた人たちだろうと思うのです。
なので、あまり当時の詳細な事情は話したがらないものなのでしょう。
わたしの家系がなぜ、北海道にやってきたのか、
詳しいことはわからないのです。
おじいさんは末っ子だけれど家督を継いだ、ということ。
長男の人が継いでいたのが、その後やむなくおじいさんが継いでいた事実。
そんなことから、事情を推し量るくらいしかできません。
当時は、入植した土地で必ずしも農家になる、ということではなかったのですね。
もちろん、開拓農家としてその農業技術が認められて入植した家などは
当時の開拓使、あるいは北海道庁から
土地を与えられてか、もしくは廉価に分け与えられて、
さまざまな作物を栽培して、農業経営に取り組んだのでしょう。
わたしの母方の家は、そういう家だったそうです。

って、前置きばかり長くなってしまいました。
要するに、北海道に入植したてのころ、わが家では一時、
「水車小屋」を営んでいたそうなんです。
水車小屋は自然利用の動力装置ですから、
脱穀など、利用用途が広かったのでしょう。
が、わたし、水車小屋って、実物をじっくり見たことがなかったんですね。
兄たちに聞くと、彼らの年代は知っているんですよ。
先日、仙台にいたときに少し時間があったので、
みちのく公園に行ってきまして、古民家などを写真撮影してきたとき、
ちょうど、おあつらえ向きに、あったのですよ。
へぇ〜、こんなふうになっていたんだ、と
しばし、おじいさんの世代のことを想起してみた次第。
この装置を作るには費用もかかっただろうし、その費用の回収、
どういう計算が建てられて、もうけはどれくらいだったのだろうか?
あるいは、そういう商売ではなかったのかも知れないなぁ、
などなど、わき上がってくる疑問や、思いが尽きません。
やっぱり生きて動いている実物を見ると、
想像力が生き生きとわき上がってくるものなんですね。

こういう仕掛け、その当時は一般的に造作はされていたのでしょうが
いまとなっては、どうやって作るのか、難しいでしょうね。
でも、接してみると、実にうまく考えられた装置で
こういうからくり技術がいろいろな技術のベースになっていったのでしょう。
まさに、サスティナブル(持続可能)な社会技術だったのですね。
しばし、時間を忘れて、見入っていたのでした・・・。

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2006年05月19日

国宝松本城

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松本にせっかく来ているんだから、と訪れたのが松本城。
平野の真ん中に立っている「平城」なんですが
堀がたっぷり巡らされていて、外観的には堀越しの水城風のものがポピュラー。
石垣という名前の基礎のうえに櫓造りの本体が乗っかっています。
全体で6層で、高さが大変強調されていますね。

でも、こういう城郭建築では
権力の誇示や、戦争の機能面がメインテーマなので
あんまり「個人の生活」というにおい立つ部分って
感じることは少ないものです。
まぁ、こんなもんだろう、と
城郭本体から出口に至る寸前に、「月見台」といわれる
本体建物に突き出すように建てられた建物に出ました。
城郭は、基本的に戦争、それも防御を中心に考えるものですから
現代生活のような「開放感」重視、というのはありえないのですが
このコーナーは、そういうイメージではなく
まさに「自然をめで、楽しむ装置」でしたね。
建具を取り払ってしまうと、3方向がすべて開放されます。
それこそ、月の美しい夜に酒を酌み交わすような
そういう一期一会を楽しむ空間だと思います。
思わず、床面に座り込んで周囲の風景を眺めわたしました。

まぁ、きっと鼻持ちならない権力者の贅沢三昧ではあったのでしょうが
そういう個人的な、というか情緒的な「文化」はこういう部分で
こんにちまで繋がってきているのですから、
そのものとして受け止めるべきでしょう。
2階建てほどの高見から、四季折々の自然が満喫できただろうと思います。

でも、冬は寒かったでしょ、お城のお侍さん。
現代では、きわめて一般的な庶民が
ちょっと考えて建物を作れば、あなたたちが絶対体験できなかった
「あたたかい冬」が過ごせるのですね。
ということで、住宅性能を科学する新住協の総会、全国から200人ほどの参加で大盛況です。
この様子は、あすから若干触れたいと思います。

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2006年03月14日

世界遺産・中城城

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さて沖縄シリーズ、きのうはやや社会ネタで、皮肉気味でしたが、
きょうは少し歴史教養系ネタということで。

行ってきました。
これも気になっていた、「中城」〜なかぐすく〜城跡。世界遺産なんです。
あんまり知識がなかった分、現地で見て、もうぶったまげましたね。
一目見た感じは、南米なんかのインカとか、マヤの遺跡と通じた感じ。
同じように石積みしているからそう感じるのでしょうか。
石積み技術の圧倒的な歴史的蓄積を感じますね。
日本に開国を迫ったアメリカのペリーさんは
そのまえに沖縄を「訪れて」いて、この城を見て、とくに真ん中のアーチの門を見て
その建築土木技術水準の高さに驚嘆したのだそうです。
詳細な報告文を書いているそうです。
遙かな後年、アメリカが沖縄を攻撃した時期、
当時町役場が置かれていたこの城の建物や、その資料が
米軍に接収され、その技術が利用されると困るという狭小な考えから
軍国日本国家により貴重な資料もろとも放火され、灰燼に帰したそうです。
なんともまぁ、バカ極まりないことをしたものですよね。
しかし、木造の城郭建築は焼失しても、
炭素年代の永続性があるこの石積み構造群は、
この遺跡の価値を十分に伝えてくれます。

琉球王国は歴史的に中国との交易で栄えた貿易立国国家だったのですね。
その王様とは要するに商人的な存在だったのでしょう。
その富と力は、こうした大土木技術を発達させるだけのものを持っていたのです。
最近、与那国島沖の海底に発見された海底遺跡も、
その構造は、この中城とよく似た構造を持っているといわれています。
太古の昔から、琉球は、その地理的な位置から
こうした建築的文化を連綿と保持するような歴史年代を過ごしてきた、
誇り高い地域・国家だったのでしょうね。
一番高台の丘陵城からは、東シナ海と太平洋が一望され
ここが確かに軍事的にも、琉球にとって要となる要衝・要塞だったことは、まさに明確でした。

あした以降、ご紹介したいと思っている「中村家」住宅も、すぐ近く。
この城の城主に請われた建築技術を持った、中村家初代が建てた家なんだそうです。
ようするに昔の「建築家住宅」のようなんですよね。
ということで興味深い、沖縄シリーズ、もうすこし続けたいと思います。

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2005年12月31日

吉野ヶ里再見_4

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さて昨日もちょっとふれましたが、吉野ヶ里の大型建造物。
写真の左側なんですが、これは・・・城ですね。
下側が、木柵で隠れていますが、高床式で3階建てになっています。
最盛期の人口が、5000人を超えていたという吉野ヶ里。
こうした集団を統御する権力の象徴、示威だったのでしょうか?
文字がやがて輸入され、歴史として遺されている時代の
日本の権力のあり方と、ほとんど変わらないといえますね。
たとえば戦国期の一地方権力のありようと比較しても、明確な類似性がある。
右側は2階の広間の様子。展示は会議?の様子を再現した人形群。
この写真中央にいるのが実質的な権力者なのでしょうね。
さらにこの上階、3階には、ほぼ卑弥呼とおぼしき
神懸かりする女性による、占いか、祈祷のシーンが展示されています。
このあたり、日本的な権力の有り様を、かなり意識しての想像なのか、
それともかなり研究が進んで、ほぼ史実とおぼしき演出なのか
いずれにせよ、かなりリアリティが感じられます。
たぶん、このように日本の権力は構成され、民衆を圧伏してきたのでしょう。
天皇制に繋がってくる権力システムの素型があります。
また、この区画に至る順路は、複雑に道が曲がっています。
これも、日本の城郭の作り方の基本を押さえてもいます。
防御のため、敵の進入路を複雑にしているのですね。

ちょっとうがった見方をすれば、
この吉野ヶ里はいちはやく国立公園的に整備されましたが
一方で、青森三内丸山の「縄文の都」はいまだそこまで保護はされていません。
今に繋がる日本型権力として、吉野ヶ里に強いシンパシーを感じているのかも知れません。
って、まぁ、単に遺跡研究が進んでいるかどうか、の違いだけなのでしょうが。
ここが邪馬台国だった、という決定的な証拠は出ないまでも
どう考えても、邪馬台国論争にたいへん大きなインパクトを与えた遺跡です。
これからも、何度も訪れて、ふたたびいろいろな体験をくれそうな
吉野ヶ里の再訪問でした。 息子よ、付き合ってくれてありがとう、な(笑)。

さて、きょうで2005年もお仕舞い。
あんまり意味はありませんが(笑)、無休でブログ書き続けてきています。
こうなったら、ブログのギネス記録に挑戦と言うことで
<そんなの、まだ、ねーだろーが!>
新年からも、頑張って書き続けますので、どうぞよろしくお願いします。
みなさん、よいお年をお迎え下さい。 ではでは。

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2005年12月30日

吉野ヶ里再見_3

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どうしても家のことが気になるのが性でして(笑)
昔の家って、どういう開口部のディテールなんだろうって気になります。
今、展示されている竪穴住居や、大型の窓付き建造物の開口部写真がこれ。
いまでも当時とそれほど変わらない住宅技術水準のアジア南方地域とか
参考にしています、ということでした。
そうした発掘や研究成果を総合してこうした開口部を展示していると思われます。

どちらも、開口部材・ドアとか窓板を上下させて開閉させていました。
右側の窓は、大型建築物に使われているものです。
この建物、一目見て、これが本当なら、完全にここは「邪馬台国」だべさ、って感じ。
それはさておき、柱には、たぶん鉄器の「ちょんな」による仕上げも施されています。
これはなるべく面として平滑に見せるために、表面を仕上げるもの。
説明を聞いても「ちょんな」による仕上げは遺物から確認されるんだそうです。
こうした技術が使用されているとなれば、ということで
こんな開口部が実現できても、異論はないということなのでしょう。
真ん中につっかい棒があって、窓枠の下部分に穴が開けられ止まっています。
屋根の軒があるので、これで十分、雨とかにも問題はなかったでしょうね。

ふーむ、という感じで見ておりました。
こういう仕様で、たしかに問題なく機能できただろうな、と。
いや、九州地区で、北側に高い山地を持っているという土地・気候条件。
そうしたポイントを併せて考えると、無断熱住宅は、いまでも多く建っているのですから(笑)、
現代でもまぁ、使えるんじゃないでしょうかね。
いやむしろ、茅葺き屋根の温湿度調節機能も考え合わせると
現代建っている住宅より、いい性能である部分もあるのでは、と思われました。

ことしも、日めくりでも、カレンダーがついにあと一枚。
このブログも、8月開始以来、なんとか休むことなく続けてこられました。
あんまり、コメントやトラックバックって、返ってこないブログです。
たまにコメントいただいても、ほとんど返信もできませんでした。
でも、見ていただける方がいると言うことで続けてこられました。
感謝します。それで、これからも書き続けていきたいので
ROM専門でけっこう(笑)ですから、ご愛読をお願いします、ね。


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2005年12月29日

吉野ヶ里再見_2

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行った日は、公園スタッフ・弥生人
(って、自己紹介していた〜笑)のみなさん総出で大掃除中。
環濠のゴミとかを掬いだしては、きれいにしておりました。
で、残っていた人から弥生のお茶、麦茶らしきモノを振る舞ってもらった。
これの加熱、ごらんのように弥生式土器で、石の置き方なども吉野ヶ里式。
ごちそうになると、ほとんど無味だけれど、ほのかな滋味のかおる味わい。
吉野ヶ里では、左の写真のような居住室内部では、暖をとる以外の
煮炊きのための囲炉裏はなかったそうです。
食事の支度はもっぱら外、もしくは専用の煮炊きの建物でしていた。
飲料水は、わき水が豊富に出る場所がたくさん発見されているそうです。
食べ物は主食のコメはもちろんですが、
そのほかにも、周辺で採取可能な多様な動植物を食べていたようで
なかなか豊かな食生活なんだとか。

住むための居住区域は明確に分けられていたけれど、
内部の様子は、調度のたぐいに多少の貧富の差が見られる程度で
そう、大差はない。居住用の建物は、寄せ棟や入母屋型で茅葺きの屋根。
玄関は、板戸が使われていたようですね。
ほとんどが半地下タイプで、居住性は案外高そうです。
床はよく突き固めた土間。寝る場所は一段高くなっていてベッド状。
キッチンやトイレは外にあるわけで、
この家は現代で言えば、居間と寝室だけの空間ですから
そう考えると、広さもほどよく、快適な暮らしともいえるかも知れませんね。

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2005年12月28日

吉野ヶ里再見_1

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今回の旅の目的は、やっぱりもう一回吉野ヶ里に行きたかった、
ということ、のようです。わたしのなかで。
息子の歴史教育の役に立てば、という淡い期待は持っていたのですが
まぁ、まだ無理みたいだった、というかあまり興味はなかったようで
「体験工房」での勾玉つくりに精を出していました。
ま、これも面白かったんですけどね。

初めて吉野ヶ里に行ってから、6〜7年経っていまして、
その間、多くの研究や遺跡の国立公園化整備が進んだようで、なにより
わかりやすい建築群がたくさん建築されていまして、興味津々。
まずは、写真左「大人〜たいじん」と呼ばれる環濠内部の支配層の家。
吉野ヶ里は想像以上に階級分化が明確な社会組織だったようです。
というか、日本のコメ作りとクニ社会の成立って
やはり表裏一体の関係だったんだな、と思い知らされます。
多分、大陸から社会全体が移住してきたという感じのようなのですね。
コメ作りは、全プロセスで労働の集中的な動員が必要ですが、
その意味で、命令する権力と、農奴的に支配される被支配者との関係が明確。
右側の写真は、環濠の外側の被支配者居住区と農業生産用の建物群。

左右の写真の間には、柵と城塞が存在し、階級分化をあらわしています。
吉野ヶ里の入り口近くには防御装置である「逆茂木〜さかもぎ」もありますが、
こうしたクニ同士が争い合うのが、日常茶飯的だったようなのです。
まさに、コメ作りとともに、戦争もこの国にもたらされた・・・。
だから、環濠が巡らされ、柵で防御し、農業生産性の向上のために
権力が管理する形で「製鉄」が行われ、スキ・クワづくりとともに
殺し合いのための武器も生産されていた。
農業生産と同時に、
他のクニと血みどろの戦争によって領地争奪が繰り広げられていった。
日本という国は、その初源的なかたちから、
どうもこうした社会だった・・・ようです。

それ以前の、狩猟採集型の縄文社会が
この弥生的なシステムに置き換わっていくわけですが、
生産性の向上が図られる一方で、殺し合いも進化していった、
というのが、日本歴史の実態のようですね。
これを悲しいととるか、自然ととるか、見方は分かれるところです。
しかし、多くの研究の成果で、こうした社会実態の解明まで
吉野ヶ里は実に多くのことを教えてくれますね。
年末年始のこの時期、ちょっと、このシリーズ続けたいと思います。

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2005年12月20日

東京の銭湯

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先日から紹介している「江戸東京たてもの園」探訪です。
わたし若い頃、ってそんなにじいさんではないのですが(笑)、
東京で大学〜就職したもので、よく銭湯にはお世話になっていました。
東京っていう街は、江戸期以来銭湯の文化を持っていた土地柄だろうと思います。
家に風呂がある、なんていうのはよっぽどでなければあり得ないケースで
そういう家は、使用人がいるようなお屋敷だったのでしょう。
一般人は、こうした銭湯が一日の疲れを癒してくれる場であり、
衛生面を支える大切な社会維持装置であり、
地域のコミュニケーションを作り出す最大の社交場でもあったのだと思います。
建物としてみたときには、民間の最大の大型建築で
一般的に2層吹き抜けくらいの高さを持っていた。
この銭湯は、東京の銭湯をまさに代表するような建物で、
神社仏閣を思わせるような大型の唐破風や、玄関上の七福神の彫刻
脱衣所の格子天井など、贅を尽くしたもの。
中には、いろいろな地域の店の広告があったりもしていましたから、
まさに地域の中心的な集客娯楽施設だったのでしょうね。

銭湯といえば、なんといっても浴槽の壁に描かれたペンキ絵!
タイル下地に、だいたいが富士山とか描かれているのが一般的。
って、なんでなのか? やっぱ、日本人の感覚の中に、開放的で
大きい空間認識というと、富士山、という刷り込まれたような認識があるのですね。

あまりにも日常的な銭湯が、なぜ移築保存されているのか、
わたしたち年代から下の人たちは、こういう銭湯に行ったことがないという人も
きっと多いからなのでしょうね。
こういう銭湯に、今日の温泉ブームを重ね合わせると
日本人の娯楽の原点、っていうことが強く感じられます。
昭和って、つくづく、遠くになってきたなぁ。


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2005年12月14日

初期の「田園調布の家」

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関東の住宅シリーズ、その2です。
今、高級住宅の代名詞になっているのは、やっぱ地名。
そのなかでも「田園調布」っていうのは、わかりやすい高級住宅地。
その初期に建てられた住宅がこれ。
関東大震災で密集した街並みの結果、類焼した経験から
復興期に、「田園住宅」という発想が生まれ、アメリカの郊外型住宅をコンセプトに
ゾーン開発された、という経緯が説明書きに書かれています。

平屋で、屋根の連なりでデザインがまとめられ、
たっぷりの庭に対して開かれた間取り計画。
内部は、当時考えられた「欧米住宅」のエッセンスが凝縮されていて
和室もありません。調度や壁紙のデザイン、
水回りの設備、ガラスの多用などなど、
今日に連なってくる日本のモダニズムというものが理解できる。
ここから、こうしたものへの強いあこがれから
日本の現代社会文化は始まったんだ、というように感じられます。

建てられた当時は、きっとたいへん異国的で、
目指すべき近未来の日本人の暮らし方の形を明瞭に示していたのでしょうね。
司馬遼太郎さ